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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第22回   22 少女はドブに降りていった

22 少女はドブに降りていった


 老婆の偵察が中止になったその夜、私はいつまでも眠れなかった。
 隣で祖母が寝息を立てていた。その向こうに叔母が寝ていた。
 アスファルト道をときどき車がすべるような音をたてて走っていった。時計が同じ早さで動いている。
 私は枕元においてあった服を廊下で着替えた。
 従業員の部屋の前を抜けて、音がたたないように裏口に回った。従業員はまだ起きているようで扉の隙間から明かりがもれていた。私が歩いていく気配を感じたのだろうか、部屋の中が硬くなった。
 裏口のドアには凹凸が細かく入った四角のガラス窓がついていて、ぼんやりと明かりを散乱させていた。
 ドアのノブを回した。開くとき、引っ掻くような音がした。
 外は細い電信柱の先に傘のかかった電灯が明かりを落としていた。暗かった。

……モウ遅イカラ帰リナサイ。

 裏口から表通りに出て、少し歩くとアスファルト道に出た。
 昼間に黒い生き物がこびりついてきたところだ。いまは眠っているように頭をもたげてこない。じっと私の足元で息をひそめている。
 右側の畑のほうに行くと、昼間に佐々木や伊藤といた秘密基地がある。左へ行くと地蔵の立っている坂道だった。
 私は身をかがめて坂道を見た。
 地蔵の足下は明かるかった。ぼんやりとその場所が浮き上がっていた。私を誘っているようだった。
 近づくと、地蔵の前の石の箱にロウソクが灯されていた。その明かりをのぞきこんでいると、明かりの中に部屋が浮き出てきた。
 人の姿は見えなかった。
 どこの家なのか見覚えがなかったが、暖かな茶の畳の色だった。入口から奥に小さなタンスがあり、その横に鏡台が並んでいた。
 部屋の窓側に机がおかれ、花を挿した縦長の花瓶がのっていた。その横に白布に覆われた四角い箱があった。手前に線香が煙の筋をのばしていた。
 襖が開いて、女の子の白い靴下が見えた。
 別の部屋から襖を開けて現れたのだが、そちら側は暗くて見えなかった。女の子はスキップするように部屋を飛び回っていた。
 疲れたのか、突然、こちらに背を向けて足を投げ出して座りこんだ。肩が大きく揺れた。
 おかっぱの髪の毛がゆっくりとこちらを向いた。
 女の子は明るい顔でこちらに笑いかけた。口を開けたり閉じたりて、何かを伝えようとしていた。
 しばらくすると、部屋は次第に輪郭を失って消えて真っ暗になった。


 地蔵の横から私の前にその女の子が現れた。
 白いワンピースを着ていた。眉毛のあたりで揃えられた前髪のすぐ下に、二つの目がローソクの明かりで揺れていた。
 女の子はすっと手を伸ばすと、私の手首をつかんだ。冷たかった。
 坂下のドブのほうへ歩き始めた。
 ドブまでくると、女の子はドブをのぞき込めというしぐさをした。
 坂道から流れ込む細い流れの下に、大きな暗い入り口のような穴が見えた。黒い生き物が口を開けているようだった。
 女の子はドブの前にかがみ込むと、こちら向きになって石にしがみつきながら下に降りていった。
 下から私に手を伸ばした。
 私は右手を出した。女の子は私の手首をつかむと、こいというように下に引いた。凄い力だった。
 頭からドブに落ちてしまいそうになった。左手が必死に土をつかんだ。女の子はもう一度引いた。
 突然、後ろで甲高い女の声がした。
 その声に女の子は私の手を放した。私から顔をそむけて向こう側をむくと、そのまま暗い穴に駆け込んだ。
 後ろを見ると、向こうのアパートの二階につづく鉄骨の階段の途中に女が立っていた。弱い明かりの陰になっていたので顔は見えなかったが、ときどき美容院で見かける客だと思った。左手を手摺にかけて私を見下ろしていた。
 「危ないわよ。もう遅いから、帰りなさい」
 女は声をひそめて私に言うと、階段を上った。
 踵の高い靴が金属の音を響かせた。
 女は階段を上がったすぐ手前の扉の前に立つと、ハンドバッグを開けた。
 私は後ろ姿を見ていた。
 女の隣にぼんやりと白い影が見えてきたとき、扉が開いた。そこには外より暗い四角の空間が立っていた。
 女は飲み込まれた。女に続いて白い影が吸い込まれるように入り、扉が閉まった。ノブを引く手首が白く見えた。
 見上げていると、坂道が急に明るくなった。
 窓のカーテンに背伸びしたような女の影が映った。影はせわしなく動いていたが、向こう側に消えた。
 私は女の子が入ったあたりの穴を覗いてみた。
 細いドブから流れ落ちる水がコンクリートに跳ね返っていた。目を凝らしてみたが、女の子が駆け込んだ穴はなかった。洗濯石鹸の匂いがした。水の流れる音がかすかに聞こえていた。


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