宏次には商才があった。 宏次が勤めるこの鮮魚市場は、とある地元の有力者の所有であったが、宏次が勤めはじめてからは飛ぶ鳥を落とす勢いで売り上げを伸ばした。 いつしか、誰もが宏次に一目置くようになり、店をまかされるようになった。 そして宏次の店は現在もトップの売り上げ成績を叩き出している。
会議に出席するため、宏次は本社の前に佇む。 すらりとした長身に、センス良くスーツを着こなす。 すれ違う女子社員が頬を赤らめ、宏次に熱っぽい視線を送る。 「素敵ね、真田さん」
黒塗りの高級外車の後部座席から小太りの初老の男が降り、宏次の背中をぽんと叩く。 「やあ、真田君」 相手を値踏みするような、狡猾で無遠慮な視線。 「垂水会長」 宏次は男に一礼する。 「そんなにかしこまらんでいい。 お互いもっと気楽にいかんか?」 宏次と共に会議室へと歩き出す。 他愛ない会話を交わしながら、 宏次にはこの初老の男の瞳に、一瞬剣呑な光が宿ったように見えた。
垂水権三は娘の美恵子に酌をさせながら自室で酒を飲んでいる。 「なんですの? 今日は特別にご機嫌がよろしいのね。」 美恵子はゆるくウェーブのかかった長い髪をかき上げる。 目元に泣き黒子があるのが印象的な美女である。 その艶やかな唇を酒で濡らし、父を見る。 垂水は「わかるか?」と笑いながら口に酒を運ぶ。 「あの男やりおったわ!」 誰もが苦難の末にまとめることのできなかた商談を、宏次はたった1週間で成立させた。 宏次は―――これまで様々な修羅場をくぐりぬけ、多くの人員を統率してきた垂水ですら舌を巻く逸材であるのだ。 垂水は宏次を手放したくなかった。 宏次を手放すこと、それはすなわち甚だしい自社の損失を示している。 是が非でもその手中に宏次を収める手っ取り早い方法は、娘、美恵子との婚姻関係を結ばせることであった。そうすれば自動的に宏次を跡取りとして周知させることができる。
美恵子は、次に父に言われることがわかっていた。 そして、言われる前にその要求をすでに受け入れていた。 それが自分の運命なのだと。
最近本社に行く際に、宏次にはちょっとした楽しみが出来た。 本社総務部の前から2列目で電話の対応をしている彼女――― 名前を山本由香子という。 黒髪をアップにまとめた制服姿で飾り気はあまりないけれど、それがかえって彼女の清楚な美しさを際立たせていた。 出会いのきっかけは、数週間前に本社を訪れた時、雨に降られ難儀をしていた宏次に、彼女が傘を差しかけてくれたことだった。以来本社を訪れる際には、自然と彼女と他愛ない話をするようになり、それが、宏次にとっての密やかな楽しみとなったのである。
わざと、総務部の前の自販機で缶コーヒーを購入する。 横に設けられたベンチに腰かけ、総務部の部屋に視線を向ける。 窓越しに彼女の姿を見つけると、受話器を握り締めた彼女が姿の見えない電話の主に向かって、何度も頭を下げている。 宏次は口元に笑みがこぼれるのをこらえきれない。 同時に暖かいような、こぞばゆいような感情が心を満たし、それは不思議と心地よいものであった。 宏次は缶コーヒーを口に運びつつ、腕時計を見やる。 「真田さん、めーっけ!」 彼女の笑顔が不意に宏次を覗き込む。 宏次の心臓が早鐘のように脈打つが、その動揺を悟られまいと少し距離を置き、平静を装う。 「もう、駄目ですよ、こんなところで油を売ってちゃ〜」 茶目っ気のある風情で、再度宏次を覗き込む。 宏次は自販機で彼女の分の紅茶を買って渡す。 「はい、お疲れ様」 「わ〜、ありがとう。」 彼女のその咲き初めの花のほころぶような笑顔に、自分は何度励まされ、癒されたかしれない。他愛ない会話を二、三交わすと、休憩時間の終わりを告げるチャイムが館内に響く。
「もう、戻らなくちゃ」と背を向ける彼女が振り返り、 「またね」と満面の笑み。
宏次は思わず天を仰ぐ。 「まじ、ヤバイ」 宏次を苛む微熱と動悸は、一向におさまりそうにないらしい・・・。
二階のカフェテリアから、美恵子は一部始終を見ていた。 ―――お父様のいう真田という男は、彼なのね――― 彼と親しく話すのは、総務部の確か山本由香子といったか・・・。 美恵子は強く唇をかみ締める。 山本由香子は、美恵子の腹違いの妹にあたる。 由香子は父がその愛妾に産ませた子であり、そのことで、母も自分も随分と苦しんだ。
真田という男と由香子は、美恵子の目には、彼等は互いに想い合い、しごく幸せそうに見えた。
美恵子の白く美しい手が、卓上に生けられた一輪の真紅の薔薇を握りつぶす。 掌から花弁が零れ落ち、棘で傷をつけたのか、花弁と同じ色の血がそこに滴っていた。
就業時間の終わりを告げる館内放送が流れ、人々は早々に帰り支度をし、帰路につく。 由香子は玄関で小さくため息をつき、今日に限って傘を持って来なかったことを悔やむ。
背後で宏次が少し大きめの黒い傘を開く。 「入っていけば?」 この間のお返し、と宏次が笑いかける。 由香子は少し顔を赤らめ、下を向く。 「行こう」 宏次が少し強引に彼女の腕を引っ張ると、由香子が少し驚いた様子で宏次を見上げる。
スコールのような激しい雨が地面に叩きつける。 もはや傘など役に立たない。 雨が―――彼女の髪を、そして白いブラウスを濡らし、彼女の華奢な身体のラインを露にしていく。淡いピンクの下着が透けて見え、艶かしい。 雨をやり過ごすため、彼等は今小さな電話ボックスの中にいた。 辺りに人影はない。 彼女の吐息が、やはりびしょ濡れになった宏次の胸元に漏れる。 距離が近い。 「なんだか、いつもの真田さんと違って見えて・・・」 びっくりしちゃった。 と由香子は下を向く。
宏次は焦れていた。 彼女が好きで、もうずっとその先の一歩を踏み出したかったのだが、 それができない自分が歯痒かった。
電話ボックスに激しく雨が叩きつけて、外からは二人の姿は見えない
「こんな俺は嫌い?」 宏次は真っ直ぐに彼女を見つめる。 「・・・そんなことは、ないけど」 由香子は戸惑っている様子で下を向く。 宏次はぎこちなく彼女の身体を抱きしめた。 濡れた衣服を通して伝わる彼女の体温が妙にリアルで。
「あの・・・」 宏次の腕の中で、由香子は蚊の泣くような声でつぶやく。 「好きだ」 耳元で囁かれた低音に、頭の感覚が麻痺していくのを由香子は感じた。 宏次は由香子の顔を上げさせ、口付ける。 彼女の瞳が見開かれ、そして閉じられる。
―――雨はまだ、やみそうにない―――
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