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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第20回   20 地蔵の前に現れた少女

20 地蔵の前に現れた少女


 霊柩車を見送ってから、私たちはアスファルト道から坂道を下った。
 坂道の右側には柵で囲われた畑が続いていて、その先に老婆の小屋があった。左側にはコンクリートのドブがあった。
 坂の途中で、二人に気づかれないように赤いちゃんちゃんこを着せられ頭に赤い布をかぶせられた二体の地蔵に手を合わせた。いつも一人で通るときはそうして、私の祖父母と叔母が元気であることを祈っていた。
 教えられたわけではなかったが、そうすることが私の癖になっていた。祖父が亡くなってからは、祖母と叔母の二人の健康を祈った。
 私は祖父母に育てられていた。父と母の顔ははっきりとは覚えていなかった。家で父母の話が出ることはなかった。
 幼い私の記憶から父母は消されていた。祖父は一度だけ、母が訪ねてきても会うなと厳しく言った。
 いつから私は、地蔵に祈る癖がついたのか。
 頭半分ぐらい高さの違う一対の地蔵で、左側の背の高い地蔵が右手で左手の人差し指を握っていた。低いほうの地蔵は、胸の前で左右の手の平を指先まで揃えて合わせ、眠るように目を閉じていた。
 地蔵の足下の石段にときどき白と紅の饅頭がおかれたりしていた。
 風に乾いた皮が揺れて何日かすると、ネズミが囓るのだろうか、黒い餡が顔をのぞかせていた。雨が降れば、形が崩れて石段の前の細いドブに流れ込んだ。
 大雨の日にはそのドブはいつも水を跳ね上げるようにあふれ返って、老婆の小屋の前を流れているドブにすごい勢いで注ぎ込んだ。
 台風のとき、地蔵の向かい側に立つアパートに住んでいた人の女の子がその道で滑ってドブに落ち、もう少しで死んでしまうところだったと祖母から聞かされた。だから気をつけろと言ったのだが、地蔵がその女の子を助けた、ありがたいことだと祖母は繰り返し手を合わせた。私は、祖母の言い方が気になった。祖母はなぜ私に嘘をついたのだろう。あとで、饅頭を供えるのは、その子の母親だとわかった。


 そうだ、地蔵の前であの少女と出会ったのだ。私はすっかり思い出していた。あいつはそんな私を見て笑ったのか、身体がかすかすに揺れた。
 地蔵の頭巾が揺れたはずだ。
 そう、私の頭の上に黒い影がかぶさってきたのだ。顔の横を固い尖ったものがすり抜けた。膝が急に軽くなって、私は空を見上げていた。
 薄水色の空に朱の色が流れ込んでいた。
 半分が朱色に染まった白い雲が浮かんでいた。
 海で潜りをして空を見たような感じがした。ゆらゆらと空が揺れていた。
 左目の端に眠っている地蔵が映っていた。
 背の高いほうの地蔵の口が開いた。
 そこから人間の形をした白いものがあふれ出てきてこぼれそうになると、横から幼稚園ぐらいのおかっぱ頭の女の子が現れた。地蔵に近づいて左手を伸ばすと、白い形は次から次に手のひらにのっていった。
 そのまま左腕に飛び移っていき、肩や頭に座った。女の子が笑ったのか、口が開いて白い歯がのぞいた。
 女の子は私を見て、右手をゆっくりとこまねいた。
 赤い靴に白い靴下を履いていた。
 私は体を動かそうとすると、空がまた暗くなった。ちっ、と女の子が舌打ちした。早く、とも言った。
 鳥のような黒い影が右目の端へ消えた。
 女の子はいなくなっていた。
 「大丈夫かい。どうしたんだよ」
 私は水の底から空を見ているような気がしていたはずだ。
 水面の向こう側から二つの顔が近づいてきて、長い腕が伸びて私の肩をつかんだ。身体が揺れた。
 私の身体を揺すっているのは、佐々木だった。次に、伊藤の丸い顔が大きくなって、私をのぞき込んだ。
 「突然倒れるんだもの、ビクリしたよ」
 「あんな倒れ方って、初めて見たよ」
 私は膝を折って後ろ向きにひっくり返ったらしい。肘に血がにじんでいたが、頭は打っていなかった。
 「カラスが襲ってきたでしょ。飛んで来たじゃん、ぴゅっと」
 「何も飛んでこないよ。Fちゃんが変な声を立てるから後ろを向くと、ちょうど倒れるところだったんだ。スローモーションで、わざとやってるのかと思った」
 「女の子はどこへ行ったのだろう。小さな子がお地蔵様のところにいたんだけれど……。ほら、そこで手を伸ばしていたんだ」
 佐々木と伊藤は少女を見ていなかった。
 からだを起こすと、先ほどまでの夕焼けが消えていた。
 佐々木の半ズボンの両脚の間から見える畑や溝には身を伏せていた黒いしみがゆっくりとわき出てきて、坂の途中にいる私たちのところまではい上がってこようとしていた。
 早ク逃ゲロ。
 小さいほうの地蔵の赤い頭巾が揺れた。
 私は二人に引っ張り起こされた。
 坂の下をもう一度見ると、あの老婆が隠れるように小屋に入っていった。そのあとを追って黒い影がいくつも戸口に流れ込んだ。それまで私たち三人の様子を見ていたような気がした。
 「健ちゃん、きょう、中止にしていいかな」
 私は吐き気をこらえるしぐさをした。
 「光ちゃん、ごめんな」
 佐々木の返答を待たないで、私は伊藤にも言った。
 「しょうがないよ。きょうは中止だ」
 「ごめん、気持ち悪くなっちゃった」
 「じゃ、基地に戻ろう。そこで休もう」
 こんなとき、佐々木は優しくなる。伊藤は嬉しそうな顔をした。
 竹藪の秘密基地の周りはすっかり暗くなっていて、明日にもう一度計画を練ることを決めて家に帰った。


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