子供の頃、クリスチャンであった父は、よく寝物語にその話を聞かせてくれた。
―――それは遠い異国の物語―-- 砂埃舞う、砂漠の物語なのだと。
その昔、神に愛された民があった。 その民に双子の兄弟が生まれた。 全身毛むくじゃらで生まれてきた兄の名はエソウと名付けられ、
そして―――弟は兄の踵を掴んで生まれ落ちた。 それ故に弟の名は『踵を掴む者』という意味を込めて、ヤコブと名づけられた。
やがて二人は成人し、兄エソウは野で狩人となり、弟ヤコブは天幕で働く者となった。 ある日、空腹で天幕に帰り着き、食べ物を求めた兄にヤコブはその代償として、エソウの長子の特権を渡すことを誓わせる。 後にヤコブは一計をめぐらし、長子の特権のみならず、兄が受けるべきすべてのものを奪ってしまう。 そして兄は言う。 「まことに弟はヤコブ、私の『踵を掴む者』である」と。
―――無能者が!―-- 宏次は心の中で毒づく。 横ではしたり顔で、先程から兄の高弘が自分と寝た女の自慢話に興じている。 彼は口を開くと金、女、博打の話しか、しない。 宏次は黙って次の会議の資料に目を通す。
―――何故自分が、こんな出来損ないに殉じなければならないのか?―-- ―――ただ生れ落ちた順番が、兄より遅かったという理由だけで―――
『長兄による相続は、先祖伝来の知恵なんだよ。』と父は言う。 そうと決めてしまえば、無益に争わなくて済むからね。 ひとつの家で争いが起これば、たちまちその家は成り立ちいかなくなる。
あなたは――― 兄を支えて立派にこの家を盛り立ててくださいね。
眼裏に浮かぶのは、少し年老いた父の柔和な笑顔。
―――理不尽な――― 腹立たしさに唇をかみ締める。
不意に話題の矛先がこちらに振られる。 「でもよう、こいつもう23歳のくせに、未だに童貞なんだぜ?」 と高弘が勝ち誇ったような視線をこちらに向けると、一斉に卑猥な笑い声が起こる。 唯一、それのみが、兄が弟に優位に立つことのできるネタなのだ。
「弟御は純情でいらっしゃる。」 兄は自分に媚、取り入ろうとする連中を込んで側近に置いた。 ちやほやされるのは気分がいいし、自分好みの助言は耳に優しかった。 自分がただ、利用されているだけの存在であることも知らずに。
―――虫酸が走る―――
宏次は無言のまま会議室を後にし、洗面室に向かう。 顔を洗うその水の冷たさが心地良かった。 鏡に映る自分の顔が妙にくたびれて見え、苦笑する。
携帯が鳴る。 母親からの着信であった。 「あなた、今まわりに人は?」 切羽詰った物言いに、宏次は身構える。 母は手短に 父が危篤であり、すぐに病院に駆けつけること そして―――誰にも知らせずに一人で来るようにと告げた。
宏次は母の指示に従い、一人でタクシーに乗りこむ。 運転手に行き先を告げた後は、終始無言で窓の外を見つめる。 厚い雲に覆われた空が、今にも泣き出さんばかりである。
父は自分の後継者に、兄高弘をと、やんわりと周囲に告げてはいたが、遺言にしかとそう記したわけではない。
病院に着き、タクシーを降りる。 重い足取りを叱咤しつつ、父の病室に向かう。 父の病室の前で、和服姿の母がぼんやりと佇んでいるのが見えた。 「宏次さん」 母の声が、少し震える。 「お母さん、お父さんの容態は?」 「お医者様のお話では、今夜いっぱいだと・・・」 母は唇を噛みめ、必死に涙をこらえる。
覚悟はしていたものの、宏次の心に言い知れぬ寂しさが満ちる。 優しく有能であった父。 その手の温もりに、 幾度となく安らぎを得、 その背中を どれだけ頼りにし、憧れたことだろう。 「お父さん・・・」 一筋の涙が頬を伝う。
「今は―――泣いているときではありません。」 母は何かを決意したかのような、鋭い眼差しで宏次を見据える。
―――お父様はまだ意識がおありです。今から病室に入り、 あなたは高弘のふりをしなさい。お父様はもう、視力を失っています。―-- 声だけなら、ごまかせます。
そういって母は、こっそりと持ち出した高弘の香水を宏次に吹き付けた。
半年前、父は医者から末期癌の宣告をうけた。 父はその死をただ静かに受け止め、一切の延命治療を拒否し、遺言を認めた。 そして限りある命の日々を母と共に穏やかに過ごした。
―――お父様はあなたに、ひとつの証をくださるでしょう―――
父は一切の機材を身体に取り付けることをせず、ただ静かに眠っていた。 穏やかな微笑をたたえ、それは幸せな旅路であるかのように思えた。 瞼を閉じたまま、父は声を振り絞る。 「・・・高弘ですか?」 「はい」 宏次は痩せた父の手を握る。 涙が溢れるのをこらえきれない。 父がそっと宏次の頬に触れる。 「泣かないでください。」 私はもう充分に幸せなのだからと 父はまるで幼子にそうするように、宏次の頭を撫でる。 「これを、お前に・・・」 枕元に置かれてあった小箱から、何かを取り出す。 それは―――家紋を繊細に細工した指輪であった。 父はそれを宏次の指にはめ、満足そうに微笑を浮かべる。 「これで、私はもう思い残すことはない。」
病室の外で母が告げる。 ―――この指輪を持つものが、全ての権利と財産を相続する――― 父の残した遺言には、そう記してあるのだと。
季節はずれの嵐となり、雨がアスファルトに叩きつける。 高弘は服が濡れるのもかまわず病院へと走る。 タクシーに乗っていたのだが、 運悪く事故のために起こった渋滞に巻き込まれてしまい、 遅々として進まない車に業を煮やし、タクシーを降りたのだった。
―――父の危篤――― 今まで自分を守り育んでくれた、あの大きな手が失われようとしている。 それは高弘の心に、言い知れぬ不安と焦燥を掻き立てた。
―――お父さん――― ―――お父さん――― ―――お父さん―――
必死の思いで父の病室に辿り着く。 苦しそうに肩で息をしている父の手を握る。 「お父さん、高弘です。」 その声に反応し、父がビクッと大きく震える。
「高弘だと?ばかな! ではさっきの者は一体・・・」 父の呼吸が乱れ、苦痛に顔が歪められる。
そして告げる。 自分が遺言に記したことを。
―――この指輪を持つものが、全ての権利と財産を相続する―――
父が震える唇をかみ締める 「もう・・・間に合わん」
高弘の瞳に大粒の涙が溢れ出す。 「お父さん、お父さん・・・ 私にもそれを与えてください。 私の分、私の受ける分を!」
父の呼吸がさらに荒くなる。
「ああ、なんということだ。 お前の弟が私を騙し、指輪を持ち去ってしまった。」
―――そして、父は死んだ―――
高弘は父の書斎のソファに座り酒を飲んでいた。 もう、随分と強かな量を飲んでいるのか、虚ろな瞳は赤く充血している。
昔から頭の出来も、外見も、全てにおいて弟が勝り、そんな弟を母は溺愛した。
高弘は空のグラスを床に叩きつける。 「胸糞悪い!」 あの弟が、自分から全てのものを奪う。 母の愛情も、そして唯一自分に注がれた父の愛と財産でさえ、父と自分を欺いて奪ってしまうのだ。 許せない。許してなるものか! 高弘の心に黒いものが満ちる。
机の引き出しから刃物を取り出、しかとそれを握り締める。 向かう先は、弟の居室。
布団を頭までかぶり、彼は今微睡みの中にいる。
さぞかし幸せな夢を見ていることだろう。 父と自分を欺き、莫大な財産を手に入れ・・・
しかし、それは夢で終わらせる。 お前なんかに、 お前なんかに渡さない!
刃物が布団の上に勢いよく振り下ろされる。
暗い部屋の中を羽毛が楽しげに舞い、ゆっくりと地面に降り積もる。
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