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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第10回   10 生きていくには生け贄が必要
10 生きていくには生け贄が必要


 「なぜ、そんな話を俺にするんです」
 小皿の上で箸を遊ばせていた佐藤さんが下を向いたまま言った。底に残っていたグラスの酒をあおった。
 「私ね、若いころ人を殺してしまったのですよ。事故でしたが。幼稚園に行く前の小さな子どもでした。よく知っている近所の子です。飛び出してきたのです。前方不注意。どんな思いだったと思いますか。子どものご両親にすまないと思いました。でも、一番、辛かったのは、自分のかたちがはっきり見えることなんです」
 佐藤さんは下を向いたままだった。「とうとう、Kさんは、こんな話を俺にさせましたね」
 佐藤さんの語調は明らかに怒っていた。それは、私が佐藤さんに立ち入ってしまったのだ。
 かたちが見える怖さについては、佐藤さんから説明してもらわなくても同じように分かっていた。ただ、私の中で佐藤さんにそう話させたいという気持ちがあった。佐藤さんはそれを見破ったのだ。
 沈黙が長くなってしまった。
 いつもなら私は相手に軽い相づちを打っていたはずだ。しかし、私にはできなかった。私は、標的と感じた者をさらに追いつめてしまう嗜好がある。ときどき私は私が生きるための生け贄が必要になる。佐藤さんがどんな反応をするのかを確かめたくなっていた。佐藤さんはそれに敏感に応じた。私のずるさを許せなくなったのだ。
 「もう出ましょうか」
 佐藤さんは席を立っていた。私のしくんだ企みに腹を立てているのは明らかだった。またやってしまったと思った。
 店を出た。
 私は、佐藤さんが商店街の奥に消えるまで見送った。
 きょうは一度も振り返らなかった。酔っているのにずいぶん足早だった。街路灯が私の影を車道の中ほどまで長く伸ばしていた。その上を車が走った。
 佐藤さんと別れた後、夜の坂道を歩く私にあの少年の目が問いかけてくる。アナタハ僕ヲドウヤッテ受ケ入レテクレルノデスカ。コノ冷タサハ一人デハ抱エキレナイ。
 潮の香が鼻孔の奥に湧いてきた。夏の匂いがした。
 胃の奥から突き上げる吐き気で喉が鳴った。
 私は「魚になった男の子」からもう一人の私の記憶がはっきりしてきた。少年はその話を聞きたがっていたのだ。私がずっと抱え込んできたおとぎ話だ。
坂道で左腕に飛びついてきたものがあった。
 指でつまむと、それは長い紐になって絡んできた。ぬるりと動いた。道に振り払った。それは緩慢な動作で私がつまんでいたあたりから膨らんで、持ち上がった先端部分がT字形になった。俺ダヨ、忘レテイタノカイ。あのヒルだった。


 私はしばらく前から深夜の訪問者に怯えるようになっていた。
 その日の夜も、あいつはいつもの時間通りに来た。時間通りに私の部屋の椅子に座っていた。
 あいつは私の小さなころからついてきて、私に忠告をしていた。しばらく姿を見せなかった。私はすっかり忘れていた。少年の事件からだろうか、あいつは再び姿を現すようになっていた。
 私が部屋に入っていくと、いつもは私を無視して書き物を続けているのに、顔を上げて私を見た。
 両眼に丸い銀紙を張り付けたように暗い眼窩を覗かせている。指を差し込めば脳に触れそうだった。
 男は眼球のない顔を私に向けて、囁いた。
 「生キル意味ナド、ナイノダ。理由ヲ付ケナケレバ、不安ダカラダ。命ノ尊厳、ソンナモノハ、都合ガ悪クナッタ奴ラガ考エタモノダ。ミンナ嘘ダ」
 私は深夜、この男と向かい合うようになってずいぶんになる。
 私の部屋で男はちょうど一時間過ごしている。書き物をし、私を徹底して無視するように話す。
 「戦サデ、小サナ子ドモガ泣キ叫ンデイル。ソレダケデ、俺タチノ罪ナンダ。ソノ一人ノ子ドモサエ、俺タチハ助ケラレナイジャナイカ」
 私は、その夜、夢を見た。小学生の自分を眺めていた。
 目の前の厚手のカーテンを押し広げると、私の前に穏やかな小さな港町があった。ここである時期まで過ごしたことを思い出した。ここで、あいつとも出会った。


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