―――女にモテたい、それは男にとって最も偉大な本能である―――BY五十嵐行雄
「でさあ、由美子ちゃんは、どんな男が好みなの?」 飲み屋のカウンター、それはおっさんの天国。 由美子は可愛く小首をかしげ、少し考える様子。 「そうねえ、意外性があるひと。」 「へえ、例えば?」 「う〜ん、実はピアノが弾けたり、とか。」
―――女はピアノが弾ける男が好き―――BY五十嵐メモ
「じゃあさ、五十嵐さんは、どんな女の子が好き?」 五十嵐はじっと由美子を観察する。 やや童顔の愛らしい唇。 細い項。 意外とボインな谷間・・・とか。
けっこう好みなんだけどな。
「由美子ちゃんみたいに、おっぱいの大きい女の子!」 「や〜ん。五十嵐さんのえっちぃ〜」 由美子が時計を見る。 12時ジャスト。 「すいませ〜ん。マスター こども預けてるんで、あがらせてもらっていいですかぁ〜?」
・・・飲み屋のお姉ちゃんを口説くときに、妙にむなしくなる一瞬である。
電話が鳴る。 ―――やかましい、日曜日の午前中に電話なんてかけてくんな!ボケっ――― 心の中で毒づくが、電話は鳴り止まない。 さもウザイ。そんな風情で電話をとる。 「はい、もしもし〜?」 間違い電話だったら殺す!と心に誓う。
「ああ、行雄?母さんだけどね。」 血圧どん底の頭ではあるが、きちんとそれを危険人物だと警鐘している。
「あんた一体いくつになったら、結婚して落ち着くの。 あんたもう37歳でしょ? 今年こそいいお嫁さんもらって、 母さんやお父さんを安心させてちょうだい!」
それはもう、泣き出さんばかりの必死の声色で訴える。 「うっ・・・」 一瞬返答につまるのを捕らえ、さらに勢いづいて敵は一気に畳み掛ける。 「あんたにお見合いの話があるの。 先方には話をつけてあるからすぐに支度して頂戴!!!」
「え?すぐにって???」
鍵が開く音がする。 スペアキーによる不法侵入。
―――お母さん、あなた、家のまん前で電話をかけてらしたんですね。―――(鼻血)
「お父さん、ちょっと頭抑えてちょうだい、死なない程度に殴ってもいいから!!!」
都内の某ホテルにて、 建物の中層に器用に造られた、日本庭園の獅子脅しの竹を打つ音を聞きつつ、微妙な空気が流れる。
見合い・・・ねえ。
誰とでも、そりゃ最初は初対面なわけだし? 目の前のお嬢さんも俺の好みと言っちゃあ、好みだけど? ある一定の年齢をすぎると、なんちゅうかこう恋愛に関する感性も鈍ってしまうような気がする。免疫というか、傷つかずに済む距離感というか、計算というか。
自分の正面に座る女性に目をやる。 彼女は恥ずかしそうに下を向く。 淡いピンクの上等な振袖に金糸の豪華な帯を締めている。 見るからに「お嬢さん」な彼女。
――― 一条沙代子さんとおっしゃるの ――― ――― 職業はピアノ講師 ――― 嫌いじゃないけど?
・・・ちゅうかさあ、好きなんだろ? 頭のどこかで、そんな声が聞こえたような気がした。
しっとりとした霧雨が、庭の紫陽花を濡らしていく。 ホテルの貸し出してくれた少し大きめの傘を彼女に差し掛けつつ
「で?ご趣味は?」 と五十嵐は沙代子に問う。
「やっぱり、ピアノが好きなんです。」 うつむき加減に少しはにかんだように答える。
襟元の白い項に きゅん。 ちらりと覗く緋色の襦袢に きゅん。 やたらとテンションが上がる。
「いや〜ピアノ、僕も大好きですよ〜」 「まあ、演奏されるの?」 「まあね。」 沙代子が頬を染め、嬉しそうに微笑む。 「どの作曲家がお好き?」 「ははは、ショパンでもリストでも。ははは」 高田純次並みのこのいい加減さ・・・ いいのか?俺!!! 「素敵!」 沙代子はうっとりと五十嵐を見つめる。
―――さて、どうしたものか――― 自慢じゃないが、この37年間ピアノやクラッシックなんてものとは、まったく無縁の生活を送ってきた。 長く会話が続けば絶対にボロが出る。 なんでもいいので、とりあえずそれなりの知識を得なくては、と思い立ち、 同僚の原口君から少女マンガの「のだめカンタービレ」を借りてきた。
その夜、自宅のトイレにて 一心不乱に少女マンガを読みふけるオッサンがひとり。 翌朝尻が痛くなったのは、いうまでもない。
交際はわりと順調に進み、沙代子の実家に夕食に招かれることになった。 五十嵐は紅い薔薇の花束を抱え、沙代子の家に急ぐ。 インターホンの先では沙代子の母親がにこやかに対応。 食卓には豪華な食事がならび、他愛ない世間話とともに沙代子の父と酒を酌み交わす。 「ときに君、ピアノが弾けるそうじゃないか。 是非一曲弾いてくれたまえ。」
「え?」
背中に嫌な汗が伝う・・・。
「うおおおお〜この世に神も仏もあるもんかあ!!!」
深夜の公園にて、ブランコに腰掛けながら、五十嵐は怒鳴る。 口に運んだビールが苦い。 身から出た錆び、ちゅうか自業自得ちゅうか・・・。
―――結婚は考えさせて―――
確かに嘘を言ったのは悪かったと思う。 しかし・・・ しかしだ。 俺、ピアノ弾けないから振られちゃうわけ? は? なんか無償に腹が立ってきた。そんなの俺の価値と全然関係ないじゃん。 ピアノが弾けないから、振られるっていうんなら、ピアノ弾けるようになって見返してやればいいんだよ。別にあの女じゃなっくっても、世界の人口の半分は女なわけだしさ? 美人の飲み屋のお姉ちゃんを口説くにはもってこいだし?
そして翌日 五十嵐は電子ピアノを購入し、沙代子のピアノ教室に行って入学願書をたたきつけた。 「嘘を言ったのは悪かったと思う、 でもあんたが俺をピアノが弾けないって理由で振るのなら、 俺は必ずピアノを弾けるようになってやる。 そしたらあんた俺の嫁さんにならなきゃならないぜ。」
「わかったわ。じゃあ、これ!」
と手渡されたのは「子供のバイエル」と書かれたピンクの教本―――通称 赤バイエル そうピアノの初心者にはじめて手渡される教本―――なのである。
「ドミソ ドミソ・・・」 ゴツく、ぶっとい指が、これ以上ないくらい不器用に紙の鍵盤を押す。
―――くっそ〜あの女、今にみてろぉ―――
「ド ミソ ド ミソ・・・」
「うわー このオッサン大人のくせして、赤バイエル弾いてやんの。」 くりくり坊主の祐太がはやし立てる。 レッスン待ちの生徒たちがくすくすと笑う。
「おじちゃん、ひろなちゃんがピアノ教えてあげようか?」 ちょうちんエプロンの女の子が五十嵐の顔を覗き込む。 ちくしょう。屈辱だ。
「ドミソ…ドミソ…」
「あっまた間違えた! どうしてちゃんと弾けないんです? あなた大人でしょう? 幼稚園児でもこのくらい初見で弾けますよ?」
はあ〜と大きく息を吐く。
「この曲、来週ももう一度練習してきてください!」 沙代子は苛立ったように楽譜を閉じる。
五十嵐はしばらく練習室に篭り、駄目だしをくらった箇所を練習する。 「ドミソ、ドミソ….」 なんで弾けないんだろ。 いい加減自分でも嫌になってくる。
「どうしてちゃんと弾けないの!先週も同じ所を注意されたでしょ!!」 沙代子の怒鳴り声がする。
「先生いつも怒ってばっかり、先生なんて大嫌いだーーーー!」 祐太は楽譜を沙代子にぶつけ、泣きながらレッスン室を飛び出した。
何事かと顔を出した五十嵐と目が合う。 祐太はプイと顔を背け通り過ぎようとする。 五十嵐は不意に祐太の腕を掴む。
「おい、一緒に野球しねーか?」 「へ?」
祐太は一瞬きょとんとする。
教室の前の空き地で、野球をする少年が2〜3人。 無理やり「まぜろ」とおっさんが凄む。
「さあ、藤川球児、セットポジションから第一球〜投げました〜」 と五十嵐が自分で実況をする。
投げた球がバッターの手前で急速に落ちる。
「え?今の何?すげーじゃん」 祐太が目を輝かせる。
「これか?これがフォークボールっていうんだよ。」
俺がお前に野球を教えてやるから、お前は俺にピアノを教えてくれ! と五十嵐が言うと祐太は「いいよ」と応じた。
練習室に戻ると、 「どうして、先生の言うとおり、ちゃんと弾けないの!!!」 と沙代子の怒鳴り声。 パシンと小さな手を叩かれたひろなちゃんが 「うわーん、先生きらい〜」と大泣きしてレッスン室を飛び出す。
―――3人は 分かり合ったのだった。―--
「でもさぁ〜、お前らはいいじゃんよお。 上手いしさあ。俺なんて赤バイエルすらまともに弾けないんだぜ? しかもピアノ弾けないと結婚してもらえないんだぜ?」 ここぞとばかりに子供相手に愚痴る五十嵐であった。
「じゃあさ、ひろなちゃんが左手を弾いてあげるから、五十嵐のおじちゃんが右手を弾いて」 「あっそれじゃあ、オレが伴奏を弾いてやるよ。」 そして、オッサン1名と子供2名による奇妙な連弾がはじまった。 即興で祐太が伴奏をつくる。 アルペジオ、和音、ジャズ・・・。 様々に変化していく。 結構イカしてないか?
三人は顔を見合わせた。 「ひょっとしてオレたち天才じゃねー?」 「てんさーい、てんさーい」 ひろなちゃんがはしゃぐ。
頭痛がする。 眩暈も少し。 少し疲れているんだろうか。 鍵盤の前で沙代子は大きく息をつく。
祐太もひろなちゃんもあと一ヶ月で、コンクールの本選出場が決定している。 地区予選を余裕で通過したのが1週間前。 とはいえ、気持ちがたるんでいる。 と沙代子は思う。 このままでは本選に間に合わない。 音大を卒業して11年、ピアノ講師としてのキャリアはそれなりに積んできたと自負している。これまで何人もの子供たちをコンクールに入選させてきた。 今年は優勝を狙いたいのだ。 祐太もひろなちゃんもそれを目指すに値する素材であると、沙代子は思う。 が、二人とも精神的に甘いのだ。 「高みを目指すためには全てを捨てる」これはそういう世界なのだ。
耳を澄ませば、隣の部屋からオッサンと子供たちの笑い声が・・・。 沙代子は怒りの鉄拳を握り締める。 が、隣の部屋のドアの前で立ち止まる。 「あっ」 それは小さな驚きだった。 赤バイエルの最初のほう。誰もが退屈に思う、その曲を祐太が見事にアレンジして伴奏をしている。 「すごい」 沙代子は素直にそう思った。
「すげー!すげーよ、オレたち!!!」 顔を紅潮させ祐太が余韻に浸っているところへ、沙代子が入ってきた。 一瞬気まずそうな顔をしたが、祐太はまっすぐに沙代子を見つめ、 「さっきはごめんなさい。 今日先生にいわれたところを、今週もう一度練習してきます。」 と頭を下げた。
ちょうちんエプロンのひろなちゃんもつられて頭を下げる。 「先生のこと、きらいっていってごめんなしゃい」
五十嵐はぽりぽりと頭を掻いた。
子供たちを見送った後、 「じゃあ、俺も帰ります。」と頭を下げたとき、不意に沙代子に腕を掴まれた。 「今日はちょっと付き合って」
これはチャンスなのか。 それともピンチなのか。 先ほどから五十嵐は自分会議の真っ最中なのである。
沙代子は横でものすごい勢いで梅酒ロックを飲み干していく。 「おかわり」ドンと音を立てて、空のグラスをテーブルに置く。 当然目がすわっている。
「あの〜先生すいません。 少し飲みすぎなのでは?」 ものすごく遠慮がちに五十嵐は問う。 「そりゃあね、私もたまにはお酒ぐらい飲みたくなるわよ」 呂律がまわっていない。 「いや〜しかしなんでも これはちょっと・・・」 「誰のせいよ〜」 目つきがとっても恐いんですけど・・・ 「ねえ〜どうして五十嵐さんは、そんなにピアノが下手くそなのぉ〜? なんで赤バイエルがひけないのよ〜!先生悲しい〜」 そういって泣き始める。
―――俺のピアノ・・・先生を泣かしちゃうくらいに・・・ やっぱり下手くそなのか!!!―-- それはそれで、結構ショックな事実であった。 「あたしだって〜がんばってるんだよぉ〜?コンクールで祐太君やひろなちゃんが優勝してくれるためにさあ〜? なのに楽譜ぶつけられたり、大嫌いっていわれたり・・・ だけどぉ五十嵐さんには、あ〜んなになついちゃって・・・」 「へえ〜?コンクールで優勝することがそんなに大事なんですかねえ? まだ子供なんだし、何よりも楽しくピアノを弾くことが大切なんじゃないんですかねえ?」 少し皮肉を込めてみる。
「ピアノっていうのはねえ、上手くなればなるほど楽しくなるんだよぉ〜 ピアノの先生ってのはね、その子の持っているものを最大限引き出すのが仕事なのぉ〜」 「ふ〜ん、そんなもんですかねえ? だったら、怒ってばっかりじゃなくて、ちっとは生徒にご褒美でもあげたらいいんですよ。 じゃなきゃ生徒は誰もついてきませんよ。」
「うふふ」 夢見るような眼差し。 酔っているとも素面とも見分けがつかない。 「ご褒美?じゃあさあ、三ヶ月後の発表会で五十嵐さんエリーゼ弾きなよ。 全部弾ききったらご褒美―――」
―――五十嵐さんのお嫁さんになってあげる――― 「え?えええーーーー!!!」
「タラタラタラたらちゃーん♪」 いや楽譜にすると 「ミ レ♯ ミ レ♯ ミシレドラ〜♪」 誰もが必ず聞いたことがあるであろう、それは
ベートーベン作曲 エリーゼの為に いや俺にとっては「沙代子の為に」か。
そして特訓は始まった。
朝5時起床。出勤時間までとにかく弾く。 昼休み、神鍵盤で練習。 夜、帰宅後飯食ったらすぐに弾く。 そんなこんなで3ヶ月。 俺なりのベストは尽くしたのだと思う。
そしてその日はやって来た。 「や・・・やるべきことはやったさ。」そう自分に言い聞かせる。 プログラムは年齢順に組んだらしく、俺の出番は最後。
―――嗚呼〜生き地獄―--
子供たちのレベルはすこぶる高い。 ショパン、リスト、ベートーベン サーカスかい!と思わずつっこむ。
その時―――五十嵐さんステージで待機してください。と係りの人が呼びにきた。
―――イカン・・・死ぬ・・・死んでしまう・・・―--
37年間の今までの人生が走馬灯のごとく頭を駆け巡る。
「プログラム40番、五十嵐行雄さん ベートーベン作曲 エリーゼの為に」 ついにアナウンスが流れ、舞台へ スポットライトが眩しい。
「がんばれ、五十嵐のおっちゃん!!!」 祐太は両手を握りしめ舞台を見守る。 舞台の中央に鎮座するのは、このホールの主。 スタインウェイのフルコングランド。 さすがに王者の品格である。
油のきれたブサイクな人形のごとく、 五十嵐は右手右足を同時に動かすロボット歩き。 客席から笑いが漏れる。
着席したはいいもんの、指が震えて止まらない。 「ミ・・・ミミミ・・・ミレ♯ミレ♯ミシレドラ・・・」 そして後が続かない。 頭が白い。
客席がしんと静まり返る。 あまりに長い沈黙の跡にざわめきが起こる。
沙代子は鮮やかな紅のドレスに身を包み、楽譜とトムソン椅子を持って舞台に出た。 五十嵐の肩をポンとたたく。 「あなたがちゃんと弾いてくれなきゃ、私お嫁にいけないじゃない。」 そう耳元でささやいた。 楽譜を置き 「いつも通りに弾けばいい」といった。
―――それは即興の連弾――― あれだけ情けなかったエリーゼが信じられないほどの美しい旋律を紡ぎだす。
一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が会場に沸き起こった。
客席前から3列目の中央。 祐太は激しく涙と鼻水を垂れ流していた。
「オッサン・・・よかったなぁ」
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