27 風車を持った男は女の子を泣かせた
私が老婆の小屋の前を歩くと、トタン板の陰にいるはずだった。私がやってくるのを待っている。私の記憶に居座ったまま、息をひそめていた。 ときどき老婆が私を監視しているような気がすることがあった。 不意に振り向いてみるとか、目の前のカーテンのような薄い布を思い切りはがせば、老婆が照れ笑いしながら姿を見せて正体を明かしてくれると思うのだが、どこが手掛かりなのか分からなかった。ただ、じっと隠れて私をうかがっていた。しかし、私は老婆といつかわかり合えるように思っていた。
……痛イヨ、痛イヨ。アイツヲ懲ラシメテオクレヨ。
「あのばばあがスーパーの中に入ってきたんだ。店の前でおやじが出ていけって言ったんだけど、ばばあ、帰らないんだ。しょうがなくなって、おやじが野菜屑を袋にまとめて入れて、他の客に迷惑だからいなくなってくれって言って渡したんだけれど、まだ帰ろうとしないんだ。みんな、うんざりさ」 「今度はさあ、パン屋さんに行こうとしたんだよね」 「光ちゃんのお母さんも帰ってくれって頼んだんだ。きっと、スルメか何かとろうとしたんだぜ。だから、俺がばばあのけつを蹴ったんだ。それで転んで、リンゴの笊をひっくり返したのさ。そこにFちゃんがきたんだよ」 「そうだよ。健ちゃん、勇気があったよね。帰れって言って靴で蹴ったとき、かっこよかったよ。決まったね」 秘密基地で佐々木は、スーパーでの顛末を私にまくし立てた。伊藤は佐々木の一言一言にうなづいて同意を示していた。二人でそのときの佐々木の振る舞いの正しさを私に熱心に語ってくれていた。それは、執拗すぎるくらいだった。 話を聞いていながら、なにか変だなと思ったとき、私は頭が痛くなった。 耳の上に針が刺ったように痛んで、その奥で無数の虫が動き始めた。蚊が羽音を鳴らして近づいてくるように音はうるさくなった。音はどんどん大きくなってくる。私は痛みを堪えるように顔をねじ曲げて外を見た。 向こうから幼い女の子を背負った男が近づいてきていた。 バッテン印に紐で背負っていて、横から赤い靴が見え隠れした。女の子は男の背中で激しく泣いていた。 痛イヨ、痛イヨ。アイツガ悪インダ。アイツヲ懲ラシメテオクレヨ。 男の背中に顔を隠すように泣いていた。 ときどきこちらの様子をうかがうように顔をのぞかせた。私と目を合わせると、男の背中に顔を押しつけた。 男は立ち止まると、背中の女の子を何度か揺すった。 泣き声が笑い声のように波打つと、女の子は泣きやむが、すぐまた泣き出す。 男は懐から風車を取り出して右手に高く掲げた。 風車は動かなかった。 男は何度か向きを変えた。 私のいる秘密基地に向けると、風車は回った。カラカラと音を立てた。 女の子が風車をつかもうと手を伸ばすと、男は左手に持ち替えた。女の子は、もっと大きな声で泣いた。 男は風車を女の子に近づける。女の子は手を伸ばす。風車を遠ざける。女の子はもっと大きな声で泣く。 痛イヨ、痛インダヨ。アイツガ悪インダ。 女の子は私を見て言った。 男は、女の子を揺すりながら私を睨んだ。 オ前ダ、オ前ダケガコノ子ノ痛ミヲ治セルンダ。オ前ハ見捨テルノカ。タッタ一人ノ子ドモサエ助ケラレナイジャナイカ。コノ子ノ痛ミヲ代ワッテヤレナイノカ。 男が秘密基地の前までさらに近づいてきた。そして、私に鋭い目を向けたまま立ち止まった。私は震えていた。 女の子が突然けたたましく笑い声をあげた。男はゆっくりと回れ右をした。 背中にしがみついたまま女の子が私を見て、赤い靴を嬉しそうにぶらぶらと揺らせた。黒い目だった。ちょっと前にどこかであったような気がした。男は、私を無視するように振り向かなかった。
私は自分の身体をだれかが揺すっているのを感じていた。 とても眠かった。 目を開けようとしてみるのだが、瞼に重しがのせられたようにうまく開けられない。 ぼんやりと目の前に明かりが見えた。見たことのない大きな顔が行ったり来たりして、口が見えて、歯が見えて、身体が揺れて、言葉が遠くで響いていて、私の名を呼ぶ声が聞こえた。近所の医師だった。 助ケテクダサイ。助ケテアゲテクダサイ。コノ子ダッテ、幸セニナル権利ガアルノデス。今ナラ、マダ間ニ合イマス。 私は目を閉じたまま女の声を聞いていた。だれの声だろう。聞き慣れた声だったが、それがだれなのかわからなかった。
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