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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第24回   24 十字架のある建物に幼稚園があった
24 十字架のある建物に幼稚園があった


 老婆は、引きづるような足どりでスーパーを出た。
 小屋のほうへゆらゆらと歩いて行った。
 この光景をどこかでみたことがあると思った。しかし、それがどこなのか思い出せなかった。
 佐々木が私のところに走ってきた。伊藤も後ろについてきた。
 「Fちゃん、秘密基地へ行こう。ばばあ殺しの作戦を練ろうよ。あんな奴、生きていてもしかたがないんだよ」
 佐々木はすぐにでも老婆を殺しかねない顔をしていた。青い顔に目の上から額にかけて筋が浮いていた。

……コレカラココデ暮ラスンダヨ。

 私の鼻の奥に海の匂いがあふれた。
 祖父母、叔母の四人でY市のはずれのこのまちに越してきたのは、私が小学校に上がったばかりのころだった。
 K線B駅はまだ小さな駅だった。「ここで暮らすんだよ」。東京の家に帰りたそうにしていた私に祖母は言った。
 駅前から少しはずれたところに屋根のついた商店街があって、その角に「鮨」と書かれた店があった。
 入口の脇に小さな笹が濃い緑の葉をつけた枝を伸ばしていた。ここでいいか、と祖父が祖母に言った。
 大きな茶碗が目の前に運ばれてきた。中に緑色の湯が入っており、両手に抱え持った厚手の碗は渇いた喉を潤すには飲みにくかった。
 私は初めて寿司屋に入った。
 大きな水槽を見たのも初めてだった。ガラスの向こうで魚が泳いでいるのが不思議だった。床に小さな石が敷き詰められていた。テーブルは一枚板で、力を入れても動かなかった。
 目の前で叔母が湯をすすった。
 きれいな顔だった。おじいさんが芸者に産ませた子だよと話しているのを男たちが車座になった部屋で聞いたことがある。だれが話したかは分からなかったが、その数人の輪の中に父がいた。みんなと一緒に笑っていた。私はそのとき父を憎いと思った。父はそののち私の記憶から消えた。
 隣の祖父を見上げると、猪口を口に運んでいた。
 祖母は徳利を左手で支えながら、祖父に差し出した。猪口にゆらゆらと酒が広がっていき、米の匂いがした。
 祖父の鼻の下に蓄えられた髭が濡れていた。自慢の髭で、朝に手の平ぐらいの鏡で鋏を使っていた。
 祖父は右手で刺身をつまみ、私の前に置かれた皿においた。
 しばらくすると、祖母、叔母の順で丸い盥のような入れ物が運ばれてきた。私はそのとき何を食べたのか、まったく記憶にない。
 タクシーに乗った。
 狭い道だった。歩いている者が近づくタクシーを避けて脇道に除けていた。ずいぶん長く乗ったような気がしていたが、あとで歩いても二〇分ぐらいの距離だと分かった。
 途中に教会があった。
 白い壁の建物を見るのも初めてだった。建物の先端にあるのが十字架だと祖父が教えてくれた。
 「幼稚園をやっているのね」。叔母が呟くように言った。
 髪の毛が耳のあたりで揺れていた。車窓から流れ込んでくる風が温かかった。叔母は風を楽しむように窓外を眺めていた。
 その教会の名前が天使幼稚園だと、あとで知った。

……迷子ニナッタラ、ドウシヨウ。

 新しい家は表を美容院に造られており、後ろが住居になっていた。裏に出ると、白いチョウチョが飛んでいる畑が開けていた。
 叔母は新しい土地で自分の店を持ったのだ。
 そこは半農半漁で、あとは隣町の自動車工場やY市の中心部へ出る人が増えていた。叔母の美容院にはそういう若い人も来た。
 祖父は隣の市で造船関係の小さな工場をやっていた。二度ほど連れて行かれ、帰りに遊覧船に乗せてもらった。小さな船だった。
 小雨が降っていた。私たちのほか何人もいなかった。がらんとした座席に座って、ガラス窓を眺めていた。どんよりとした海面が繰り返し膨れあがってくる。私は自分が飲まれてしまうように思えた。
 「おじいちゃん、沈んだらどうするの」
 「あれに掴まればいいさ」
 ガラス窓の下に黄色の丸い玉がいくつも繋がっていて、強い波を受けても沈まないように思えた。しかし、私は波の上にいることが怖かった。船から下りても身体がいつまでも揺れていた。私が喜ばなかったためだろうか、祖父は私を誘わなくなった。


 このまちで海を初めて見た。
 祖母が白人と呼ぶ外国の兵隊とその家族を見るのも初めてだった。肌の色の黒い兵隊もいた。
 外国人の客も叔母の店に来た。
 そのために叔母や従業員が外国の言葉を習い、奇妙な声をあげていた。ラジオから聞こえる音楽も外国人が歌うものだった。
 子どもを連れてくる人もいて、私はセットやパーマが終わるまでその子の相手をさせられた。ふわふわとした金色の髪の毛の下に丸い青い目があって不思議な感じだった。
 言葉は通じなかったが、うまく遊べていたようだ。
 メンコやおはじきだったが、私のやり方をまねておもしろがっていた。
 私は気づかれないようにその子の陽の色が透ける髪に鼻を近づけた。いい匂いがした。首のあたりからミルクの匂いがした。
 私はセルロイド人形の歌をその子によく歌ってあげたように思う。迷子ニナッタラ、ドウシヨウ。青い目はその歌をじっと聞いていた。


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