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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第37回   37 激しい雨のなか老婆はドブに落ちた

37 激しい雨のなか老婆はドブに落ちた


 すっかり暗くなっていた。家で祖母が心配しているだろうと思った。きっと、佐々木の家に問い合わせているだろう。でも、家の者が迎えにこないところを見ると、佐々木は秘密基地を教えていないと思った。
 雨が降り始めた。
 手の平を広げると雨粒が跳ね上がった。空を見上げると、ほてった頬に雨粒が快くぶつかってきた。
 私は黒い染みを広げ始めたアスファルト道を横切って、地蔵の立っている坂道を一気に下って、老婆の小屋が見える柵の陰に隠れた。前に隠れたときより枝が伸びていた。
 刺のついた葉が耳元で激しく鳴った。顔にも、握りしめた両拳にも雨は当たった。大粒の雨だった。私を叩くようだった。
 私は、その場でじっと待った。
 老婆はきっと気づいてくれるはずだ。私がこんな思いをして待っていることを知っているはずだ。じらさないでくれ。

 ……嘘ヲツクト仏サマガオ怒リニナルンダヨ。

 私は祖母に連れられて行った古い寺院のなかに立っていた仏像を思い出していた。
 幼い私に手を合わせろと言って、自分も手を合わせて深々といつまでも身をかがめていた。なんでこんなときにと思いながら、その姿が私の前に立ちふさがってきた。目を閉じると、よけいにその仏像が浮かんできた。
 仏像は両腕を胸の前で合わせ、両方の人差し指を顎の近くで立てていた。背中から別の腕が突き出ていて、それぞれに長い棒や短い棒を振りかざしていた。よく見ると、脚が六本あって、三つの仏像が重なって一体になっているようだった。太い角のある重そうな大きな生き物にまたがっていた。
 頭の背後から真っ赤な炎が吹き出ていた。
 「嘘をつくと、仏さまがお怒りになるんだよ。人を騙してもいけないよ」。祖母は何度も手を合わせて祈った。
 生キルトハ、ドウイウコトカ。オ前ノ姿ヲ見ロ。炎は私を睨みつけるように強く燃えあがった。私は祖母の着物の端をきつく握っていた。
 明かりが差したような気がした。
 老婆が戸を開けたのだ。
 頭に布を被って、石油缶を両手で持っていた。前のめりになりながら、ふらふらとドブのほうに歩き始めた。
 私は急に寒くなった。膝が震えた。止まらなかった。
 老婆の歩みはゆっくりしていた。
 殺サナクチャイケナインダ。今ダ、今ダ、今ヤラナキャ、デキナイゾ。
 雨が強くなった。
 頭を打ちつけるような降り方になっていた。
 私は膝頭をしっかり押さえて立ち上がった。目をこすらないと雨で前が見えなくなってしまう。
 地面に雨粒がはじけて跳ね上がった。まるで海面にいるようだった。老婆の姿も見えにくかった。
 刺のある葉が手の甲を刺した。少し痛んだ。
 私は流れる雨に顔をしかめながら、両腕を前に伸ばして歩いた。舟に乗っているように身体が揺れていた。
 まだ、着かない。このままどこかへ行ってしまうのか。
 ずいぶん長い道を歩いたようだった。
 向こう側の坂道から激しく水が跳ね上がるように流れてきていた。突然、目の前に黒い塊があった。
 両腕を胸のところまで引きながら、近づいた。
 目を閉じた。
 腕を強く突き出した。
 両腕に重さを感じた。それから、軽くなった。錆びた金具をすりあわせたような音が耳に残った。
 目を開けると、雨が目のなかに流れ込んできた。

……アノババア、死ンジャッタヨ。

 学校の昼休みに私が校庭の隅の花壇に一人でいると、佐々木と伊藤が近づいてきた。咲き終わったヒマワリが途中から折れて垂れ下がっていた。くすんだ茶色の花びらが重なり合っていた。そこからいくつかの実を取り出した。噛むと、油臭かった。
 「Fちゃん、知ってる。あのばばあ、死んじゃったよ。きのう、ドブに落っこちたんだって。勝手にね」
 佐々木が複雑な顔をして話した。
 「パン屋のおばちゃんが今朝、見つけたんだって。おやじが言っていた。近所じゃ大騒ぎさ。昨日の雨だろ、滑ったんだろうって」
 私はあのとき、佐々木の父親らしい男が外に野菜の箱らしいものを運び出しているのを見た。佐々木の親父ではなかったかもしれない。
 私も目を開けていられなかったから、その男は一人で立っている私に気づくはずはないと思った。
 だが、その影はしばらくこちらを向いていた。私が後ろ向きになって駆けだそうとしたとき、スーパーの中にその影は見えなくなっていた。
 「健ちゃんのお父さん、僕のこと、何か言っていなかったかな」
 「どうして。おやじは、ばばあの死んだことで忙しいのさ。あれで、面倒見屋だし、町内会長だから。町内会で葬式を出すって言ってたよ」
 「うちのかあさんが言ってた。手伝うのが面倒だって。掃除するのが嫌だって。あの小屋、どうなっているかわからないものな」
 伊藤が口を尖らせて言った。
 私たちは放課後、秘密基地で会う約束をした。
 基地に行くと、佐々木がやはり一番に来ていた。
 リンゴが箱の上に置かれていた。
 私を見ると、死んじゃったよな、簡単だよなと念を押すように言った。小さな果物ナイフで三つに切り分けた。相変わらず器用だなと私は思っていた。
 伊藤はスルメを持ってきた。私はチョコレートをくすねてきていた。きょうは宴会だね。伊藤がうれしそうに言った。
 佐々木は笑わなかった。妙に沈んでいた。下を向いて自分の分のリンゴの皮を剥いていた。


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