その瞬間、街灯の柱の陰から、倒れ落ちる最中の人間の半身が光の下に突然ぬらりと現れて、しかしその身体は化け物じみた でたらめな身のこなしでやがて平衡を取り戻した。 弾かれたように彼は短く声を上げ、息を呑んだまま剥き出しの目でその男に見入った。旋毛を向けるように項垂れていた男が 鬱陶しそうに右目を拭い上げたとき、割れた額から湧き出した血潮がその顔中をべったりと濡らしていたからである。
男はよろめきながら大股で踏み込んできて、立ち竦んだ彼は瞬く間にわずかな距離をつめられてしまった。近付くと酒の揮発 する感触が分かるほど男は相当に酔っていたが、やたらに陽気らしく、すいませんと言う声は愛想が良かった。
「…血が目に入って前が見えへんかって」
そう言った側から男は手のひらで目蓋を擦り、しきりに瞬く。違和感があるのは、そこに鬱血してできた赤紫色の腫れ物が、 目を圧迫して半分隠していることにも原因があるのだろう。額の他にも同じような腫れ物やその上の小さな切り傷が顔中に 散らばっていた。
「何か拭くものを持ってませんか」
ふくもの、と彼は気が抜けたように繰り返し、ポケットに駅前で受け取ったままにしていたティッシュがあることを段々と 思い出していた。恐る恐る手を伸ばしてそれを渡してしまうと、男は嬉しそうに礼を述べて、本当に目や口の周りだけ拭って 全く見当違いのところを止血のつもりで押さえていた。 しかし手応えがないことに気付いたのか、酔っているのとあちこち痛いのとでもうどこから血が出ているのか分からない、と 彼を笑わせたそうに独り言をいって、斑点のついた紙で生乾きの指を拭った。彼はこの後自分が何を求められるのか予感して どうしてもそれを拒絶したかったが、その方法を思い浮かべている暇はなかった。
「悪いけど見てもらえませんか」
そう告げて、血を拭う為に彼が与えた紙を、男が同じ意図で差し出したのが先だった。彼は緊張で動悸さえ感じていたが、 怪我人の切実な頼みを断ることはできなかった。けれども男の目つきに痛みなど読み取れず、自分の臆病さをからかって にやにやといやな笑いを浮かべているだけのように思われてならなかった。 それに腹が立つことはなく、この怪我でこんな顔をして平気で立っていられる男がただ気味悪かった。男がどんなに打ちのめ されても決して死なず、紫色に腫れ上がった顔からだらだらと血を流しながら、いつまでも二本の足で立っているところを彼は 想像した。
身体を震わせて拳をきつく握りしめると、寒さで感覚が麻痺した手の皮が乾いて引きつっていた。 それを覚悟に男からまだ使っていない紙を受け取って引き出し、ここですね、と言いながら分厚く重ねて血潮の溢れ出る額の 傷口に触れる。白い紙は見る間に赤黒く滲んで貼りついてしまい、到底この量では追いつきそうになかった。ぐっしょりと 濡れた紙片から血潮の臭いが立ち昇り、彼の喉の奥をくすぐって軽い吐き気を催させる。
「…あの、救急車呼びましょうか、それ縫わなあかんような怪我やと思うんですけど」 「いや、そこまでしてもらわんでも大丈夫です、朝になったら自分で病院行けますから。それにしても世の中腹の立つ奴も おればこんないい人もいてるんやなぁ」
男は自分が四人を相手に喧嘩をして、最初の一人は倒したがその後押さえつけられてひどく殴られた挙句頭を壁に打ちつけ られて、こんな怪我を負ったのだということを興奮して喋りたてた。 大丈夫なわけがない、と言い放ちたくなる。下らない話を聞いている内に、男が本当にただの酔っ払いなのだと彼はいよいよ 思い知らされて、あの気味の悪さが完全に醒めかけていた。
この男の半身が何もない所から突然現れたときには、ひとつの完成された光景を踏みにじった人間の末路を見る覚悟さえ あったのに。彼はこれ以上男に構うのが煩わしくなった。
翻弄されるほどの恐怖というのは、安全な所から眺めると、非常に面白いものである。それはある種の人間がどうしようも なく惹きつけられて執拗に抉り出そうとしてしまう、陰気な好奇心の対象だった。
そのように感じられるのはこの男のおかげだったが、光に曝されて不気味な気配がさっぱりと抜け落ちたこの人に、これ以上 感情を揺さぶられはしないだろうと彼は思った。夢中になっていたものを台無しにされたことも確かだったので、もうどこかで 勝手に行き倒れてくれ、他の人間に何とかしてもらえ、と当たり散らしたい気になっていた。
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