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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第30回   30 人殺しは常に正当化される

30 人殺しは常に正当化される


 長い時間をかけて、針金を外した。
 私は、猫を腕の中に抱えて頬ずりをした。猫は目を閉じて嬉しそうにしていた。
 産毛のような毛が生えている薄い耳を軽く噛んだ。
 柔らかい。
 前歯に力を入れていくと、耳が裂けて下の歯とあたった。しばらくすると、口の中に甘い蜜が広がっていった。
 さっきまで寒くて震えていたからだが温かくなっていった。
 畑から日中の暑さが立ち上ってくるようだった。
 星が明るくなった。ヨウヤク、僕ラハ一緒ニナッタ。友ダチダ。

……僕タチハ逃ゲタ、カタキヲ討ッテクダサイ。

 私の前に影のような男が現れる。佐々木からの電話があって以降、その男の言葉は明瞭になってきた。決まって後頭部が痛んだ。
 アノ町デハ同ジ人間同士ガ殺シ合ワサレタ。働ク者ガ分断サレテ、互イノ血ヲ流シタ。何日モ何日モ啀ミ合イハ続イタ。
 アノ朝ガ来タ。
 会社ノ命令ヲ受ケタ労働者一〇〇〇人ト警官隊ト、ソシテ怪シゲナ男達ガ正門前ニヤッテ来タ。爆竹ガ鳴ッタ。待チ構エテイタ労働者五〇〇人ト、ソノ家族ガ整列シタ。睨ミ合ッタ。
 「我々ノ就労ハ合法デアル。直チニ包囲ヲ解イテ、構内ニ入レヨ」
 「オ前達ハ、会社ニ騙サレテイルノダ。我々ノ戦列ニ戻レ」
 警笛ガ鳴ッタ。ソレヲ合図ニ、警官隊ガ一方ノ労働者ニ打チカカッタ。
 釘ヲ打ッタ棒ヲ振リ回ス男達ガ横カラ襲イカカッタ。
 女ヤ子ドモタチノ悲鳴ガ上ガッタ。
 男タチノ打チ下ロス棒ノ鈍イ音ガ、アチコチデ響イタ。ソノタビニ、女ヤ子ドモタチノ悲鳴ガ起キタ。
 警官隊ノ警棒カラ血ガ飛ビ散ッテイタ。彼ラハ、口元ニ笑ミヲ浮カベ、白イ歯ヲ覗カセテイタ。
 彼ラハ、ソレガ正当ナ仕事ダト思ッテイタ。家ニ帰レバ、可愛イ子ドモト妻ガイル。生キルタメニ、今日一日ノ仕事ヲ懸命ニ果タシテイタ。
 夕暮レニナッタ。
 一方ガ、少シズツ追イツメラレテイタ。ソシテ、最後ハ警官隊トソレヲ要請シタ会社ガ勝ッタ。
 負ケタ労働者ハ、無条件降伏ヲシタ。
 シカシ、ソレデ終ワラナカッタ。占領政策ト戦犯ノ処刑ガ待ッテイタ。
 会社ハ「生産再開ニ向ケテ、終戦処理ヲ慎重ニ徹底スル」ト語ッタ。
 多クノ労働者ハ傷ツキ、荷物ヲマトメテ会社ヲ去ッタ。幼イ子トソノ母、ソシテ老イタ老親ガ後ニ続イタ。
 ダガ、勝ッタ方ニツイタ労働者モ辛カッタ。彼ラハイツモ彼ラヘノ復讐ヘノ恐怖ト、会社ガ行ウ馘首ニ怯エナケレバナラナカッタ。


私の住んでいる隣町の自動車工場の話だった。
 大人たちは公民館に集まった。
 私は佐々木と伊藤を誘って、靴であふれ返った土間の隅に座って、遊ぶ振りをしながら大人たちの話を聞いた。
 自動車工場の非情さをなじる者が多かった。しかし、働かない労働者が一方的に悪いという者もいた。
 工場近くの店舗で働いている若い女が叔母の店に来て、その成り行きを話したことがあった。
 警官隊が動員されたときの話では、涙声になって追われた労働者に同情している様子だった。他の客も鼻をすする音をさせた。
 祖父に聞くと、顔を背けた。
 嫌そうな表情になり、子どもはそんなことを考えるなと言った。
 祖父は中国に戦争に行き、多くの中国人を殺したことを自慢そうに話していた。聖戦だったと言った。中国人を蔑視していた。
 口髭も中国でたくわえたらしい。私には、その祖父がいつもの祖父らしくないと思えるほど、自動車工場の話をしなかった。
 コレガ僕タチノ育ッタ時代ダ。僕タチハ逃ゲタ。カタキヲ討ッテクダサイ。影の男は泣くように話すときもあった。
その後、東京で警官隊に女子大生が殺されたとテレビが言っていた。病院に多くの人が担ぎ込まれる光景が映し出された。頭や腕に包帯が巻かれ、頬や目の上に消毒薬を塗られていた。
 画面に黒光りした鉄兜がうねっていた。
 警官隊だった。その黒い集団が学生服や作業服を着た男たちを襲っていた。画面に突然、スカートの女性が倒れた。その上を警棒を持った警官隊は踏みつけていき、学生たちを追いかけた。
 一角獣のような建物の周りを無数の旗が取り巻いていた。鉄柵を挟んで、鉄兜と学生服が押し合った。
 祖父はテレビに向かって、「出ていけ」と呟いた。何かに出ていけと言ったのだが、何に向けられたのか私は聞き取れなかった。


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