しかし彼の耳は生き延びて、男が怒鳴るその声をはっきりと聞いた。けれどもそれが自分に対して言われているような気が ほとんどしなかった。
「どうや、思い知ったか!」
男は自分の目の前で今は無様に圧倒されている、全ての腹の立つ、自分に恥をかかせた人々や物事に向かって、そう怒鳴り つけた。実際のところ彼らの顔や一つ一つの出来事はほとんど忘れてしまっていたが、先の彼の拒絶をきっかけに、漠然と、 常に自分の人生がうまくいかなかったことを思い出して、自分をこんな風にしてしまった、自分をこの場所まで導いてきた 全てのめぐり合わせというものが、ふと強烈に憎くなったのだった。
しかし今の自分には金があり、酔いに酔ってこれ以上ないほどに強くなっている。男には今度こそ自分を抑えつけてきた目に 見えないものを、逆に捻じ伏せてやれる、そのような自信があった。
「馬鹿にしやがって、畜生」
男は口汚く吐き捨てると、興味を失った彼の身体を他所へ放り投げた。どさりと地面に崩れ落ちるのと同時に彼は息を吹き 返したが、最初の呼吸は蛇腹の空気入れを踏んだような音がした。心臓の動きに合わせて鼓膜が震え、巨大な機械が何かを 断絶するような音が繰り返し聞こえる。男の手が離れてしまっても絞めつけられていた喉はゆっくりとしか開かないので、 すぐには楽になれなかった。 嘔吐(えず)くような咳の音が深夜の路地に響く。
「…どうするんや」
ぐったりと地面に横になって息を整えている彼に向かって男は言った。今まで通りすがりの人間のことなど忘れていた くせに、酔っ払いは脈絡なく先の諍(いさか)いを蒸し返すのだった。 彼が施したお粗末な看病やポケットティッシュの礼に男が差し出した得体の知れない現金を受け取るか、否か。
「…受け取ります」 彼は咳が出ない隙を見計らって早口に言った。
「そうか、それでいい」
男は彼がよろよろと壁を伝って立ち上がるのを手伝い、そのまま手をとって重ねた紙幣を握らせた。これで満足だった。 すると自分の思い通りになってくれたこの優しい人とこれっきりになってしまうのが途端に惜しくなって、何か約束を したくて堪らなくなった。酔っ払いは自分の欲望に対して素直なものなので、先ほど自分が首を絞め殺そうとした相手を 脅すのではなく、しみじみと懇願した。
「俺は敵が多いからな、これを受け取ったら、あんただけは俺の味方になってくれよ」
彼は黙って肯いた。打算のために従順な姿勢を見せているわけではなかった。暗がりで、一方向からさ青(お)い光が強く 差しており、血塗れの男が彼を置き去りにして目紛るしく立ち振る舞う、これは映画だった。その中で流れる時間に対して 自分が無力であることを、彼は既に思い知らされている。だから最早賢しらにものを考えて疑ったり抗ったりしない。
そうして彼はただ子どものように光る方へ吸い込まれてしまっているだけなのだ。そこで行われたことのいくつかは次第に 忘れられるが、あるものはたとえ記憶の中で姿形が溶けてしまっても、いつまでも彼に残り続ける。
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