八月の強烈な熱気のおかげで、店は朝から大変な繁盛だった。 この店は、『カフェ』というよりは『喫茶店』という形容がしっくりとくる。今ではもう珍しくなった昭和を彷彿とさせるレトロな内装であるのだが、かえってそんな雰囲気が人々の心を安らがせ、今では知る人ぞ知る隠れ家のような存在となっている。
この店のマスターと父親が旧知のため、彼女は『夏休みの間だけ』を条件に、この店でアルバイトをすることを引き受けることにした。 肩にかかる髪を後ろでひとつに束ね、赤と白のボーダーのTシャツに、ジーンズ生地のミニスカート姿の彼女は、18歳という若さに満ち溢れ、化粧気はないが充分に魅力的であった。 生来の性格ゆえか、きびきびと立ち働き、お客に対する愛想も良く、また客受けも良かった。
店の呼び鈴が心地よい音を立て、男がひとり入ってきた。 優しげだが、どこかくたびれた印象のある初老の男だった。 彼女が差し出したおしぼりで、気持ちよさそうにひとしきり顔を拭き終えると、その男は静かに彼女を見つめた。
「れいこ…」 彼女の動作がぎこちなく止まった。 その手からボールペンがこぼれ落ち、渇いた音を立てた。
レイコ…。
今日何度自分はその名前を呼ばれただろう…。
レイコとは、一体誰? 私と、そのレイコという人はそれほどまでに似ているのだろうか。 様々な疑問が彼女の頭の中に浮かぶが、今は勤務中。 仕事に集中しなければ、と彼女は自分に言い聞かせた。
「ご注文は?」 彼女は努めて冷静に、にこやかにその男に対応した。 「れいこ」 「いえ、ですからご注文を教えてください」 「れいこ」 その男はよほど思い入れがあるのか、『れいこ』『れいこ』と繰り返す。 とうとう彼女はぶち切れた。
「私はれいこではありません! 美幸です!橘みゆき!!!」
彼女の甲高い金切り声が店内に響いた。 ごたいそうに、フルネームを名乗っている。
マスターがひとつ咳払いをする。
「あの…みゆきちゃん、 それって、『れいこ』じゃなくて 『冷コー』のこと。 大阪の方言で『アイスコーヒー』って意味なんだよ」
それもまた、ある夏の日の思い出であった。
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