25 氷上の舞台に仮面のピエロが
あいつの姿はなくなっていた。映写機はゆっくり回って光を放っていた。 映像に雪だるまが映った。 遠くで子どもたちが氷の上で遊んでいる。雪だるまは煙草をくわえていた。目が悲しそうな木の葉でつくられていた。 「私ハ言葉ガ分カラナイ」。雪だるまが言った。煙草の煙が大きく吐き出された。後ろで子どもが滑って転んだ。 雪だるまは棒のような両手を動かして縦長の看板をこちらに見せた。「オ前ノ罪」と書かれていた。 氷の上に紅白の幕を張った舞台ができていた。 私は多くの観客に押されて、舞台の最前列に座わらされた。 強い力で肩を掴まれた。腕を動かそうとしたが、押しつけられたままだった。身体は固まっていた。
……ソイツハボンヤリト漂ッテイタ。
仮面をかぶったピエロが現れた。 オレンジ色の上着を着て、胸元で二つの金ボタンが留められていた。うす緑色のワイシャツが上着からのぞいて、気取ったポーズをとった。 しばらくすると、腹を突き出して、先端の広がった細長い金属製の笛を吹きながら、先の尖った革靴でリズムをとった。 ズボンは赤みの強いオレンジ色で、膝のあたりが破れて肌がのぞいていた。 ピエロはたくみにリズムを変えた。リズムが変わるたびに観客は足を踏み鳴らし、さまざまな感情を表現した。 全身を真っ黒な衣服に包み、頭から黒い布をかぶった痩せた男が登場した。 観客は一斉に拳を向けて罵った。男は胸元から一枚の紙を取り出すと、観客に向かって読み始めた。 「意識トイウ海ノ底デ、ユックリトソイツハ浮カビ上ガッテクル。毛ノ抜ケタ後頭部、ソシテ筋肉ノ張リヲ残シタ背中ガ見エル。死トイウ餌ニ無惨ニモ裏切ラレテ、ソイツハ海ノ底ヘ沈ムコトモデキズ、魚ニ骨ノ芯マデ食ワレルコトモナク、姿ハ崩レズ、ボンヤリト漂ッテイル」 男の後ろから女が立ち上がって朗読を始めた。裾の長い白い衣裳を身にまとい、唇を真っ赤に染めていた。 「あるとき、月がそいつに囁きました。《もう、休んじゃどうか》《そうなんだけれども、俺は自分が頭の先からつま先までどうなっているのか知らないんだよ》。夜が海の瞼を閉じても、魚や貝の囁きに交じって、そいつは呟いていました。《どうしたらいいんだよ》」 「朝陽はそいつがもう疲れて、どこかの港に隠れてしまっただろうと思いました。しかし、腐りかけた藻の陰で、そいつは遅い眠りをむさぼっていました。朝陽は怒りにかっと目を見開いて、そいつの後頭部をじりじりと焼きました。そいつは驚いたように目を開けました。けれども、ぶくぶくと息を吐くと、うまそうに海水を飲み込み、もっと深い藻の下に潜むとまた眠りに落ちていきました」 「魚たちは、そいつが来ると一斉に逃げました。そいつの指が海の底の砂をずるずると筋を引いて動くと、貝たちは青ざめました。まるで自分の体が引き裂かれるように感じたからです。海はいっそう青くなり、空の蒼さと一体になり、そして雲は白く立ち上っていきました」 「ソイツハ、ユラユラト海ヲ漂ッタ。波間カラ顔ヲ出ストキモアッタガ、自賛ノ歌ヲ海底ニ響カセテ漂ッタ」 「もしかしたら、そいつはいなかったのです。最初に魚が気づきました。貝も気づきました。しかし、だれもそれを言い出せなかったのです」 「ソウ、太陽ト月ハ皆ヲ怯エサセルタメニソイツヲツクリ出シ、ソシテ、ソノ恐怖ノ統治ニ気ヅイテ告発スル者ヲ交代デ見張ッテイタノダ」 ピエロが仮面をはいだ。 瞼と額の間に一本、両頬に二本、赤い筋が描かれていた。 ピエロは高らかに横笛を吹いた。第一幕の終わりだった。
……僕ハ老婆ガ悲シカッタ。
再びカーテンが上がると、真っ黒な衣服の男と女が舞台正面に並んで立っていた。観客に腰を深々と折ってあいさつした。男は少年になり、女は老婆になった。 「きょう、僕は老婆を見ました。あの老婆と同じでした。背を丸め、他人から目をそらすように歩いていました。そういえば、僕は老婆の顔をまだ知りません」 老婆は舞台の右手にゆっくりと歩き出した。岩の陰まで来ると、老婆は少年に手の平を何度か振った。 「でも、僕は追いつけないのです。まるで、夢の中で走ろうとしても走れないように。いつも一人になってしまうのです」 雨が降っているような水の流れる細い音がした。舞台は照明を落とした。 「小川といっても生活水の流れるドブ川なんだよ。流れが止まってしまえば、すぐ腐って臭う。その脇に私は小屋を建てて暮らしていた。みんな、私を憎んでいた。だけど、追い立てる奴はいなかった。明かりのない部屋で私は待っていた。私をここから連れだしてくれる奴をね」 舞台に大勢の影が行き来して、肩を組みながら躍った。 一人が天井からぶら下がった輪に掴まると、次々と輪を掴んだ。舞台はバスの車内になっていた。 「ソレカラ、ズイブンタッタ後ノコトダ」 女が叫んだ。 「僕は、バスに乗っていました。老人二人が乗り込んできました。一人はあの老婆で、両脇に泥のついた野菜を抱えていました。もう一人は汚れた衣服を着ていて、老婆の影のようでした。二人は臭気を放っていました」 大勢の影が苦しみ始めた。窓を開けようとする者や、降車口へ向かおうとする者が押し合いへし合いし始めた。 「ふん、バカにしやがって」 自分たちだけになった座席に座った老婆が大声で叫んだ。 もう一人の影も隣に腰を降ろした。 バスが揺れて老婆が座席から転がりそうになった。野菜の葉が立っている女に触れて、泥がこぼれた。女は逃げ出した。 窓が開く音が聞こえた。その音をきっかけに窓が激しい音をさせていくつも開かれた。 車内は急に明るくなった。老婆の足元に石油缶が置かれていた。 「糞尿が入っているのを僕は知っていました。僕は老婆が悲しかった。あの姿で放っておくことができませんでした。それで」 「ソレデ、ソレデ」。影たちが声を揃えて歌った。
|
|