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作品名:踵を掴む者 作者:抹茶小豆

第4回   誘い
「ねえ、あなたが真田さん?」
美恵子は宏次に微笑みかける。
大輪の薔薇が咲き誇ったような艶やかさである。

「はい、そうですが。」
何か?と宏次は相手を訝しむ。
「例のプロジェクトチームに、あなたを推薦したのは私よ。」
挑発するような視線が宏次に向けられる。
「皆があなたの噂で持ち切りよ。」
有能なのね。
熱っぽく情熱に潤んだ瞳。
濡れたルージュが紡ぎ出す賞賛の言葉。

「恐れ入ります。」
一礼してその場を去ろうとする宏次を美恵子が引き止める。
「待って、全体会議の前にそのプロジェクトの草案を是非あなたに見ていただきたいの。」
後で私の部屋に来てくださる?

「では、後ほど寄せていただきます。」
宏次が応じる。

美恵子のいうプロジェクトチームへの参加は、すなわち海外赴任を意味する。
宏次はあまり乗り気ではなかったが、それにかこつけ由香子にプロポーズをした。
由香子は寂しそうに微笑み、宏次に自分の身の上を語った。
由香子が垂水の妾腹の娘であり、美恵子の腹違いの妹にあたること。
母は幼い頃に亡くなり、ずっと父の援助を受けて育ったこと。
日陰の身の上の自分と、社内の誰もが一目置く出世株の宏次との結婚を、父が許すことはないと。

宏次は是が非でも垂水に自分たちの結婚の承諾を得るつもりだったし、もし垂水がそれを良しとしないならば、この会社を辞めることも厭わなかった。
現在もその実力を買われての、他社からの引き抜きのオファーは数え切れない。

―――そうか、彼女と由香子は母親は違うが姉妹なのか―――
そういえば、顔は全然似ていないが、声はよく似ている。
愛しい人へと思いを馳せ、思わず宏次の顔に笑みが浮かぶ。

ドアをノックすると、美恵子が宏次を部屋に招きいれる。
それは美恵子専用に作られた客室でサイドにはワインセラーが備え付けられている。
宏次はソファーに腰掛けると、美恵子に酒を勧められた。
「勤務中ですので。」と断り、
「例の草案を見せていただけますか?」ときりだす。
美恵子は微笑を湛え、宏次の隣に座る。
濡れたルージュに媚薬を潜ませ、
紡ぎ出すのは罠か、それとも・・・。
「そんなの、どうでもいいではありませんか。」
美恵子の細くしなやかな腕が宏次に絡められ、その胸のあたりに身体の重みを預ける。
「わたくしの気持ち、おわかりでしょう?」
潤んだ瞳が宏次を見つめる。
「さあ、皆目検討もつきません。」
宏次はその身体を離し、
そう言って部屋を後にする。
美恵子は乾いた笑いを抑えることができなかった。

「どうしたんだね?そんな深刻そうな顔をして、君が私に相談なんて。」
宏次は真っ直ぐに、小太りの初老の男を見据える。
「山本由香子さんのことです。」
そう切り出すと、垂水は僅かに眼を細めた。
「自分は由香子さんと、結婚を前提に真剣にお付き合いをしています。」
宏次はこれまでの経緯を垂水に報告し、その承諾を迫った。

「参りましたなあ。お恥ずかしいことを知られてしまったようだ。」
と垂水は苦笑し、
「あなたが、由香子を幸せにしてくれるのなら、私は喜んであなたがたを祝福しましょう。」
と笑顔で応じる。

自室で酒を飲みながら、垂水は終始無言のまま。
時折何かを思案するように窓の外の風景に目をやる。
「今日は黙ったままですのね。」
父の晩酌の相手をしていた美恵子は、自分のグラスに琥珀色の液体を注ぎ、口に運ぶ。
「真田のことなのだが。」
父が切り出す。
「よろしいじゃありませんか、素敵だわ。」
と美恵子が応じ、笑う。
垂水は宏次を手放したくなかった。
関係の希薄な妾腹の娘由香子では、宏次をこの場所に繋ぎ止めることはできない。
「お父様は真田さんのことをよっぽど手放したくないのね。」
美恵子がその美しい脚を組みかえる。
「で、どうしろとおっしゃるの?」
美恵子の目裏に、宏次の横で幸せそうに微笑む由香子の姿が過ぎる。
そして父の背中を見つめる幼い日の自分と、むせび泣く母親の姿の幻。
握り締めた掌に爪が食い込み、白く色が変わる。

宏次は垂水に招かれ、地元では名の知れた老舗旅館にいた。
今まで由香子に対して父親らしいことも出来ずにきたが、由香子が自分の愛しい娘であることは変わらず、結婚を前に一度三人でゆっくりとした時間を持ちたいという申し出であった。三人で酒を酌み交わし、由香子の幼少のころの話や今は亡き由香子の母親の話などに花が咲き宏次にとってもそれは興味深い話であった。
「些か酒がまわったようだ。」という垂水の言葉を受けて、宏次と由香子は自室に引き上げる。

宏次は先ほど浴場に行くと部屋を出た。
由香子は思う。
幼い頃に母を亡くし、自分はずっと愛情に飢えていたのだ。
父は今日私に
―――娘として愛しく思っている―――と言ってくれた。
由香子はそのことを思い出し、目頭が熱くなった。
言葉を自分は生涯忘れないだろう。

鏡台の前で由香子は念入りに乳液を肌にしみ込ませていく。
長く美しい黒髪をほどき、丁寧に梳かす。
浴衣姿に酒がまわったせいか、少し紅潮した肌がなんともいえず艶である。

不意に鏡に人影が横切り、ゆっくりと由香子に近づく。
由香子の悲鳴が喉で凍りつき、意識を失う。

宏次は露天風呂で空を眺めていた。
月も星もない。
その深い闇を宏次は少し気味悪く思った。
部屋へと続く長い廊下にも、ただ足元だけを照らす頼りない明かり。
部屋に戻ると、由香子が布団の上に座っていた。
顔の判別がつかないほどに明かりが絞られている。
「由香子?」と声をかけると
由香子が誘う。
「さあ、はやくこちらにいらして」
細くしなやかな腕が、宏次をやおら抱く。
宏次は由香子の胸に顔を埋め、貪るようにその唇を奪う。

―――狂乱の夜が更けゆく―――


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