2 クラゲになった佐藤さん
私は、これまでずっと小心に生きてきた。 隅っこで身を隠して人に関心を持たれないように、そしてだれにも迷惑をかけずに自分の世界を大切にしてきた。 自分を守るために、人とのかかわりをできるかぎり避けてきた。だから、人を傷つけようと思って何かをすることはなかったはずだ。ささやかな、わずかな自分の喜びに満足してきた。ときどき他人を羨むことはあったが、これでよしとしてきた。この生き方を選んできたのだ。 それでもぼやっとした罪の意識みたいなものが私を苦しめる。忘れていると、夢に出てくる。どろりとした闇の底から私を睨む。
……俺タチハ、何時マデモオ前ヲ許セナイ。
駅前の居酒屋で友人の佐藤さんに話してみた。つきあい始めて二〇年ほどになるが、温厚な話し方で口元に笑みを浮かべている様子に好感が持てていた。 佐藤さんは私の話を聞き終わると、「俺たちは、少しずつ小さな罪を重ねて生きてきているのですよ。みんな、そうですよ。それらが忘れないでと言っているのだと思います。しかたないんじゃないのですかね」と呟くように話した。 「ただ、それをどう考えるかですよ。すまなかったではすみませんし、そんな思いを持つからといって、許してもらえるなんて都合のいいように思ってはいけないし、自分の言い訳にしてもいけませんね。でもね、もしかしたらですよ、その意識が自分をですよ、ほんとうと言ったらおかしいかもしれないけれど、自分のほんとうの生き方に向かわせてくれることになるかもしれません。でも、逆の場合ももちろんありますよね。いまは向き合うしかないのではないでしょうか。どうせ死んでいくのだし、逃げてごまかしてみても、あとどれぐらい残っているのかっていう話じゃないですか」 佐藤さんもそんな思いを抱えているのかを聞いてみた。 柔らかく息を吐くように笑うと、「置き忘れられたものの思いもあるでしょうし、置き忘れてしまいたいというこちら側の思いもあるでしょうからね」と私を見た。 私は、今年の秋に六〇歳になった。 佐藤さんは二つ年上で、テニス仲間だった。 頭はだいぶ薄くなって、身体の筋肉が落ちているのがウエアの上からわかった。出会ったころの印象とはずいぶん変わっていた。たった二〇年ほどのことなのに。 プレー中にときに厳しい表情を見せて、若いころはそんな顔をして仕事に打ち込んだのだろうと思えたが、普段はパートナーのミスも気にかけないタイプだった。勝敗にこだわる様子はうかがえなかった。 ベンチで横に座っていると、こちらがゆったりとした思いなる。穏やかな冬の日射しに温まっているような感じだ。 だからというわけでもなかったが、ふっと佐藤さんを飲みに誘ってみたくなった。これまで仲間たちと一緒に飲んだことはあるが、二人で酒を飲むということはなかった。 声をかけてみると、いいですよとためらう感じもなく受けてもらえた。 酒の量がすすんでも、佐藤さんの穏やかな口調は変わらなかった。 「かみさんと実家のことで喧嘩してしまって」 「俺だって、怒りますよ。女房と二週間ぐらい口を聞かないときだってあるし。別れてしまおうと思ったことだって、何度もね。でも、なんでしょうかね、いまも一緒にいるっていうね。薄氷を踏むような感じになったこともあるし、深い信頼感に心から感謝したときもあります。よく考えてみると、どれが俺なんだろうと思いますが、どれでもないのだろうとも思ってしまうんです。俺、何を言っているのでしょうかね」 佐藤さんは自分を俺と言う。にこやかな表情と「俺」という言葉が酒を飲んでいる間中、うまく重ならない思いでいた。 「俺も、このごろ昔の夢、見るんだよね。何でだろうね。小学校やもっと前かな、それとも中学や高校、べつに懐かしいんじゃないんだよね。逆に、嫌なんだよ。いつも、ごめんよ、ごめんよって言っているんだ。朝、目が覚めると、胸が苦しくなっていたりする。理由がはっきり分からないんだけどね」 だから、六〇年も小さな罪を重ねてきていれば、いまそれが確認の作業を俺に求めているのじゃないかなと思っていると笑った。私と同じ思いでいて、これまでそれが他人に話せなかったとも言った。 「俺らって、団塊の世代とか言われるでしょ。いつも一まとめにされて、性格づけられていますよね。たしかに時代の影響は強く受けました。そして、同じような方向を向いて大きな力となった感じがあります。競い合い、競い合わされ、憎み合い、憎み合わされ、殺し合いまでありましたね。強大な権力で押しつぶされたこともね。その中心にいたのが俺たちの世代だったのでしょうかね。そして、いまも同じ問題を抱えている。でもね、だから、みんな同じとは言えない」 いまになってわかることはと言いかけて、佐藤さんは酒を飲んだ。 「一人ひとりが抱えている、いや自分のなかに育ててしまった問題は別ですよね。同じことから出発してもね。Kさんが感じているいまの不安、漠然としていると言ってたけれど、これがはっきりしてこないでしょ、何かってということが。けっこう、みんな、そんな別々のものを抱えて生きているんだと思う。素知らぬ顔をしているのか、忘れてしまっているのか。Kさんの思いは、Kさん自身の問題だから他人にはわからないですよね。それに別の人から見ると、Kさんは何不自由なく暮らしているように見えているかもしれません。すいません、実際にそうでしょうけど。俺らの世代だって、他の世代だって同様なんで、俺たちは同じ時代に生きてきて、のぞき込んだものが人それぞれっていうことですよね。ただ、つながるところがある、これがちょっと困ったところです」 佐藤さんは、おっと深みに入っちゃいけないと笑って酒を飲んだ。私の様子を見るように、二合徳利を差し出した。 テーブルに二本立っていて、三本が転がっていた。お願いしますと、佐藤さんは店員に手を挙げた。 「やっぱり、俺は罪を重ねて生きてきたのだと思うし、もしかしたらこうやって物を食ったり言ったり、酒を飲んだりね、あるいは呼吸したり体を動かしていること自体が罪なのかもしれません。ただ、その思いをいつも自分の内に抱えていられるかです。俺は人間のたしかさって、これがあるかないかだと思っています」 佐藤さんは笑っていた。佐藤さんの丸い目は厚い瞼の奥で疲れているようだったが、表情は穏やかな印象に変わりなかった。 笑うと前歯が二本覗いて、リスがクルミを囓って申し訳なさそうにこちらを見ているような感じになった。 夏の一日、丸いサングラスをかけてコートに立っている佐藤さんの姿を見て、仲間の一人が面白い表現をした。香港映画に出てくる東南アジアのマフィアだね。 私はどんなふうに見られているのだろう。丸い帽子をかぶって、腹の突き出た狸が徳利ならぬラケットを持ってよたよたと走っている、信楽焼だろうか。 佐藤さんと私は、顔を見合わせて笑った。おそらく別々の思いで笑ったのだろう。 その夜、軽くと言っていたのが、ずいぶん遅くまで飲んだ。店員に言われて、閉店近くなっているのに気づいた。 いろいろと話したが、互いに立ち入ることはなかったと思う。微妙に避けている感じがあった。あるところまで行くが、それ以上になるといつの間にか戻ってしまう。それが心地よかった。 駅前の下り坂をおりていく佐藤さんの後ろ姿を見送りながら、私は胸に軽い痛みを感じていた。 佐藤さんは足取りから見て酔っていた。私のほうを振り向くと手をひらひらと振って、また前を向く。何度も私のほうを振り返った。海の中をひらひらと漂っていくクラゲのようにゆっくりと向こう側に消えていきながら、ちょっとこちらに戻ってくる、そんな感じだった。 私は、小さな灯りが並ぶ商店街の奥に佐藤さんが影法師のように消えていくまで見送っていた。 駅前に行き先を赤い表示にした最終バスが止まった。 降りる人影は、まばらだった。 列をつくっていた人が吸い込まれていき、バスがゆっくりと動き出して商店街と反対方向へ走っていった。その先に集合住宅と小さな家屋が建ち並び、私はその一角に暮らしていた。 いくつかの黒い影が足早に商店街のほうへ歩いていった。その後を追いながら目を凝らすと、佐藤さんを飲み込んだ商店街の闇が黒い大きな口を開けて閉じたように思えた。あくびをしたような感じだった。 眠っているような、見えない生き物に操られている。私はその正体をいつも手前で逃がしていた。
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