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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第23回   23 老婆は腐った夏みかんに逃げられた

23 老婆は腐った夏みかんに逃げられた


 顔を上げると、畑の柵近くにある老婆の小屋のトタン板が鈍く光っていた。ぼんやりした暗さのなかに沈んでいて、人の気配はなかった。その先に、板戸を下ろして入り口を閉めたマーケットがあった。その二階の窓に小さな丸い明かりがいくつかにじむように点いていた。
 私は、急に寒さを覚えた。身体が震えていた。家に帰ろうと思った。
 走りながら、なぜここにきたのだろうと考えていた。

……アンタハ汚インダ、皆ガ困ッテイルンダヨ。

 「そのガキがあたしのけつを蹴ったんだよ」
 翌日、私が佐々木を迎えにスーパーに行くと、葱の緑の葉がのぞくビニール袋を抱えながら老婆が叫んでいた。
 紺色の厚い布の前掛けをしめた佐々木の父親の足元にリンゴが転がっていた。その後ろに佐々木が青い顔をして隠れていた。
 「野菜屑は外に出しておくって言っただろう。頼むから中に入ってこないでくれ。みんな、嫌がっているんだよ。あんたは、何も買ってくれないだろう。あんたは汚いんだよ。お客さんが怖がってこなくなっちまうと、困るんだ。これだって、もう売り物にならなくなったじゃないか」
 汚いんだ、こんなことは言いたくないけれどと佐々木の父親は繰り返すと、リンゴを拾い始めた。
 佐々木が私に気づいて得意げに親指を立てて笑った。薄い唇から前歯がのぞいて、汚いんだと言うように唇を動かし、人差し指を老婆に向けた。
 「あのガキが押したんだよ」
 老婆は佐々木の父親の剣幕に気後れしたように、後ろに下がろうとしてよろめいた。葱の葉が近くに立っていた女の買い物客の顔にぶつかった。その客は声をあげてスーパーの入り口まで逃げてきて、私の横に立った。
 佐々木の店の前のパン屋のおかみさんがパンの耳が入ったビニール袋を老婆の前に投げた。これもってもう帰りな、と聞こえた。
 老婆がパンの耳を拾おうとして転んだ。
 運動靴のような履物が脱げて、土に汚れた足袋が見えた。
 抱えていた葱の入ったビニール袋が落ちた。中から夏みかんが一つ荷台の下に転がった。青い黴の浮いた傷んだ横腹を上にして止まった。
 老婆は膝を突き、寝転ぶように荷台の下に手を伸ばした。
 指先が蜜柑の皮に触れると、みかんは少し先に離れた。老婆は顔を歪ませて、肘を伸ばした。もう一度、みかんは老婆の指先から逃げた。
 老婆は座り直した。みかんを睨みすえて、同じことを繰り返した。
 私の横にいた女が笑ったようだ。私が見上げると、顔をゆがめて横を向いた。
 老婆ははいつくばった格好でみかんをつかんだ。
 肘をついて立ち上がろうとするが、スカートのような布を踏んだらしく転んで、顔をコンクリートの床に打った。だれかがまたくすりと笑った。

……アタシダッテ小サイコロハ可愛イッテ言ワレタンダ。

 老婆の右側の額から頬にかけて乾いた土がついていた。
 老婆はよろけながら立ち上がった。
 つかんだみかんをビニール袋に入れ、パンの耳の入った袋を大事そうに抱えてこちらへ歩いてきた。
 腰から足首まで覆う長い布の膝あたりが水で濡れていた。
 乾いてこびりついた土が水に濡れて、そこだけが黒ばんでいた。細い肘や手首に水を含んだ泥の筋が引いていた。
 薄いたるんだ皮膚の下で太い血管が青く見えた。カミソリを当てて押しつければ血がすぐ吹き出すだろう。
 私は美容院で使ったカミソリをもらって瓶に詰めていた。水を入れておくと、赤い錆が浮かんできて、瓶を振ると水は赤く染まった。
 カミソリで遊んでいて、よく指の腹や手の平を切った。しかし、手首にも当ててみたが、刃先を左右に動かせなかった。
 女の客が老婆を避けようと伊藤の乾物屋の中へ逃げこんだ。赤ん坊を抱えた別の客もそのあとに続いた。赤ん坊が驚いたように泣き出した。
 私は老婆が近づいてきているのに動けなかった。佐々木が右腕を大きく振って逃げろと合図を送ってきていた。
 「ばあさん、もう帰ってくれよ。頼むから。どうして俺たちを困らせるんだい」。佐々木の父親がもううんざりだという声で言った。
 老婆は入り口の板戸のレールをまたいだところまで来ると、振り向いた。私の間近に立っていた。
 「なにを笑っているんだい。あたしだってね、好きでこんなになったんじゃないやい。ちいさいころは、みんなから可愛いって言われたこともあったんだ。その子みたいにね、だっこだってしてもらったさ。ほおずりだって、してもらったさ。………なんで、こうならなきゃならないんだ。だれが悪いんだい」
老婆は全身を震わせていた。声がかすれて、息を飲み込んだ。
 「息子だっていたよ。大切にしてくれたおやじだっていた。金持ちだったんだ。南方に行ってね、みんな帰ってこないんだ。息子も、おやじも。はがきが一枚きて、元気でいるってきたけど、それっきりさ。このあたりはな、みんな、うちのものだったんだ。みんな、うちの小作だったじゃないか。かっぱらわれたんだよ。役所の連中だって、嘘ばっかりじゃないか」
 老婆は一息に言った。
 横にいる私をじっと見た。オ前モ同ジナノカイ。老婆は脂の張りついた目で私に何かを言いかけたようだ。


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