「小泉、お前確か教職もってたよな?すまんが、2学期の間だけ高校で生物の授業を受け持ってくれないか?」
それは教授の唐突な申し出で、俺は食いかけのカレーパンを喉につまらせる。
「ひゃい?」
事の経緯はこうだ。 現在俺は大学院で植物の研究をしている修士課程の1回生なのだが、教授の知り合いが理事長を務める、地元じゃちょっと有名なお嬢様校、『白百合学園』の生物の受け持ち教師が予定より早く産休に入ったため、急遽講師を募集しているとのこと。 しかし短期が条件なために応募者が少なく、大学院生の俺に白羽の矢が立ったというわけだ。
「えー!白百合の講師だったら、小泉じゃなくて、俺がやりますよ。 いいじゃないですか〜 女子校、禁断の園、男にとっちゃ憧れですよぉ」
と鼻の下をのばすのは、一年年上の坂田先輩。
「いや、お前は2回生だし、そろそろ修士論文の追い込みをかけなきゃならん時期だろう。 山本は博士論文と学会の準備でそれどころじゃないし。 というわけで、ちょっと小泉、私の顔を立てると思ってここはひとつ頼むよ」
白百合学園は私学なだけあって、施設も研究設備も整っており、空き時間は自由に修士論文の研究に費やしていい、ということを条件に俺はそれを引き受けることにした。
「女子校ねえ・・・・。」 引き受けてはみたものの、坂田先輩のようには喜べない。 なんてったってこの俺は、女に対して全く免疫がないのだ。 小、中、高とエスカレーターでせっかくの青春時代を酸っぱい男子校で過ごし、大学は一応共学だったのだが、我が校の農学部には女子は申し訳程度の人数しかいなかった。しかもその希少な女子は、もはや女子とは呼べず、性別すら疑わしい生物へと化してしまっていた。 そんなわけで俺の23年間の人生の中で関わった女性といえば、母ちゃんと食堂のおばちゃんくらいか? 俺は今までの俺の人生を振り返り少し悲しくなった。 パソコンに花の写真をとりこみつつ、ため息をつく。
「植物って、パンツはくべきだよなあ」
などと、不健全な独り言をつぶやいてみたり・・・・。
「おい!小泉!!!」
ゼミにおいては先輩、寮においては隣の住人の坂田先輩がダンボール箱を抱え自室を訪れる。
「すまんが、小泉、明日母親が来るんで、これ預かってくれねーか?」
と託されたのは、彼ご自慢のエログッズの数々。
「はあ、まあいいですけど・・・・」
と俺はしぶしぶ了承する。 彼が自室に戻るのを確認し、中身を拝見すると、
「『隣のお姉さん』ってもう先輩ったら、いやらしいんだから!」
とかいいつつ、そこにまじって、おお!!!これは熊田曜子の写真集!!! 嫌いじゃないけどね・・・・。とそれを手に取った瞬間
――――げへへ〜 熊田曜子の写真集に目を留めるとは、 おぬしなかなか目が高い――――
下品この上ない声が頭の中に鳴り響く。
「誰だ!」 部屋を見回しても誰もいない。 ――――わしか?わしは泣く子も黙るエロ仙人じゃ――――
エロ仙人・・・・。俺は眩暈を覚える。 今時少年マンガにもでてこねーぞ!そんなネタ・・・・。 ――――おぬしは見たところ、女にモテない童貞男じゃろ。 ならば古今東西のエロを知り尽くしたこのわしが、 おぬしに究極のエロを指南してやろうぞ!―--- 「いらねぇから消えろ!」 と俺は部屋中に殺虫剤をスプレーする。
――――その代わり、おぬしの意識の中にわしを住まわせろ〜 げへへ〜――――
「いやああああ」
真夜中の学生寮に小泉の絶叫が響き渡る。
――――エロ仙人降臨――――
こうして俺はエロ仙人と名乗る、多分妖怪?だかなんだかに取り憑かれてしまったのである。
――――ええのう♪ ええのう♪ 女の園か、女の園。女体パラダイスじゃあ〜♪」
エロ仙人と名乗るこの別人格は朝からこの上なく上機嫌な様子。
「うるせーよ。いいか、絶っっっ対に余計なことすんな!おとなしくしてろよ!!!」
といって聞かせると
「わかっておるわ!」といいつつ不満げな口調。
「しかし・・・・あれじゃろ?そんなこと言って、おぬしも本当は嬉しいんじゃろ? ほれほれ、ならちっとは嬉しそうな顔をせんか〜」
じじいは妙な術を用いて俺の顔に筋肉を引きつらせる。
「やめんか!!!」 思わず怒鳴りつけてしまったのだが、如何せんここは朝の満員電車の車内。 微妙な空気が流れたあとに、人々はいっせいに俺から距離を置こうとする。 「アヤシイ人と目を合わせちゃいかん」 そう物語る視線が痛いのか、俺が痛いのか、もうなんなんだか・・・・。
――――白百合学園3年A組―――― 女子高特有のなんともいえない、ほらあの感じ・・・・。 ふわっとした薔薇の香り・・・・っていうのはもう少し大人になった女が醸し出す香りで、この年齢の少女たちが愛用するのは、市販(花王)の汗の消臭スプレー8×4と書いてエイトフォーと読む代物だ。エイトフォーそれはすなわち少女たちにとっての青春の香りなのである。 「新しい担任の先生だって〜」 後ろから2列目のおさげが前の女子をつつく。 「どうだろ?う〜ん評定平均値でいえば、5段階評価のノート提出のおまけつきで、3.5から4ってとこか」 「理江子厳しいな」 なんだか、自分が動物園の檻に閉じ込められた、コリラの気分になってくる。
「え〜と、産休に入られた安浦先生に代わり、2学期の間皆さんを受け持つことになった小泉祐一郎です。よろしくお願いします。」 新任の挨拶もそこそこに、A4の黒い板で綴られた生徒名簿をひらく。
「では、出席をとります、赤井美穂さん・・・・」 「はい」 ――――ピンク♪――――
「井上由香さん」 「はい」 ――――水色♪――――
「上田一美さん」 「はい」 ――――黄色♪――――
――――なんなんだよ、さっきからうるせーぞ!じじい―――― 俺は心の中でじじいを怒鳴りつける。 ふと目を上げてみると、なんと名前を呼ばれた生徒の下着が透けて見えているではないか!!!
――――見えるぞ!私にも敵(パンティー)が見える―――― 俺の意識下で連合のモビルスーツと赤いザクに乗ったあの男が激しく戦闘を繰り広げる。 理性VS煩悩 それは宇宙世紀に繰り広げられた、ジオン公国と地球連邦軍との死闘に匹敵するものであった。
意識下では、もはや大変なことになっている俺だが、表面上はつとめて冷静を装い、出席をとり続ける。
「小野田 舞子さん」 ――――おお!純白パンティー♪♪♪――――
純白 純白 純白・・・・
――――アムロ、逝きます―――― 俺の意識下でアムロが華麗にガンダムを発進させる。 しかしアムロよ、君は一体何処に旅立つんだ?
朝のホームルームを終え、俺は研究室に向かう。 ――――して、おぬしは一体誰が好みなんじゃ?―――― 俺の脳裏に純白パンティーの乙女が思い浮かんだ。 「出席番号5番、小野田 舞子・・・・か」 なんとはなしに、つぶやいてみる俺だった。
プリント作成、実験の用意とやることは山ほどあって、ゆっくりと昼食をとる暇もない。 食いかけのやきそばパンをそこに置き、俺はパソコンと睨めっこの最中。 なのだが、そこへ体育教師の板倉智子が入ってきた。 彼女は小泉の前で両手を合わせ、 「ごめん。今、幼稚園から連絡があったんだけど、うちの子熱出しちゃったらしくて、すぐに迎えにいかなきゃならないの。次の時間3−A体育なんだけど、体育館でリクレーションでいいから、小泉先生見ててもらえないかな?」
新任教師に否という権限など、与えられていようはずがない。
「はい、いいですよ。子どもさん大変ですね、 はやく行ってあげてください」
俺はつとめて営業スマイルで対応する。 ばっちり、さわやか新任教師。
――――げへへ〜 体育、体育といえばブルマ〜じゃあああ♪―――― ――――いいか、じじい、よく聞けよ。―――― ブルマは今絶滅危惧種に認定されている。 二酸化炭素の排出拡大に伴う地球温暖化現象、酸性雨、 俺たち人類は利便性を追及するあまり、自然との調和を崩してしまったんだ。 そしてブルマも・・・・。 だけど俺たちは決して忘れない。 忘れちゃいけないんだ。 XJAPANのあの曲のように。 『Forever Love ブルマ』――――
じじいは、力なくむせび泣く。 ――――そんなの嫌じゃ、わしはブルマが見たいんじゃ。 っておい小泉あれを見よ――――
3-Aの乙女たちが身に着けているのは、まぎれもなくブルマ・・・・。
――――ブルマ降臨――――
じじいのテンションが復活する。 「えーと、体育の板倉先生が急用のために、私がこの時間の監督をさせていただきます。では、まず準備運動から」 掛け声とともに準備運動をはじめる乙女たち。 じじいがそれに合わせる。 ――――あっそれ おいっち にい さん しい ボイン♪ ボイン♪ ボイン♪―――
――――どんな掛け声やねん!―――― とつっこみつつ、体育館5周のランニングの指示を出す。 「そーれー ファイトー ファイトー」 35名の女性とたちが一斉に走り出す。
――――ええのう♪ ええのう♪ 揺れるおっぱい。 透けるブラジャー。 これぞまさしく青春じゃのう。 しかし、せっかくなんじゃし、もうちょっと刺激がほしいのう えいや!――――
「―――― -―――!!!」 ら・・・・裸体が・・・・女子の裸体が団体で体育館をランニングしている!!!
シャアの攻撃を受け墜落していくガンダム。 強力なGがアムロの身体を襲う。 『ジークジオン ジークジオン』 『ジオン公国に栄光あれ!』 え?これってガルマが死ぬときの台詞じゃないの?
体育館の床にボタボタと赤い液体が落ちたのを見やりつつ、それがぐにゃりと歪んだ気がして、後は・・・・ブラックアウト。 気がつくと俺は体育館の隅に、アイスノンをおでこにのっけて、寝かされていた。
「気がつきました?」
と心配そうに顔を覗き込むのは、出席番号5番 小野田 舞子。
「先生さっき倒れちゃったんですよ。覚えています?」
なんという失態だ。 情けないにも程がある。 俺は盛大に落ちこみ、誓う
――――じじい、殺す―――― ――――わしのせいじゃ、ないもん。 おぬしの修行が足りないだけだもん――――
そして翌日、俺にあだ名がつけられた 『鼻血ブーすけ』 不名誉極まりない。 職員室でも、教室でも、 俺の顔を見て皆が笑う。
「ちくしょう」
恥ずかしいのと腹立たしいので今日も気分最悪。
――――なあ〜祐一郎よぅ〜せっかくの昼休みに、こんなところで隠れておらんと、 もっと陽の光を浴び、青春を謳歌せんか?見てみよ校庭を。 乙女たちが小鳥のようにさえずっておるではないか。 いざゆかん乙女ウォッチングぅ〜――――
――――うるせー、誰が行くか!――――
俺は食いかけのくるみパンを不機嫌に口に放り込む。 不意にコツコツと窓を叩く音がする。
「ひゃい?」
くるみパンを頬張りながら応じると、小野田がひょいと顔を出す。 小野田は窓から器用に入り込み、
「これ食べて」と弁当を差し出す。 「昨日先生倒れちゃったから、びっくりしちゃった。 えへへ、手作りだよ〜」 そして、何を思ったか、自分も俺の隣にちょこんと腰掛け、自分の分の弁当を食べ始める。 親切? 好意? はたまた餌付け? 同情? 俺は彼女の思考を理解しかねる。 彼女は不可思議な存在だった。 何一つ気負うところのない、また飾るところもない、あまりにも無防備で隙だらけの存在。 無理もない・・・・か。 ここ白百合学園はやはり幼稚園、小、中、高と一環のエスカレーター式の女子校で、彼女も俺と同じく、家族以外で男という存在に接したことがないのであろう。 『未知との遭遇』まさにそんな形容がふさわしい出会いであった。 何を話すわけでもない。 ただ一緒に昼飯を食べ、 食べ終わると彼女は俺のパソコンでゲームをはじめ、 俺は修士論文の資料に目を通す。 で、何をどう気に入ったのかは皆目検討がつかないが、 小野田は「明日も来るよ」といって部屋を後にする。 こうして二人の奇妙な昼休みの関係がはじまり、 「先生〜わたし家庭科部なんだ〜」といっては、 よく手作りケーキなるものも頂いた。 しかもこれが、けっこう美味い。 さすがにもらってばかりでは俺も気が引けたので、せめてものお返しにと、
「なあ小野田、今度の日曜日に一緒にどっか行かねーか?」と誘ってみる。
――――げへへ〜 おぬしもついに男の本性むき出しか〜?――――
――――違う!そんなんじゃなくて、 そう・・・・純粋になにかお返しがしたかったんだよ!―---
俺は剥きになって、じじいに反論する。
――――本当か?本当にそうか?祐一郎よ。 初デート、初デートだぞえ。 ちゅーとかしちゃうのか?ちゅー!うぷぷ――――
――――だから、そんな気はないの。俺も小野田も! 見ててわかるだろ?それくらい。―---
――――おぬしはまだまだ修行が足りんのう―――― なぜだかじじいは盛大にため息をつき、ひとりごちる。
――――にぶちんが、二人――――
そして出席番号5番、小野田舞子は、満面の笑みで「水族館に行きたい」と答えた。
日曜日、待ち合わせの駅に向かうと、すでに彼女はそこにいた。 淡いピンクのフラワープリントのキャミソールのワンピを可愛く着こなし、ブーツを履いている。 なんというのか、今の心情の説明に困る。 妹がいれば、こんな感じなんだろうか。
晴天のもと、それはどこまでも健全に行われた。 水族館に着くと、冷房が少しきつめに効いていて、俺は着ていたジャケットをぶっきらぼうに彼女に渡す。 「着てろ」 彼女は、少し大きめの俺のジャケットを、だぼっと着込む。 それはそれで愛らしい。 確かにキャミソールは可愛いのだが、彼女の肌が他人の目に触れるのが、なんとなく嫌だったというのもある。
巨大な水槽の中にトンネルが作られており、そこを歩く。 自分の頭上を色とりどりの魚たちが行きかう様は、さながら非日常で、俺はぼんやりとその光景に見入る。
「先生〜はやく〜!」
水中トンネルの先のほうで、彼女が手を振る。
「ああ、すまん」
彼女のお目当ては、アシカ・・・・なのだそうだ。 彼女はアシカの水槽にへばりついたまま離れようとしない。 アシカのほうも彼女を不思議そうに見つめている。 そんな彼女たちのアイトークを、俺はもはや、つっこむなんて無粋なことはしない。 気がすむまでそうしてろ。
ペンギンゾーンはさすがに人が多く、はぐれまいと彼女は俺のシャツを必死で握るのだが、背の低い彼女はやはり人ごみにもまれ、立ち往生じてしまう。 「ああもう」 と俺は彼女の手をしっかりと握る。 「あっ」 彼女は赤面し、下を向く。 そして認識する。
――――今、俺は一人の女性と手をつないでいる――――
もはや、自分に言い訳ができなくなっていた。 マイムマイムじゃあるまいし、 これは、おそらく教師と生徒でするべき行為じゃない。
「あのね、先生。 わたしお父さん以外の男の人と手をつないだの、初めて」
うっすらと頬を紅潮させ、彼女は嬉しそうに微笑む。
――――俺だって、母ちゃん以外の女の人と手ぇつないだのは初めてだよ――――
彼女の手は、小さくて温かい。 「ちゃんと離れずに、俺についてこいよ」 そういって言って顔をそらす。 手はつないだまま。 「えへへ〜」 少し照れたように、彼女が笑う。
後日、小野田舞子は白百合学園の懺悔室にいた。 小泉と水族館にいたのを運悪く目撃されてしまったのだ。 白百合学園はカトリック系のミッションスクールで、偏差値はさることながら、その校則が厳しいことでも有名だった。休日に異性と歩くときは父親や兄弟であっても学校に届けをださなければならず、しかも一緒にいたのは父でも兄弟でもなく教師であった。
舞子は懺悔室から、なんとはなしに隣のミサ室を見る。 棘の冠りをいただき、十字架にかかるイエス像と、その横には悲しげにイエスを見つめる聖母マリア像が置かれている。 舞子はマリア像に問うてみる。 ――――人を好きになるのは、罪ですか?―--- マリア像はこたえない。 ただ悲しそうにイエスを見つめている。 そんなマリア像を見ているとなんだか舞子も悲しくなってきた。
――――自分は、恋をしてしまった。―--- それは生まれて初めてことだった。 恋とは―――暖かくて、幸せで、ちょっぴり切ないのだ。 そして今自分は、その感情を少し持余している。
「一体どういうことなのですか?」 校長に呼び出され、厳しい尋問の最中なのだが、俺は先ほどから一言もこたえられない。 「大変申し訳なく思っています」 俺は深く頭を下げる。 高校教師と生徒、さすがに学校の外で会うのはまずい。 本当にどうかしていたとしかいいようがない。 「事は彼女にとっても、学園にとっても大変不名誉なことであり、表沙汰にはしたくありません。今回のことは内々に済ませたいと思っておりますが、今後は二度とこんなことが起きないように厳重に注意してください」 「はい」
自身を苛むのは後悔と自責の念。 俺は激しい自己嫌悪に陥る。
――――おいよう、祐一郎、お前らは別に悪いことをしたわけじゃないんだぞ? 教師と生徒といえど、男と女じゃ、 おぬしは彼女に無理強いしたわけでもないし強姦したわけでもない。 あまつさえ、おぬしチュウーすらしとらんではないか!―---
――――そりゃ やってねーし、そういうつもりもなかったんだけど、世間じゃそういう風には見てくれねーんだよ――――
――――タブーとかいいながら、教師と生徒が結婚するなんて、よくあることなんだし・・・・ 気にすんな――――
じじいの慰めが、なんだか胸にしみて、俺は柄にもなく礼を言ってしまった。
――――サンキュ な――――
生物研究室グランド側の窓を小さく叩く音がする。
「えへへ〜 」と笑いながら小野田が顔を出す。
「懺悔室に3時間閉じ込められちゃった」
そういって彼女はペロリと舌を出す。 ああ、ここいらが潮時だ。
「小野田、この間外に連れ出したのは俺が悪かった」
小野田は下を向く。
「やだなあ、先生 なんで謝るの?」
「小野田、もうここにきちゃいけない。」
小野田の瞳が見開かれ、涙がこぼれ落ちる。
「・・・・や・・・・」
涙とともに感情があふれて、うまく言葉をつむげない。
「もう、帰りなさい」
窓を閉めカーテンを閉める。
暗くなっても窓の外ですすり泣く声がやむことはなかった。
――――あの〜もしもし?祐一郎君?―--- 明日の授業の準備、修士論文の研究データの集計、俺は思考を切り替える。 なすべきことをなし、後は日常に戻るだけ。
――――おい!祐一郎、一体いつまで入力やってんの、ぶっ倒れるぞ!―---
―――― ああ ――――
――――おぬし、飯も食っておらんではないか!―---
――――別にどうでもいい――――
――――ちょっとー!!!―---
さすがのエロ仙人も少し焦り気味の展開である。
小野田は毎日生物研究室を訪れた。 コツコツと窓をたたき、小泉を呼ぶ。 小泉は無言でカーテンを閉める。 彼女の瞳が苦痛に歪む。 今日は外は土砂降りの雨、傘をさしてもあまり意味はない。 彼女は帰らない。 秋雨にその体温を奪われても じっとその場に立ち尽くす。 先に音をあげたのは小泉のほう。 研究室に招きいれ、彼女にタオルを渡す。
「だからどうして――――」
小泉は苛立ったように彼女から視線をそむける。 彼女は真っ直ぐに小泉を見つめる。
「どうして来ちゃいけないの? わたしは小泉先生が好き、だから会いに来るの」
「俺はお前が好きじゃない」
彼女の顔が苦痛にゆがむ。
「いいもん・・・・」
沸騰したやかんの湯をカップに注ぎ、俺はココアをつくって彼女に渡す。 とりあえず飲め、そして冷静になろう。 俺は小野田の目つきが恐かった。
「いいもん・・・・ 先生がわたしのことを好きじゃなくても、 わたしは先生のことが好きだもん」
「先生、わたしを・・・・抱いてください」
外は土砂降り。 彼女はびしょ濡れ。 その純真な心を引き裂いてしまったであろう直後。 放課後の生物研究室に男と女が二人きり。 俺は彼女の華奢な身体を抱き締める。 濡れたブラウスから伝わる体温が妙にリアルで、切なさが胸に込み上げる。
「女の子が、簡単に『抱いて』なんていっちゃいけない。 それはお嫁に行くときまで大切にしなきゃならないんだよ」
――――そんなこと言うとるから、おぬしはいつまでたっても童貞なんじゃ! 据え膳食わねば男の恥というだろうが!!渇!!!――――
じじいが怒り狂う。 ――――ハーレクイーンでも同人誌でも韓流ドラマでも、 寸止めが一番むかつくんじゃあ!!!―---
――――うっさい!これが男の純情なんだよ!俺のポリシーなんだよ!!!―---
胸の中で小野田がすすり泣く。 それはあまりにも頼りなく、世界一かけがえのないもののように思えた。 『愛しい』そんな思いが胸を締め付けるが、だからこそ、その存在を守ろうと心に誓っ た。
無言のまま、俺は彼女の頭を撫でる。 「・・・・もう、ここに来ちゃだめだ」 彼女は小さく頷いた。
後日のこと 「あっコンパですか? 行きます!勿論参加でお願いします」
その電話は、大学院の坂田先輩からだった。 コンパの相手は、美人揃いと噂に高いK女子大、ということで坂田先輩に気合がみなぎ る。 ――――コンパ♪コンパ♪久しぶりのコンパ♪―――― じじいのテンションも上がる。
それはK女子大の近所にある、ちょっと小粋なレストラン風の居酒屋で行われた。
女性雑誌の『anan』あたりで特集してそうな、ふわふわワンピの女。 男の萌えをきちんと踏まえ、そのうえできちんと作戦を立てている。 こいつはできるとみた。
知的エレガント系お嬢様風の女。 素材は悪くないのだが、おそらく男性経験はあまりないでろうことが予測される。
胸元強調系の肉体派。 う〜ん、俺は遠慮したい。
以上3名の女性と、坂田先輩、山本先輩、俺の3対3となった。 ――――おい、じじい、どれが好みなんだ?―-- ――――いわずと知れたこと、勿論全員制覇じゃ――――
おいおい、恋愛シュミレーションゲームじゃないんだからさあ。 といいつつ、正直どうでもよかった。 空虚な会話と時間が流れ去り、俺はただ雰囲気を壊さないように曖昧に笑うだけ。 口に運ぶビールがやたらと苦いと感じ、不快だった。 ただそれだけ。 3人の中で、一番無難そうな知的エレガント系とメルアドを交換をしたのはしたが、その日のことはあまり記憶に残っていない。
日常から色が失われたように、毎日がセピア色の思い出のなかの出来事のようで、あん まりぱっとしない。 言い換えるなら、感情のともなわない日常を淡々とこなしてる感じ。 それでもなんでか、例の女とのメールのやり取りは続いていて、一度会う約束をした。
駅の近所のカフェで待つこと5分、彼女は現れた。
「待たせてしまってごめんなさい」
一言そういって、自分もコーヒーを注文する。
「どうでもいい、そんな感じね」
心の中を言い当てられて、俺は少し気まずい。
「そんなことは、ないけれど・・・・」
俺はなんとなく口ごもり、目の前にある琥珀色の液体に目を移す。
「失礼しちゃう。 せっかくあなたに会いにきたのに。」
「そう、なんで?」
なんとなく重い雰囲気に耐えかね、外にでると夕焼けに輝く水面が土手沿いに広がる。 それはなぜだか泣きたくなる光景で、そのとき初めて俺は自分の心に痛みがあることを知った。
「なあに?泣きそうな顔して」
「泣きたいんだ。本当は」
彼女は微笑む。
「いいよ。泣いても」
耐え切れず俺は彼女の胸の中で、むせび泣く。 彼女は黙って、俺の頭を撫でてくれた。 秋の風が、優しく頬をかすめると、ひとしきり泣いてすっきりした俺は、顔をあげる。
「俺、失恋したんだ」
「失恋ぐらい誰でもするわよ」
夕日に照らされる彼女の横顔をなぜだか美しいと思った。
「女はね、恋を重ねて美しくなっていくの。 そして、失恋は女にとって勲章よ」
そして続ける。
「だけど、あなたはまだ失恋すらしてないわ。 恋から逃げているだけよ」
「・・・・そうかもしれない」
俺はつぶやく。
「あ〜あ、だったらコンパになんて来なければいいのに」
夕日が照らす金色の堤防に彼女は寝転がる。
「あなたははやく帰りなさいよ。 私はもう少しここにいるわ」
――――おぬし、筋金入りの馬鹿じゃなあ―――― ――――うるせぇ―――― 俺は反論できない。 ――――でもわしは、そんなおぬしが嫌いじゃない―――― ――――ああ そうかよ―――― そんな恥ずかしい台詞を真剣にいうな、死にたくなる。
俺は徐に冷蔵庫からビールを取り出し口に運ぶ。 「まずい」
何事もなかったかのように日常は過ぎ去り、 俺を苛んだ、どうしょうもない痛みも 少しずつ風化してきている。 俺と小野田は、ただの教師と生徒という関係に戻った。 今日で2学期が終わる。 終業式の後、俺は感慨深げに、 4ヶ月間お世話になったこの校舎に別れを告げていた。 人気のない廊下を向こうから、小野田が歩いてくる。 そして通り過ぎ、足を止める。 小野田は前より少し背が伸びた。 体つきも以前に比べて女性らしく丸みを帯び、 そしてなにより、きれいになった。 胸の痛みを堪えつつ、受験を控えた小野田に心の中でエールを送る。
「小泉先生!」
小野田は振り向きざまに俺を呼び止める。
「わたし、先生と同じT大学を受験します。 先生と同じ土俵に立って、それからもう一度先生に告白します」
不意に小野田の唇が俺の唇に重なる。
「お・・・・お前、何を!」
赤面しているのは俺のほう。
「だから、覚悟しておいてください」
彼女は不敵に笑ってみせる。 踵を返して真っ直ぐに歩む彼女を見つめ、俺は来春へと思いを馳せる。
――――げへへ〜 初キッスおめでとう!青少年いや、性少年!―--- ――――げへへ〜♪ げへへ〜♪――――
――――うるせー!お前は鬼太郎のエンディングか!!!―---
窓の外にはいつの間に振り出したのか、粉雪が舞う。 俺は小さく舌打ちし 「春よ 来い!」 とつぶやいた。
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