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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第1回   1 眼球のない男
老婆の弔い


仁科 治



1 眼球のない男


 背後から無数の、つぶやきが聞こえてくる。振り向くと、しゃがみ込んだ髪の長い少女だったり、野球帽をかぶった少年が蹲っている。みんな、私に背を向けている。
 仮面をかぶっているのだろうか、後頭部に回した蝶々結びの赤い紐が揺れている。肩越しに金属の鈍い照りが揺れる。乾いた地面が鳴る。茶色の粉が彼らの腕にまだらの汗の模様を描いている。彼らは、地面を掘ることをやめない。
 彼らは私を拒絶している。
 「ごめんよ、ごめんよ、おばあさん、僕はあなたに何もしてあげられなかった。あなたのおかげで、僕は生きてこられたのに」
 私に刺さった氷…。六〇年たって、その存在が影を濃くしている。地面の穴からつぶやきが湧き出て、私に近づいてくる。オ前ハ、マダミンナヲ騙シテ生キテイル。

  ……オ前ハ人ヲ信ジナイ。人ヲ愛サナイ。

夕暮れらしい。
 海に突き出た半島の中腹に陽が沈みかけていた。赤く激しく、そして諦めるように紅の色を海面に映し、ゆっくりと沈んでいる。
 暗くなっていく。海面から霧のように闇が這い上がってくる。
 私はボートに乗っていた。
 山の端も浜辺も眠り込み始めたようだ。船縁を打つ波の音がやわらかくなり、いつか消えていた。
 どのくらい経ったのだろうか、海面が白くなっていた。
 月が出ていた。一本の黄色い明かりがこちらに伸びてきた。
 船縁から身を乗り出し、海面すれすれに顔を突き出して空と海の境であろうあたりを見ていた。
 舳先はゆっくりと水を割いて進んだ。月は明るさを増した。
 船はどんよりとした厚手の布地の上を滑るように進んだ。静かだった。
 指先を海面に伸ばした。指先を包み込むような感触が伝わってきた。心地よかった。
 しかし、それは仕組まれた罠だったのかもしれない。
 海面から木の枝が伸びていた。月明かりに青みを帯びていた。
 ぼんやりとした感じが、しだいに力強いしなやかなかたちになっていった。
 間近になると、肘のあたりまで海面から突き出されている腕だった。握られた拳に太い血管の筋が浮いていた。
 顔を近づけてみると、飛沫をはじけさせて指が開かれ、私の喉元をつかんだ。
 ぐいと水の中に引き込まれた。海面に激しく叩きつけられた。
 目を開いた。無数の気泡のなかに二つの黒い穴が見えた。眼球をくりぬかれた顔だった。頬がこけて額のあたりに髪の毛が揺れていた。
 男は、大きな口を開けて叫んだ。私は男の言葉が聞き取れなかった。
 歯が妙に白かった。顔の皮膚は焼けこげてしまったように真っ黒だった。
 ゴメンヨ、ゴメンヨ。私は遠くから泣き声を聞いた。私の声なのだろうか、ぼんやりとそう思った。ただ、首を絞める強い力は、取り返しのつかない何かを私がしてしまったことをはっきりと教えていた。私も水の中でもがきながら、悔いていることは確かだった。


 目が覚めた。部屋は薄い灯りがついていた。隣で妻が眠っていた。
 心臓が大きな音を立てて続けていた。胸が重く苦しく痺れた。
 外の明かりが障子に揺れていた。
 夜半から風が強まったのだろう。雨が降っているのか。いや、樹木が葉を鳴らしているのだ。ときどき幹を掴んで揺するような大男の影になった。部屋の隅にはこちらをうかがうように影が蹲っていた。
 あの男はだれだったのだろう。
 私をずいぶん恨んでいた。憎んでいた。オ前ハ人ヲ信ジナイ。人ヲ愛サナイ。あの男は最後にそう叫んだ。
 私はなぜ海面をのぞき込んでいたのだろうか。いや、後頭部を押さえつけられていたのかもしれない。
 背後にだれかがいたような気もする。こうされたらどんな思いがするか、よくわかるだろうと後ろで言っていたような気もした。
 私は両腕で胸を締めつけてみた。
 力を少しずつ強めていく。柔らかい骨が内側に曲がっていく。
 しだいに腕の痺れが身体全体に広がってきて、腕の力を緩めた。少しずつ胸の重苦しさがとれていった。


最近、痺れるような痛みが胸を圧迫してくる。
 縮みこむような感じのあとに、不安定な感情がやってきて動悸が激しく打ち始める。
 自分の根っこにあったと思われるものがなくなって、私を説明してくれていたすべてが失われていく。空洞になってしまう感じだ。呼吸のできない空間、そうまったく何もなくなってしまう。
 そのあと、これまで出会ってきたいろいろな人が思い浮かんでくる。
 懐かしさから、ではない。
 どの顔にも、傷つけてしまった、ああ、悪かった、という思いが湧いてくる。そのまま耐えられなくなってくると、顔が充血してきて大声を出してしまう。電車やバスの中では、周囲の人が距離をとるのがわかる。自宅の居間では、妻の叱責が飛ぶ。「気味が悪い」。必ず諍いになった。


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