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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第29回   29 淑やかな猫はもう苦しまなかった
29 淑やかな猫はもう苦しまなかった


 私は、輪に通した針金の端に凧糸を結びつけた。もう一方の端を手首に巻き付けた。
 輪を基地のすぐ先の畑に通じる柵の隙間にかけた。
 凧糸を伸ばしながら後すざりして、私は基地に隠れた。そこからその輪のかかる柵をうかがった。
 頭がときどき痛くなったが、周りの音は聞こえなかったし、あの蚊のうなる声も襲ってこなかった。

……ドウダ、生キルノヲ諦メタカ。

 どれくらい待ったのだろうか、眠っていたのだろうか、気づくと凧糸が私の手を引っ張っていた。
 私は凧糸を板に巻き取りながら外に出た。
 糸は真っ直ぐに伸びていた。
 柵まで近づくと、ゆっくりと凧糸を引いた。
 重いものが引きずられるように近づいてきた。
 凧糸と結び合わせた針金が見えたとき、糸は急に向こう側に強い力で逃げ始めた。私も強く引き返した。そのあと、ゆっくりと緩めた。
 フウーとうなる声が聞こえた。
 かかった。私は釣りで大物を釣り上げたような喜びを感じた。
 重い。引く。ぐっと引き返す。緩める。フウーと向こう側でうなる。
 罠にかかった。強く引くと、重くなる。緩めると、うなる。
 細かい歯をこちらにむき出しているのだろう。曲がった爪を地面に突き立てて向こうへ逃げようとしているのだろう。私は猫が必死にもがいている姿を想像した。
 暗闇に向かって私は何度もからだをそらせて凧糸を引いた。
 そのたびに星が足先のほうに飛んでいった。身体が少しずつ熱くなってきた。気持ちがよかった。
 猫の力が弱まってきた。
 凧糸を結んだ針金のところまで手繰ってきて、板に針金を巻き付ける。勝った。もうはずれることはない。
 私は、すぐ目の前の柵を挟んで猫と向き合っているのだ。
 猫は首に絡まった針金に苦しんでいる。私は、じわりじわりと締めつけるだけでよかった。針金の動きから猫の命が伝わってくる。
 さらに強く引いた。
 私の前に黒い塊がうずくまっていた。
 手元を見ると、指から血が流れていた。猫の爪に掻かれたところだ。手首に黒い影の筋をつくっていた。傷が初めて痛くなった。
 猫への憎しみが私の中に沸いてきた。身体が熱くなるのを感じた。私の両腕は針金に集中し、強く力を込めた。
 さらに手繰り寄せる。針金の先はもっと重い塊になって、向こう側に行こうとする。その感触が快かった。
 心臓が激しく打っていた。
 頭が熱い。
 額から耳のあたりに汗が流れた。
 いま猫は、私の意思にすぐに応えてくれている。しっかりと嫌だと言っている。僕ノ友ダチダ。
 ポケットに入れていた懐中電灯を落とさないように取り出して塊に向けた。スイッチを入れた。
 暗闇がはじけた。明かりが躍った。
 目を閉じてから、ゆっくりと明かりの先を見た。
 光の中に毛の塊が見えて、そこから猫の小さな顔が浮かび上がった。両方の目が光ってこちらを見た。
 真ん中に細長い黄色の瞳があった。むき出しになった上顎の両脇に二本、鋭い歯が見えた。その上に白い髭が伸びていた。
 あの猫だった。懐中電灯を切って、ポケットにしまった。
 私は少しずつ後ろに下がり始めた。
 腰を落とし、綱引きのような態勢になって強く引いた。
 塊は柵にぶつかって止まった。さらに体重をかけて後ろに反った。柵がきしんだ。何度も繰り返した。ドウダ、生キルノヲ諦メタカイ。
 抵抗がなくなった。
 針金を板に巻き付ける。
 もうすぐ針金は私の身長ぐらいの長さになる。手を伸ばせば猫の爪が飛んでくるかもしれない。
 私は前に進むのと、同時に針金を巻いた。緩んだ針金が板に巻きついた。
 柵の手前で一回ぐるりと板を回した。柵がギッと鳴った。

……ヤッテシマッタヨ、ヤッテシマッタ。

 静かだった。
 丸い月が突然、見えた。急に現れて明るく輝いたように思った。兎だと教わったまだらに見える影がはっきりと見える。寒かった。
 僕ハ、ドコニ行ケバイイノダロウカ。
 兎は向こうへ跳んでいった。私は力が抜けていくのを感じていた。腰が地面に落ちていて、両足を前に投げ出した。
 ヤッテシマッタヨ、健チャン、光チャン。
 頭のなかで大きな声が叫んでいた。
 ヤッテシマッタ、ヤッテシマッタ。
 私は懐中電灯をつけて柵の前に立った。
 針金を引くと、地面を引きずる重さが近づいてきた。黒い塊はあの猫だった。
 首に針金が食い込んでいた。
 細い歯が吐き出したような舌に刺さっていた。
 両目はきつく閉じられていた。その端に黄色の脂がついていて、涙を流したのだろうか、細い短い毛が濡れていた。
 鼻が光っていた。
 引きずると両脚がそろって、淑やかな猫になった。猫はもう泣かなかった。
 頭に手を触れても歯をむき出すことはなく、気持ち良さそうに眠っていた。横腹をなでてやった。温かな腹だった。私の指から流れる血が猫のわずかな白い毛に染み込んでいった。
 針金は首の下で絡み合っていて、なかなかはずれなかった。いくども猫がからだを回転させて、そのたびに針金は猫を締めつけていったのだろう。指先がぶるぶると震えて力が入らなかった。


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