3 河原で遊ぶ少女
胸に刃物が刺さったような痛みを感じた。 私は街路樹の根元にしゃがみ込んだ。小心に小心に生きてきた、人を傷つけて生きてはこなかった、と呟いた。これが飲み過ぎたときの私の呪文の始まりだ。額のあたりに汗がにじんでくる。じっとかがみ込んでいると、いくつもの記憶がかすめていき、頭の中を大騒ぎしながらぐるぐると駆け回る。 忘れていた、いや隠して閉じこめていたものが絶えず顔を覗かせてくる。 跳梁跋扈、百鬼夜行と何度も繰り返す。私の周りでいろいろな生き物が奇声をあげる。蹲る私をのぞき込んであざけり笑う。鼓動が激しくなってきて、腹の奥のものをひっくり返すように木の根元に吐き出した。 それを何度も繰り返す。怨敵退散と言えるようになると、しだいに落ち着いてくる。いつもの儀式で、それで私は解放される。 この日、私が吐き出したもののなかに動くものがあった。 麺のような細長いかたちで、ゆっくりともたげた頭が左右にT字型に分かれた。交差している部分が開いた。歯のような尖ったものが覗いた。雨降りのあとに路上で鈍い光の粘りの筋をひいて丸まっているヒルのようだった。 オ前ノ中ニ住ミツイテイルノダ。オ前ハ忘レテイタダロウガ、俺タチハ何時マデモ、オ前ヲ許セナイ。
……悲シイコトハ、モウ嫌デス。
「流れの下に少女の顔があった。薄く目を閉じて、半ば開けた口から白い歯が覗いていた。流れは鼻孔を通って瞼、目尻、額、そして長い髪を筋状に伸ばしてやわらかに波打たせていた。私は細い首を両腕で押さえていた。しばらくすると、いつもは力強くあらがって激しい水しぶきをたてて笑いながら身体を起こすはずなのに、少女はいま薄い笑いを浮かべて眠り込んでいた。皮膜のような水が少女の顔のかたちに覆っていた。モウ起キナヨ、死ンデシマウヨ」 深夜テレビで朗読でも流しているのかと思った。 私は酔ったままソファーに転がっていた。 テレビの画面は目に痛いほどまだら模様の光を放っていた。帰ってきてつけたまま眠り込んだのだろう。放送は終わっていた。 私は、またあの夢の続きを見ていたのだ。
このごろ河原の浅瀬で遊んでいる夢を繰り返し見ている。 一二歳の私が髪の長い少女と戯れていた。 私たちは裸だった。 水を掛け合い、追いかけ合っていた。水しぶきが光を孕んで輝いた。流れは光に満ちていた。 河原には私たち二人の黒い影が飛び回っていた。 疲れると、平らな岩の上に向き合って寝転んだ。 天空から強い日射しがうちかかってくる。乾いた岩が身体や髪の毛からこぼれる水を飲み干しながら、満足した呼気を送ってくる。 目を閉じる。濡れた身体に心地よい温かさが伝わってくる。 私のできることは、少女の黒い瞳の奥を見つめることと、おとぎ話をすることだった。私が映っていて、私は笑っていた。 「遠くに岬が見えます。その先端に白い灯台が立っています。灯台が闇に沈むまで、毎日、女の子は浜辺で遊んでいます。女の子は砂の城をつくっていました。どこからか鐘が響いてきます。幸福の鐘です。女の子は長い髪をかき上げて耳を澄まします。女の子だけにしか聞こえない鐘の音です。空は青く、海は深い蒼をたたえています。砂浜は光に満ちます。女の子は砂を海水に溶かして上からゆっくりゆっくりと積み上げます。みるみる細長い塔が建てられていきます。ところどころに円を描くと、砂はたくさんの空間をつくります。ここはお父さんとお母さんのお部屋。そして、ここが私の部屋。窓からは広い海と空が見えます。白い雲が笑いながら浮かんでいます。波の音は聞こえてきませんが、白い波が細い筋をつくって浜辺にうち寄せています」 「そんな穏やかな日々に、ある日、海の向こうから黒い雲と激しい雨と風が襲ってきました。女の子は部屋の隅に蹲って、小さな蝋燭を灯して祈りました。けれども、雨と風は強くなるばかりです。両手の中で蝋燭の火は震えていました。女の子の耳には幸福の鐘の響きはもう届いてきません」 私は思いつくままに話した。 話が途切れて黙り込むと、話し始めるまで少女はじっと私を見つめていた。 私は、海に突き出た岬を思い浮かべる。浜辺に寄せる波の透明さを感じ始める。すると、海底の砂や岩や海藻が目の前に見えてくる。私は魚になって水を呼吸している…。 少女の瞳には、河原のあちこちで妖精が飛び回るように光がはじけていた。 さまざまな大きさの岩の影の一つひとつに穏やかな眼差しを感じた。鳥や馬の丸い目が私を見つめていた。 「それは、大きな悪意に満ちた嵐でした。憎しみが牙をむいて荒れ狂いました。あらゆるものを噛み砕きました。砂の城はみるみる崩れていきました。もう防ぎようはありません。城の守備隊はおろおろするばかりです。みんな、逃げだそうと走り回っています。それを見ていた女の子は、静かに立ち上がりました。浜辺を少し歩いて、それから荒れた海に入っていきました。嵐の怒りを静めるためです。波は女の子を飲み込もうと両腕を上げ、大きな口を開けて襲ってきました。一瞬、女の子の姿は見えなくなりました。そのあと、海面に花開くように長い黒い髪が広がりました。そして再び波に飲まれました。波は女の子を奪い合いました。互いを憎しみ合って激しく身体をぶつけ合っていました」 殺サナイデクダサイ。生キサセテクダサイ。少女は私を見上げた。悲シイコトハ、モウイヤデス。私は少女の懇願に応えた。 「海は穏やかになりました。岬が見えています。灯台が立っています。波は囁くように歌い出しました。すると、女の子が波の間に姿を現しました。女の子は泳ぎ始めました。腕が魚の背ビレのように力強く水を切っていきました。しばらくすると、まだ重なりを残していた厚い雲を破って太陽の光が幾筋も海面に差し込み始めました。そうして穏やかな青色の空が少しずつ雲を押しのけるように広がってきました。天使様が舞い降りてきている、私を迎えに来たと女の子は思いました。このままでいたい、女の子は祈りました。でも、時はとどまってくれません。女の子の願いはかなわず、真っ赤な夕陽が雲の間から顔を覗かせて海に沈み始めました。きょうは、もう眠りにつくのです」 私は泣いていた。こうやって繰り返す日々が辛かった。 少女は両腕を伸ばして私の頭を強く抱いた。息苦しくなるまで、私は少女の胸に顔を埋めていた。
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