26 五〇年前、老婆は親しそうに見た
少年と老婆は長い間、抱き合っていた。 私は肩を叩かれた。眠っていたのかもしれない。 振り向くと、老婆がたくさんの鏡に全身を映して見つめていた。たくさんの目が私を睨んでいた。 老婆は私を見た。私は老婆の顔を初めて見た。 「いくつに見えるかい」 老婆は少女になっていた。白い靴下に赤い靴を履いていた。 「お前が俺の腰を押して、あのドブへ落としてくれたじゃないか」 私は五〇年近く前の雨の夜を思い出した。 ピエロはまた仮面をはいだ。その下から二つの黒い眼窩をのぞかせたあいつの顔が現れた。私は雪の映像を見続けた。
……ナゼ、ソンカタチデ生キテイルノカ。
私は美容院のなかでよく遊んだ。 奇妙なことにそれが許されていた。 田舎町だったためだろうか。床に座って長い髪の毛を集めた。それを輪ゴムでまとめて佐々木や伊藤に自慢した。 待合室で三人で遊ぶこともあった。 佐々木と伊藤は、店の棚に並べられているものを不思議そうに眺めていた。シャンプーをする椅子にとくに興味を示し、客のいないときに叔母に椅子に座らせてもらって喜んでいた。仰向けになって、すげえと言った。
叔母はいつも客の話の聞き手だった。自分から意見を言うことはなかった。 地元の主婦の話が老婆にふれるときがあった。 戦前から老婆を知っているという白髪の女は、私のわからない言葉のあとにきまって声を押さえて、「みんな、とられちゃったのよ」とつけ加えた。 叔母は、女と同じような声音を使って声をひめて相槌をうった。しかし、それ以上立ち入らない。だから、客もそれ以上話さなかった。 私はその話を聞いてから、老婆の小屋の前を歩いてみるようになったようだ。なぜだろう。なぜか。ソンナカタチデ生キテイルノヲ見テミタカッタノダ。
……手ヲツナイデ楽シカッタヨネ。
私の頭の中にカブト虫のような虫が何匹かいた。ときどき、その虫が騒いだ。頭の中を駆け回った。 後頭部で騒ぐときはしゃがみ込んでしまう。頭のてっぺんのときはずきずきと血の流れる音がした。そして、虫は訳のわからないことを言い出した。そんな私を見て、祖母は祖父が飲んでいた頭痛薬を私に飲ませた。嫌ダ、モウ嫌ダ、生キテイクノハ辛スギル。 私は、ふと自分がここにいる以前からこの場所を知っていたような感覚に襲われるときがあった。路地を歩いていて、そんな感覚がやってきて、突然何かが懐かしそうに近づいてくる。その息づかいも聞こえる。しかし、その顔を確かめようとすると、すっと斜めにずれて消えていなくなる。さっきまでの語りかけるような感じが薄れてきて、路地に立っている自分の身体が重くなって、それっきりになってしまう。 その感覚は、そのときの空気だったり、垣根に咲く花の香りだったり、犬の歩く姿だったりする。ボールが跳ねるように記憶のはじっこから飛んで現れて、追おうとするとそのまま向こう側に転がっていって消えてしまう。とりとめなく、私はその一瞬が好きだった。 老婆を初めてドブの脇で見たとき、どこかで会っていると思った。老婆も私を認めたはずだ。私を懐かしそうにしばらく見ていた。 遠い風景が浮かんできて、ある絵がはっきりと見えそうになるときがある。 老婆は日だまりのなかにいた。その背景に多くの女たちが会食を楽しんでいた。女たちは裸だった。笑っている。暖かい。 花が溢れるように咲いている。 鳥が鳴いている。 木々が緑を濃くしている。ミンナデ手ヲツナイデ、楽シカッタヨネ。だれかが笑った。みんなが声を立てて笑いあった。女たちはふくよかな胸を揺らせていた。 私は、その絵がいつものように消えていくだろうと思ったが、老婆の姿は消えなかった。老婆は私を見て囁いた。笑ッテオクレヨ、一緒ニ。
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