12 老婆の口は耳まで裂けた
「おい」と声がした。田の真ん中に白い顔をした案山子が立っていた。浴衣の上から筵を着せられ、木の一本足は冷たそうだった。 太い眉毛の下で片目を開けて、私を見た。 どこかで見たことがある。そうだ、学生時代に自殺をした友人の顔に似ていたのだ。寒イヨ、寒イヨ。友人は私にいつもそう言っていた。 稲穂を刈り取られた茎がぐるぐると踊るように案山子の周りを回り出した。そして、みんなで歌うように囃し出した。寒イ、寒イ、心ガ寒イ。 雨は細かな雪になっていた。私はその友人を裏切っていたのを思い出した。友人は私を怒ることなく、最後に淋しい便りをくれた。 私は後ろから叩かれた。 振り向くと、あの少年が身構えていた。その後ろで少女が青い顔を向けていた。話シテクレヨ、オ前ノオトギ話ヲ。
……俺タチノ命ヲ返セ。
私たちは、暗い柵の陰で息をひそめていた。 柵は杭を打ちつけた頑丈なものではなく、細い竹を縦と横に組み合わせて畑と道を遮るためだけに張られていた。 その隙間に植え込まれた小さな木が刺の葉を持つ枝を伸ばしていた。とても背の低い柵だったが、棘は強くて刺さると、指先なら血がにじんだ。 小学六年の私たちは、そこで膝を抱えて縮こまっていた。 佐々木の腰のベルトに額を押しつけて、私は人の影が小屋から道に出てドブのほうへゆらゆら歩いて行くのを見た。 後ろで伊藤が犬のように息を弾ませていた。五〇メートル走をやったばかりのとき、涎を垂らしながら伊藤が地面に蹲っていたのを思い出した。 日が暮れても、まだ地面から暑さが吹き出ていた。眠りかけていた蝉が思い出したようにときどきジーと鳴いた。 伊藤の細い顔の真ん中にある鼻が大きく見えて、そのてっぺんが葉陰から差し込む明かりで光っていた。 肘や足首をひっかいた。痒かった。 耳元で嫌な羽音が鳴っても、思い切り叩けなかった。 同じ場所に寄ってくる。手の平を開けていて痛みを感じた瞬間に閉じる。手を開いてみると、一センチぐらいの花が咲いたような模様になっていた。それが夜の暗さの中で黒い生き物のように広がっていた。 「ほら、あそこに捨てにいくんだ、あのばばあ。石油缶を持ってるだろ」 こちらにねじ曲げてゆがんだ佐々木の顔が小さな声で言った。 私は喉の奥が乾いていて、声を出すとせき込みそうだった。 返事をするかわりに佐々木の半ズボンの太いベルトを強く握った。父親からもらったという蛇皮でできた自慢のやつだ。うんと伊藤が返事をした。 さっきから同じ姿勢でかがんだままだった。 足先がしびれていた。 折れ曲がった運動靴の固い布が爪先の肉に食い込んでいた。もう帰ろうよと、伊藤が二回続けて言って、私の背中を軽く叩いた。 影は腰をかがめてゆっくりと進んだ。時間が止まってしまいそうに感じた。片方の足を引きずっていた。 右手に下げられた鈍く光る缶が影の動きに合わせて軽い水音をたてた。 「なにしてるんだろうな」。佐々木がいらついて言った。 影は、ようやくドブの前まで来た。足元に缶をおくと、腰を伸ばすしぐさをした。 しばらくすると、影は缶を持ち上げた。ドブに向かって缶を逆さにした。 ドブの水が鳴った。影は、背と頭の高さが同じくらいに曲がった姿勢のままドブを覗き込んで動かなくなった。 月明かりが黒い輪郭をつくっていた。 そのまま死んでしまったのではないかと思った。 呼吸をしている気配がなかった。私の心臓は周りに響き渡っているのではないかと思うほど強く打っていた。 蚊が耳の中に飛び込んできて、慌てて飛び出していった。なにしてるんだろうな、と佐々木が押し殺した声で言ったとき、老婆がこちらを向いた。 目が光った。 口が耳まで裂けた。 わっと後ろで声がして、伊藤が駆け出した。私は佐々木のベルトをつかんだままひっくり返った。 柵が鳴った。竹が折れる音がした。佐々木の背中がのしかかってきた。ダレダイ。低く太い声がした。 私は立ち上がれなかった。 膝に力を入れるのだが、腰が上がらない。握ったベルトを強く引くので佐々木は亀がひっくり返ったように両手足を動かしていた。 いてっ、と佐々木が小さな声で言った。私の顔の近くにも固いものが跳ねた。私は佐々木のベルトを離した。
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