4 女の子が恋したのは坊主頭の男
顔を上げると、夏の強い日射しが緑の濃い影を私の顔に投げかけてきた。流れにも夥しい緑が降っていた。 少女の熱い肌で火照った私の頬を風が吹いた。少女は話の続きを待っていた。流れの上で光が幾条も踊り戯れて、囃し立てた。 「お城に住む女の子は心に秘めた秘密をもって待っていました。恋をしていたのです。その人のことが忘れられないのです。でも、女の子はどうしたらよいのかわかりません。ただ苦しくってしかたがないのです」 私は人を愛するということがわからなかった。目の前にいる少女が愛の対象なのか、たんに私の心を潤すだけなのか。そのために少女を心に閉じこめているだけなのかもしれない。ただ、一緒にいたかった。 少女がいつまでも私に笑いかけていてほしかっただけだ。だから、少女の心が満たされるように生きていた。それは嘘なのだろうか、私の弱さからくるものなのだろうか、それが少女への愛だったのだろうか。 「女の子が恋したのは、海辺を走っている男でした。男は上半身裸で、坊主頭でした。全身が鍛えられて、筋肉の固まりになっていました。男は朝、陽に輝いている岬に向かっていき、夕べに黄昏の迫るこちらに帰ってきます。夜、女の子は堅い城壁の向こうに走る男の息づかいを感じました。ナゼ、走リ続ケルノデスカ。休マナイノデスカ。女の子は男への思いを祈りに託しました。その祈りのなかに、男がお城から攫ってくれるように願いを込めました。毎日、祈っていました。すでに、お父さんとお母さんは嵐に飲まれて死んでいました。城にはだれもいません。私ハ答エヲ探シテイルノデス。男は夢の中でそう話しました。月が浜辺を照らし、遠い国の出来事を少女にしてくれていたときです。そうして、走るのをやめない男は女の子のところには来ませんでした」 「男はまだ走っています。女の子はバルコニーに立って、男の行き来を見守っているしかありません。心で男に語りかけると、謎の呪文のような言葉が男から返ってきます。女の子は問います。私ノ愛ヲ断ッテイルノデショウカ。イイエ、ソウデハアリマセン。時間ガタテバ、ハッキリトシテキマス。ソレハ何時ノコトカ、私ニハ分カリマセン。タダ、貴女ノ心ガソレヲ決メルノデショウ」 「ある日、その呪文の謎が解けました。突然、降って湧いたように昼食のテーブルについていたときでした。紅茶の香りがいつもと違う思いました。パンの焼き具合が違う。テーブルクロスの白さが違う。何もかもいつもと違っていました。そのときです、謎の扉が開いたのは。女の子はその謎が彼女と男を結ぶ幸せの呪文だと思いました。すぐバルコニーに立つと、岬の灯台に向かって走っている男の姿を追いました。見えるはずがありませんが、じっと目を凝らしました。顔が熱く火照っていました。すると、女の子には灯台の入口に向かって駆け込む男の姿が見えました。ささくれだった板戸が前に立ちふさがっています。取っ手はありません。体当たりして板戸を押しのけました。目の前に螺旋の階段がありました。一人通ればやっとの広さです。男は駆け上がっていきました。階段はコンクリートでできていて、男の汗がしみのように濡らしていきました。周囲は窓のない壁なのに明るいのです」 「どれぐらい上ったでしょうか、男は最上階に立っていました。裸足でした。そこからは青い海と空が開けていました。灯りの前に踏み台が置かれていました。男は大きく息を吸い込むと、台の上に乗って体を反らして飛び上がりました。伸ばした首の先に太い木の梁から下がった縄の輪がありました。輪の中に陽が輝きました。一瞬、暗くなりました。明るさが戻ると、男の身体は宙に大きく揺れていました。男は自分の体を確かめるようにぶら下がっていました」 「夕闇が迫っていました。灯台の灯りが少しずつ明るさを増していきました。海は静かです。岩礁に数羽の鳥が舞っていました。遠くに浜辺が見えます。男は呟いていました。アナタハ謎ヲ解イテシマッタ。俺ハ走ル必要ガナクナッタ」 「そののち、女の子はバルコニーで泣き続けました。海の向こうに陽が沈んでも、山の端から陽が昇っても、いつまでも涙を流し続けていました。いつしか女の子の目からは赤い涙が流れていました。真っ赤に服が染まっていきました。その姿を夕陽がさらに赤く浮かび上がらせました。ある日、たくさんの鳥が飛んできました。白い鳥です。女の子の周りを飛び交いました。小さな軽やかな羽が女の子の上に降りました。羽で姿が見えなくなるころ、一陣の風が海から吹きました。すると、ぱっと羽の山は舞い上がり、女の子は羽に包まれていました。白い鳥になっていたのです。白い羽は陽にキラキラと輝いて、たくさんの鳥に交じって岬の灯台に向かって飛んでいきました」
私、白イ鳥ニナリタイナ。私の話を聞いていた少女が言った。 私と少女は河原の浅瀬に黒いしみが背後から迫ってきても、静かに互いを見ていた。それから、ぼんやりと明るい流れに少女を沈めた。少女は私に身体を預けていた。目を閉じてうっすらと笑っていた。 私は薄い皮膜のように流れる水の下に少女の顔を見ていた。 眠っているようだった。 薄い闇が両腕を痺れさせてきた。私は、少女が白い鳥になって舞い上がるのを待った。だが、少女はいつまでも起き上がらなかった。 水の中で目を閉じた少女の顔は美しかった。蝋人形のようだった。生キテイテモショウガナイカラ。少女は一度だけ目を開けて私に笑った。 私は、手を離した。少女はゆっくりと流れていった。
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