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作品名:まぼろしを食う 作者:うんどうぶそく

第6回   真昼間のまぼろし

 どうやって家まで帰ったのか全く思い出せなかったが、昼近くに田和がやって来て玄関扉を叩いて彼を起こすまで、昨日の
服装のまま上着も脱がずに布団で寝ていた。田和という男とは高校からの付き合いで今も月に一、二度会うのだが、彼が
だらしない生活をしているせいで事前に連絡が取れず、こうして迎えに来ることがしょっちゅうだった。
 枕元に散らばっていた紙を見られないように片付けつつ、携帯を確認するとメールと不在着信が溜まっていた。文面は
この男の言う通り、臨時収入があったから明日の昼飯を奢ってやる、というものだった。

「この時間まで寝てるっていうことは今日は休みなんやろ。早く準備しろよ」
「うん……いや、ちょっと」

 左手首に掠れた血で引かれた筋を見つけて彼は身震いした。昨日の男がつけたものならば、左手といわず掴まれた首にも
頭髪にも残っているに違いなかった。人間の体液というのはどれも外に排出された途端汚物になってしまうものである。これは
最早衛生の問題ではなく(そこに根ざしてはいるのだが)生理的に『きたない』と感じてしまうのだ。彼は不精な方だったが、
そんなものがあちこちにへばりついているということに耐えられる程ではなかった。

「…風呂入ってきていい?」
「別にええやん。顔だけさっさと洗ってこいよ」
「炬燵つけるから、な。すぐ出てくるし」

 彼は普段布団に潜り込んでしまうので滅多に使わない炬燵の電源をかちりと入れると、返事を聞かず素早く脱衣所へ入った。
待たせているので坦々と着ているものを剥がしていくが、冬の朝の風呂場は寒くこの作業に関しては気が進まない。すっかり
明るいので電気をつけずに浴室へ入ると逆に薄暗くて、裸でそこにいるのが何となく心細かった。彼はさっさと観念して台に
座って頭から洗い始めたが、両手をあげて泡を立てていると、ふいに隙だらけの首に誰かの手が伸びているような気がして声を
あげそうになった。

 これはあからさまに芝居くさかった。さすがにやり過ぎだと彼は直後に恥ずかしくなる。けれども気恥ずかしいほど
ありふれた場面というのはそれだけの人間の共感に基づいているのだ。裸の、特に彼のような、自分を食いにきた獣に申し訳
なくなる程の、肉付きが悪くて空きっ腹の人間の裸というのは最も弱い状態なのだから、警戒したり悪い方に想像を
はたらかせたりするのは全く仕方がないことだった。

 しかし想像するまでもなく、彼にとっての最悪は数時間前に現れている。その感触を思い出すだけで足りるし、彼は
そうせずにはいられなかった。石鹸をつけて身体を擦り立てていると、じっくりと喉が苦しくなっていくような心持が
してくる。控えめに振り払ってみるとそれはほんの少しの間だけ消える。瞬きをする目蓋の裏に血塗れの男の顔が現れる。
彼の背後には人間の両手が浮かんでいる。それらは彼が身体を洗っている隙にゆっくりと、小さな蛙を捕まえるような手つきで
首に迫ってくる。
 早く、早く、その指が届いて一気に握り締められる前に、こんなところから出て行かなければ。

 彼は泡を濯ぎ終わると身体を拭くのももどかしく着替えを身につけて居間に駆け込んだ。
 玄関やら台所やら風呂場のある部屋とそことの間仕切りになっている引き戸をばん、と終いまで勢いよく開け放つと、驚いた
らしい田和が怪訝な顔でこちらを見ていた。彼は発するべき言葉が思い浮かばず、自分でも自分を追い詰めるものでもない
人間を凝視することしかできなかった。

「…どないした」

 会話もなく目が合う気まずさからと、彼がいつも大げさに音を立てて振る舞ったりしないことを知っているので、田和は
無理やり笑みを浮かべながら、気遣わしげに尋ねた。彼はそれではっと我に返って、目に見えない自分の顔つきを確かめる
ように手のひらで探った。

「いや、あの…焦って風呂入った勢いのまま『おい!メシ行くぞ!』とか言いながら出て来ようとしたら…」
「うん」
「案外戸の開く音がでかくて…びっくりして…テンションしぼんで……どうやってオチつけようかと思って考えたけど……
あかんかった……」

 彼はしょんぼりとそう言ってのける内に、自分はそれほど間違ったことを言っているわけではないのだという気がした。
昨夜のことを話すつもりにはならなかった。どうせ話すならあの恐ろしさを田和に全て理解して欲しかったが、既に終わって
しまった出来事をそうまでして語るべき価値が見出せなかったからである。
 田和は下らない結末を聞いて大いに笑った。

 しかし狭い玄関で順番に靴を履いていると、ふいに尋ねられた。
「あれ?そういえばお前、眼鏡は?」
「あー…」

 どうせ無いとわかっていながら彼は履きかけた靴を脱いで布団の周りや洗面所を探してみるが、やはり見つからなかった。
あの路地に落ちているのかもしれないが、眼鏡が使い物にならなければ拾いに行くのは無駄足だろうし、単純に嫌だった。
幸い飲食店がある駅前に行くには別の道を通る。

「昨日失くしたっていうかつぶれたっていうか…」
「風呂入ったのにまだ寝ぼけてるんか」

 結局言い訳が思いつかなかったが、田和は呆れるだけで聞き流してくれた。
「無くても見えんの」
「まあ大体、看板の字とかは無理やけど人の顔とか障害物は見えてる…あ、明日の仕事までに買わなあかんのか」

 彼の主な仕事は文章の校正で、パソコンの画面でぼやけないように文字を捉えるには眼鏡が必要だった。内向的な趣味と
生活習慣・姿勢のだらしなさのせいでずるずると必然的に近眼が進んでいるのだ。できるだけ安い方がいいので、
ターミナル駅の近くにあるチェーン店に行くつもりだと言うと、田和も同行してついでにぶらぶらと歩き回ることになった。


 
 


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