33 生命は灼熱で焼き尽くされた
私は、舟の流れの下にも男に抱かれた女がいるのに気づいた。 女は青ざめた顔色をしていた。絶望した女のように顔に髪が張り付いていた。 目を凝らして水の中を見ると、死体のような白い肌の女が何人も流れの底に目を閉じて沈んでいた。老婆に問いかけようとすると、老婆はまた後ろを指さした。その先にライオンの顔をした金属がつけられた扉があって、その前に静かに舟は着いた。 扉を開けると、部屋の中は大混乱だった。私は強い力で背中を押された。扉は背後で大きな音をさせて閉まった。 目の前は火の海だった。人々が苦しんでいた。 左手には爆弾が落とされているのか、真っ赤な炎が幾筋も上がっていた。その手前で十字架に架かって血を流している裸の女が焼かれていた。燃え盛る炎の下を子どもや大人が逃げ回っていた。 尖った屋根、丸い屋根、四角な屋根、全てが燃えていた。 目の前の道を何人も乗せた荷車を一頭の馬が曳いていった。車軸がいまにも折れそうに軋んでいた。ほとんど衣類を身につけていなかった。 母親らしい女が小さな子どもが横たわるそばで口に手を当てて泣いていた。母親の髪は白髪になっていた。その隣で首がちぎれてしまっている女に顎鬚をたくわえた男が本を読み聞かせていた。
……汚サレタ。汚サレテシマッタ。
遠方に両腕を広げて立っている裸身の男がいた。 男は天を仰いで、何事かを呼びかけているようだった。その足下にたくさんの人影が蹲っていた。空からは黒い布がゆらゆらと舞い降りてきていた。その布に巻き付かれると、人々は倒れた。毒ガスだった。 鉄砲や大砲の音がした。 右側の燃える町の炎の中からたくさんの兵隊が現れた。緑色の戦闘服に身を包み、全員が黒眼鏡とマスクをしていた。 倒れている者を銃剣で突き刺した。細い銃口から炎が吹き出した。衣服や皮膚が燃えあがった。 逃げる者は格好の標的になった。転んだ子どもの上を大人たちが逃げ回った。その上を兵隊が走り回っていた。 町は略奪に遭っていた。 諦めて泣くだけの母親の肩に手をおく子どもたち。その様子を空から白い馬が見つめていた。腐臭がまち全体を覆っていた。 白い馬は語り始めた。 「生命が消えた。人と物が灼熱で焼き尽くされた。その痕跡が建物に残った。それは永遠に忘れ物にしてはならない。人は男だ、女だ、子どもたちだ。そして、老人だ。 彼らは自分がそんなかたちで生きているのを知らない。時を逆回転できるなら、男と女は影から姿を現すだろう。子どもたちも嬉しそうに飛び出てくるだろう。老人は朝のすがすがしさに深い呼吸をするだろう。 妻も夫も同じようにこの惨禍に飲み込まれている。子ども、老人、みんな同じ言葉を叫び、自分の苦しみ、悲しさを語っている。しかし、これは何度も繰り返されてきた。惨劇は再び引き起こされているのだ」 突然、暗い空に向かって白い馬は高い声をあげた。 「ぬくぬくと生きてきた薄汚い奴らがいる。その名は言うまい。ただ、許しておけない奴らだ。そいつらがその後もずっとこの国に君臨してきた。そして、いつも美しい言葉で自分を飾ってきた。正義を語り、道理を語り、国の美しさを語った。それで、この国の民は幸せになったか。民はいつも騙されて、大きな犠牲を払ってきた。この国の民は、この国を喜んでいるのか。相も変わらず、ぬくぬくと生きてきた奴らがいい思いをしているだけではないか。子どもが泣いているのだ。その涙に値するものは彼らにはない。だが、彼らは断罪されることはない」 私は、窓から流れに吐いてしまった。 周囲にとても嫌なにおいが立ちこめた。 オ前ノセイダ、オ前ノタメニ、コノ流レハ汚サレタ。 周りから怒りの声が沸き起こった。 汚サレタ。汚サレテシマッタ。ダレガヤッタノダ。Fトイウ無知ナ男ガ、コノ平和ヲ乱シタノダ。
……モウ許シテクダサイ。
部屋の中は突然暗くなって、しばらくすると物の輪郭が見えてきた。明かりがどこからか差し込んできていた。 大きく見開かれた目を持つ鳥が私を睨んでいた。頭に冠を被って、鋭い嘴を私に向けていた。いまにも突き刺しそうに嘴を開いた。 馬が怒りの目を向けていた。胸をはだけた女が罵っていた。ピエロが剣を握っていた。花が憎しみを込めて咲いていた。 モウ許シテクダサイ。 私は白い道を逃げた。くねくねとうねった道だった。 布に包まれた四角の入れ物を両腕に抱えていた。 脇のドブから腐った匂いがしていた。 どんよりとした緑色の水が土手からせり上がってきた。そこにたくさんの魚が飛び回っていた。みんな腐った目をしていたが、死んではいなかった。貪欲に周りにあるものを飲み込んでいた。 私を見つけると、鋭い歯をかみ合わせた。 水の上で大きくはねた。臭い水が私の頬に当たった。 魚は、地面にはい上がってきた。怒りで鋭い歯を打ち鳴らした。目が飛び出しそうに突き出ていた。 私は、古い家の玄関に駆け込んだ。ガラス戸を開けると急な階段になっていた。私は叔母の名前を叫んでいた。 階段の上から叔母が姿を見せた。 乱れた髪が頬に被さっていた。叔母は明らかに疲れていた。その後ろに、あの嫌な教師が笑いながら現れた。 「仕方がないのよ、どうしようもなかったから」 叔母は言った。 「これで我慢していけば、いいのよ」 「嫌ダヨ、コンナノ」 「お前のお父さんがこうしたんだよ」 「オ祖父チャンヤ、オ祖母チャンハ、ドコニイルノ」 叔母は黙っていた。 教師がにやにやと笑って叔母の首筋に手をおいた。手はゆっくりと叔母の胸のあたりに入っていった。 叔母は教師のほうを向いて顔をしかめた。教師の腕に手を添えたが、軽く押しただけで払いのけなかった。 「オ祖父チャンヤ、オ祖母チャンハ、ドウシタノ」 かがみ込んだ叔母は、私のほうに手を伸ばして指差した。 私は抱えている包みを見てから、叔母を見た。叔母は頷いた。教師の手が叔母の顔に被さってきて、そのまま叔母は階段の後ろに消えた。
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