こんな真夏日に誰が好んで山の中に入ろう。
お前も年頃の男だ。蜘蛛に喰べられないよう魔よけの札を買っておいで
と祖母が余りに口うるさく言う。盆休みで帰省したばかりの自分に山頂にある神社からお札を買って来いだなんて無茶苦茶だ。
蜘蛛の話は幼い頃から祖父や祖母に聞かされていた。 この村では昔から伝わるただの言い伝えにすぎない。
TシャツにGパン、肩からはショルダーバッグ。その中には水とおにぎり。タオルに少量のお菓子。 軽い登山になるがふざけた格好をした自分に登山者は眉間に皺をよせる。
靴底から感じられる、踏み固められた腐葉土。 熱気を帯びた空気を木々が柔らかく包み涼しさを感じさせた。 深くその柔らかい空気を吸う。心地良い温かさを胸いっぱいに吸い込んだ。
都会の生活に慣れた自分には懐かしくもあり、また違う新鮮さがあった。
『ジッ・・・・ジジジジ・・・・』
ミンミンゼミの声に紛れて、彼の悲鳴が聞こえた。
あたりを見回すと宙に浮いた彼を見つけた。 光に当たり彼を捕らえている糸がその姿を表す。 木々の間に掛かった六角形の小さな網。 網に掛かった彼は必死でもがいていた。恐らくあの糸は彼には見えていないのであろう。 己の身に起こった事に戸惑い憤っているのか、只々その手足で空を蹴っている。
そのすぐ傍で彼よりも小さな体をした彼女はひたすらに見ているだけ。 大きな声で喚く彼を、暴れまわる彼を抑えることもなく静かに事切れる時を待っている。
きっと彼は命乞いをしているのだろう。 それとも暴言を吐いているのか、すくなくとも彼女を口説いている様には見えない。 その姿を嬉しそうに見つめている彼女は微動だにしない。 恐らく彼の言葉は彼女の耳には入っていないのであろう。
静かにゆっくりと彼らの時間は過ぎる。 それが愛なのか殺戮なのかは自分にはわからない。
恐らく捕食と言う名の生命維持だと思う。 彼女からするとそれが一種の愛情表現なのかもしれない。
彼の慟哭は彼女には伝わらないのは確かだ。
美しくヒラヒラと舞う彼もまた、彼女の愛に溺れるのだろうか。
彼らの前を通りすぎ、しばらくして彼の声は途絶えた。 その途絶えた原因はわからない。
ようやく山頂の神社につき、賽銭箱に賽銭を投げ二拝二拍一拝をし社務所へと向かった。 ガラス戸の小さな窓から覗く日に焼けた中年女性。淡々と事務的に作業をこなし 「500円です」 と言ってお札を紙袋に入れて差し出した。
代金を払い、それをショルダーバックの中に入れ、再び元の山道へと歩み始めると遠くから雷鳴が響く。 山の天気は変わりやすいから気をつけなさい。と祖母が言っていたな。 急いで帰れば大丈夫であろう。そう高をくくっていたがぽつりぽつりと雨が降り出し、あっという間に滝のような雨が降ってきた。
こんな雨じゃ彼女の巣も壊されてしまうだろう。
そう思いながら轟く雷鳴の中走りながら山を降りていく。 あれほど熱気を優しく包んだ木々も今では無情の雨に身を任せているだけだ。 空から降る大粒の水滴はあっという間に布に染み込み、打ち付ける水滴に痛みすら覚えさせた。 水を含んだ腐葉土はぬかるみ、足へ次第に重みを感じさせ靴も大量に水を含み水を踏んでいるのか、土を踏んでいるのか冷えた足の感覚ではわからなくなっていた。 不意に足元が滑ったかと思うと体のバランスが崩れ生い茂った草葉の坂道をゴロゴロと転がっていった。 強い衝撃と共に視界が真っ暗になった。
真っ暗な視界の中、祖母の声が聞こえた気がした。 山の中には遥か昔に殺された女の怨念が蜘蛛と姿を変えて生きている。 雨が降ると人を食うから神社に入って雨が上がるのを待ちなさい。 そうだったね。そう言っていたのに何故雨の中走ってしまったのだろう。
激しい水音と全身の痛みが僕の目を無理矢理こじ開けた。 目に入ってきたのは大小様々な岩。 どうやら谷底に落ちてしまったらしい。肩にかけていた筈の鞄もどこかへ落ちたのだろう。さっきの雨で川の水は勢いを増し轟々と音を立てて流れている。
あの彼女の巣はやっぱり壊されたのかな。 そう思い再び目を閉じようとした時、顔に水雫でない何かが落ちてきた。
ガサガサと音を立てながら、顔の上で動く黒い小さな物体。彼女だ。
あぁそうか。君は彼だけでなく僕まで巣に掛けていたんだね。 彼女は微動だにせず、僕の視界に入る位置まで歩くとただこちらをじっと見ている。 降り注ぐ水滴などまるで存在しない無いものの様にただこちらを見ている。
あの彼もこんな気持ちだったのだろうか。 自分の体よりも小さな彼女に死を待たれる恐怖を彼は感じていたのだろうか。
痛む体を動かす事が出来ずかろうじて言葉を口にした 「好きにするといい」 最後の記憶はそこまでだ。
次に目が覚めた時、目に入ってきた暖かい日差しに安堵感がこみ上げてきたのが判った。あれほど痛かった体は痛くない。あれほど冷たく感じた服もない。全てが夢だったのだと安堵した。
「悪い夢を見た。」
胸を撫でおろした時、傍には見たこともない女性が座っていた。
「目が覚めた?」
長い黒髪に大きな瞳。日に当たりその肌の白さにうっすらと透けた血管。
「崖から貴方は落ちていたの。怪我の具合はどう?」
優しく女に体を支えられ上半身を起こした。
「あ・・・大丈夫です・・・」
女性は小さな水を張った木桶を持ってきて、手拭いを浸し強く絞ると優しく体を拭き始めた。 体を拭かれている時に不意に涙がこぼれた。冷えた手拭い越しに伝わる温かい女性の体温。添えられた腕から伝わる柔らかい感触。そのどれもが人であった。
一度は死を覚悟した自分がこれほどまでに温かい人のぬくもりが嬉しいとは思わなかったのだ。
「生きててよかった」
零れた言葉に偽りはなかった。背中越しに伝わる彼女の吐息が急に男の性を駆り立てた。不謹慎だと理性を保とうとするが、どうにも収まらない。
なぜ突然発情したか、など今の自分にはどうでもよい。とにかく今起き上がった物をどうにかしたい。背中を拭く女の手を取り、上に覆いかぶさった。 小さな女の声が聞こえたが、もう耳には入らなかった。 女を剥きその体に吸い付いた。果てては何度も求め、また怒張しては果て。
つい今しがたまで彼女に介抱されていた事すら忘れて、その体を求めた。
まるで何かに操られるように。
不意に感じた異様な空腹感で再び目を覚ました。いつの間にかまた寝ていたようだ。 腹を満たす為に慣れた手つきで食事の準備を始めた。 一つ一つ丁寧に下準備が終わると出来上がりをまで待つだけ。
『ジジジジジッ・・・・ジジジジ・・・・』
空腹感をより一層感じさせる美味しそうな音。今すぐ食べたくなる衝動を必死で堪えてひたすら待った。
『ジッ・・・・ジジジジ・・・・』 それがとても長い時間に感じられた。空腹には耐えられなかった。性的快感にも似た恍惚としたモノが体の芯から溢れた。食事がこれほど心地良いモノとは思わなかった。
ヒラヒラと舞う美しい彼が何かを告げた。
背後を見ると蜘蛛が立っていた。その腹は大きく膨れ静かにこちらを見ている。 血の気が引いて行くのが判った。あの時抱いた女はこの蜘蛛だったのだと。
彼女は何も言わず自分に向けて勢いよく糸を吐き出した。
「貴方の事、気に入ったわ」
静かに巻き付いて行く糸の中で彼女の言葉を聴いた。
「お腹の子の為に貴方の最後の仕事よ」
その言葉と同時に、体は彼女の体内に飲み込まれていった。 薄れ行く意識の中で再び祖母の声を聞いた。
「蜘蛛に食べられないように気をつけなさい」
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