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作品名:まぼろしを食う 作者:うんどうぶそく

第4回   そんなものは知らない

「…そうですか」
 彼は相槌を打つふりをして自分の仕事についての男の話を断ち切り、できるだけ残念そうに、もう行かなければならないのだ
と告げた。

「あぁ急いでるんですか、でもちょっと、待って」

 男は彼が歩き出そうとするのを察知し、その前に腕を掴んで止めた。危害を加えるつもりではないと分かっているのだが、
この男に腕を一本押さえつけられたことに、彼は未だに胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。しかしポケットを探る為にその
手はすぐに離された。

 小銭の鳴る音の後そこから現れたのは、分厚い紙幣の束だった。

 彼が再び目を剥いて驚いている内に、男はそれを無造作により分けて勢いよく突き出してきた。
「どうもありがとう。少ないけど、持っていって下さい」

 男は相変わらず愛想の良い酔っ払いだった。彼は油断していたところを突かれて口ごもり、だらしなく腕をぶら下げて立ち
尽くしていた。けれどもぼんやりと男の身なりを眺めていると、野暮ったいズボンと、掠り傷に砂の粒が入り込んだ運動靴とに
札束が全く馴染んでいないことに気がついて、面倒事になりそうな予感がした。
 そもそもこの男からこんな金を受け取る謂れはないのだ、と彼は自分に言い聞かせ、都合のいいことを考えてにやつかない
ように歯を喰いしばった。

「そんなつもりじゃなかったんです。本当に、結構なんで」
「…おい」

 男はその声で一瞬にして彼を恫喝した。反射的に彼が怯えた目で窺うと、たった今まで男の表情から溢れていた愛想や親しみ
といったものが、いつの間にかふつと完全に消え失せていた。

「俺が受け取れって言うたんやから受け取れ。逆らう気があるんやったらかかって来い」

 低く唸るようにそう言うや否や、男は小刻みに二発突き出した拳をわざと彼の目の前で止めて一々反応するのを面白がった
後、うまく勢いのついた三発目を確実に鳩尾へ叩き込んだ。彼は力の加えられた方へ数歩後ずさり、打撲の強烈な痛みと喉が
詰まって酷く噎せ返ったせいで、訳が分からないまま蹲って地面に手をついた。頭に血が昇って異常に熱い。汗で湿った手の
ひらに尖った小石がへばりつく。

 彼は真っ赤な顔で吐くように咳き込みながら、生身の人間に一発殴られただけでこうも動けなくなるものなのかと自分の
弱さを思い知り、驚いていた。

「情けないなぁ」

 男はまさに彼が考えていたのと同じことを言った。しかしいざ指摘されると、決して自分を強いと認識していたわけでは
なかったのに、堪らなく恥ずかしく、悔しかった。屈辱というのはもっと志の高い人間のものだと彼は思い込んでいたが、案外
原始的な感情なのかもしれなかった。

「立てよ」

 男が彼の前髪を力任せに引っ掴む。これで全身を吊り上げられては堪らないと彼は思わず男の腕を押さえ込み、自分の足で
よろよろと立ち上がったが、その瞬間に手を振り払われ、気付くと背後の塀に突き飛ばされていた。

「…人のこと舐めとったら、ぶち殺すぞ」

 男の両手が彼の首を捕らえ、叫ぶ間も与えず握り締められた。腹の大きな二本の親指が喉仏に食い込み、彼に強い吐き気を
催させる。彼の息を止めるのは首の背面から突き上げてくる方の指だった。

 すぐ近くで眠っている人々がいるのに、自分が殺されそうになっているのを知らせることができないということが、彼は
俄かに信じられなかった。けれどもこんな呻き声では誰も目を覚まさない。
 自然と顎が開き、ぐったりと舌が伸びて言うことを聞かない。

 彼の目の前では、街灯にさ青(お)く照らされた男の顔がある。今度の喧嘩では思い通りに暴力を振るい、相手を捻じ伏せる
ことができたので満足そうに、歯を剥いて笑っている。歯や目玉の表面、額から湧き出す血潮といったあらゆる男の体液が、
きらきらと繊細な光を反射している。光のせいで小さく震えるような血潮の流れさえ目でとらえることができるように
なっている。
 彼は男の息から酒の揮発する感触を皮膚に受けながら、それらから目を離すことができずに、むしろもっと細かいもの、
どうでもいいものを追ってしまうのだった。目蓋を圧迫する赤紫色の腫れ物が外側へいくにつれて淡い虹色になっていく様子
だとか、頬についている何かを押しつけた跡のような古い傷だとか。

"こんな夜中に意味もなく外を歩き回ってるような奴は、刺されようが殺されようが文句なんか言われへんのや"

 なぜか彼はいつか子どもの頃に父親が新聞を広げながら言ったことを、頭の中で繰り返し思い出していた。死ぬかもしれない
という目に見えない可能性だったものが、いよいよ彼を現実に覆い尽そうとしていた。もうよく分からなくなってくる。
"こんな夜中に意味もなく外を歩き回ってるような奴は、刺されようが殺されようが文句なんか言われへん"ということは、
自分が死んでしまうのは仕方のないことだったのか。

 けれども今もし彼が口を利けたなら、阿呆のようにみっともなく、死ぬ、死ぬと泣き喚いているに違いなかった。こんな
得体の知れないものが怖くない人間などいない。死ぬことを望んだり喜んだりするのは単に負担から逃れられることに対して
そうしているのだ。生きている人間と死んだ人間の境目をわたるときこそが、人の過ごす時間の中で最も恐ろしい瞬間である。

 いつの間にか彼の視界は白い光が溢れかえって、もう男の血塗れの顔もぼんやりとしか見えなくなっていた。


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