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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第21回   21 大切なものと交換した「原色図鑑」
21 大切なものと交換した「原色図鑑」


 佐々木は電話の向こうで懐かしそうな声を出していた。話が終わりかけたころ、佐々木は私が秘密基地に持っていった新聞記事の話をした。
 「血と泥沼の争議って書いてあって、あの女はあとで暴力団に旦那を殺されたんだよ。俺、その新聞を見つけたんだ。その新聞の縮刷版というのがあって、俺、図書館で見つけたんだ。俺たちの隣町の工場の話だったんだ。俺、いま労組の専従をやっているから、あの写真の人たちが何を言いたかったのか少しはわかる。あの新聞で、こんな仕事についたのかもしれない」
 佐々木はいまついている彼の仕事に触れながら、私鉄K線のB駅で久しぶりに会わないかと言った。私は東京から越してきたころのB駅を思い出した。
 無人の踏み切りで両側を仕切られた小さな駅だった。
 板張りの駅舎はところどころに足で蹴られたような穴が空いていた。そう、ストーブが待合室にあったかもしれない。風が吹くと、土埃が舞い上がった。
 「いろいろ話したいことがある。俺たちって、大変な時代を生きてきたとこのごろ思っている。小学校のころもそうだし、その後のことはもっとそうだ。そんなことがあって、いまの俺がいるって思う。Fちゃんのこともだ。あんなことがあって、いなくなったんだもな」と最後につけ加えた。

……オ前ノ命ヲ売ルノカイ。

その夜、不思議な夢を見た。
 私は一冊の分厚な重い本を手に持って立っていた。
 周りにだれもいず、ぼんやりとした暗さだった。小学校の廊下のような感じもしたし、古い駅の待合室か改札口で立っているようでもあった。
 その本の表紙には「原色図鑑」と金箔の太い文字が押され、凸凹した目の粗い布が張られていた。
 がっしりとした扉を開くと、つやのある紙にカラー写真が写っていた。その脇に数行の文字が細かく書かれていた。しかし、読もうとすると、その文字の固まりは蟻の行列のように蠢いてかたちが崩れた。
 写真は、石仏だった。
 何十体も写っていた。いや、数百体になるだろうか。それ以上になるのか、相当な数の石仏が並んでいた。空は雨を含んだような厚い雲の空だった。
 暗い空の下ですべての石仏の首がなかった。肩から叩き落とされたような割れ方をしていた。憎しみで行われた殺戮のようにも思えた。
 勾配のきつい崖に立って、石仏は襲ってくる敵に向かって祈っていたらしい。みんな同じ方向を向き、激しい力を集中したようだ。その先は海だ。敵は海の彼方からやってきたらしい。
 石仏の足元は茎の長い草が葉を広げている。葉脈が鈍い光を真っ直ぐに伸ばし、根元から伸びた茎は先端に血だまりが固まっているような実をつけていた。
 首はどこに行ったのだろう。もぎ取られて、そのままどこかへ持っていかれたような感じだ。草むらには石の欠けらも落ちていなかった。
 石仏は両腕を臍のあたりに組み、薄ものの着衣を羽織っていたらしい。みんな丸い肩をして、両脚を組んでいた。なぜ、こんなにたくさんの僧侶が崖に座って祈っていたのだろうか。説明文は蠢いて文字にならなかった。
 托鉢に使う鉢の子を膝の上に置いている石仏もあった。手まりのような球体を手に乗せている僧もいた。なかには胸元で両手を合わせた指がはっきり五本数えられ、怯えたように上体が前屈みになっている僧も見えたが、だいたいが背筋を伸ばして正面を睨みつけていたと思われた。
 ここで壮大な戦いがあったのかもしれない。一瞬にして勝負に決着がつき、僧の首がはね飛ばされたのだろうか。


 「あんた、俺の宝物を買わないか」
 薄暗い道を私は歩いていた。
 四つ辻に来たとき、声をかけられた。
 脇にゴザを広げて物を売っている男がいた。
 灰色の頭巾をかぶっていた。私に宝物と言ったはずだ。顔を上げない。男は下を向いたまま話した。年齢はわからなかった。
 「いいものだよ、買って損はないよ。お前さんだけに用意されたものだ。ただ、お前さんが読みとれればだけどね」
 オ前ノ命ヲ売ルノカイ。
 「そうだよ、読みとれれば、俺は死んでしまうよ」
 イクラダイ。
 「お前が大切にしているものでいいよ。交換だよ。お前が死ぬか、俺が死ぬか。だから、いいものだよ」
 そうやって、私は原色図鑑を手に入れたようだ。
黄昏の道はすべてをぼんやりとさせて輪郭を奪っていた。
 原色図鑑と交換に私は何かを男に手渡したはずだ。なんだったのだろうか。男は大事そうに受け取ると姿を消した。たしか露地の角で振り向いたとき、もう返さないよと言ったように聞こえた。
 私は奪われないように下着の内側に原色図鑑を隠した。図鑑に触れた胸の肌が焼けつくように冷たかった。氷の固まりのようで、私が渡してしまったものの隙を埋めるようにピタリと納まった。
 私は、なぜ奪われないようにと考えたのだろうか。男に渡した私のいいものとはなんだったのだろうか。
 四つ辻の角に僧侶が立っていた。あの洞窟にいた老人だった。眼球をむきだし、顔中に釘で深く抉られたような傷が無数にあった。血は流れていなかった。傷から青い皮膚が剥き出ていた。
 耳たぶがちぎれて欠けていた。
 薄い唇を大きく開き、警告するように叫んでいた。しかし、声は聞こえてこなかった。眼差しはどこか遠くの何ものかに突き刺さるように見開かれており、まったく私に気づいていなかった。
 「どうやって生きていけばいいのでしょうか」
 老人は杖にもたれた元の姿勢に戻ると、また石になった。戦サハ全テヲ取リ返シノツカナイモノニサセテシマウ。
 私は手に持った図鑑の表紙を見ると、「色」の文字が違う文字に変わっていた。さらにその下に太い文字が加わっていた。「生キモノノ命ヲ返セ」
そののち、「色」はいろいろな文字に変わるのがわかった。「罪」であったり、そのつど、載っている写真は変わった。


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