夜が更けて一層空気が冴え渡っている。 彼は昔ながらの木造家屋の壁や門構えの間を猫背気味に、腹の底に力を込めるようにして歩いていた。木の素材が光を吸って 地面は暗く、ぽつりぽつりと植えられている街灯が頼りだった。そこは人が擦れ違えるだけの狭い路地で、民家が少しずつせり 出したり引っ込んだりしているのに沿って伸びているので、わずかに曲がりくねっていて先が見えなかった。そのせいで 奥行きの距離感がつかめず、いつもここを通るときにはとても長い間歩き続けているような気がした。
真っ直ぐ進む他にやることもないので、やはり彼は自分が書くものについて考えはじめていた。 今まで何度も別の映像を言葉に置き換えてきたが、まともな結末を与えられたものは一つもなかった。きちんと終わりを迎える べきであるし、終えられないことを情けなく思う気持ちはあったが、しかしそのことで鬱々としてしまうのはどうしてなのか。 はじめからこれは自分の執着心を慰めるための作業に過ぎないのではなかったか。そう割り切ってしまうことができないのは、 中途半端なものを嫌がる性質のせいだけではない。ものを書くときに働くあの勘を燻らせておきたくなかった。
結末さえあれば自分の書くものは何か意味のある作品になるに違いないと思い込んでいた。だから小説で身を立てたいだとか、 書いたものを人に評価されたいとかいう浅はかな展望を未だに捨てられないのだった。けれどもあんなものは小説と呼べる ような代物ではないと分かっている。はっきりとした展開のない、ある個人の妄想をありのまま書いたものを誰が面白いと いうのだろうか。
彼は苛立って力任せに歩きはじめていた。何となく息苦しくなって、きつく噛み締めていた奥歯をぎこちなく緩めて喉の底 から溜め息を吐く。しばらくして、この程度の薄っぺらな期待は誰でも持っているし、それをさも深刻そうに思いつめるほど 自分の野心の強さをさらけ出すことになりそうだと思い直した。これは彼には結論の出せない、考えても生活の妨げにしか ならない類の論題だった。
彼は頭を切り替えるために、深くゆっくりと瞬いた。そのときふっと風が通り過ぎて、二月の深夜の寒さと空腹を堪えようと 俯いていた彼の鼻先を、何か白いものが掠めていった。 それは紛れもなく彼への誘惑だった。
彼は惹きつけられるままに立ち止まり、そして見上げた。すぐ先にある家の、頭の高さほどの塀の内側から、ぽたぽたと点を 置いたように花をつける梅の枝が零れ出て、ちょうどそこに寄り添う街灯にさしかかり、その光のさ青(お)い陰に、梅の白い 花が染められて、枝は透明な骨のように、物凄くされているのを。
彼は自分と梅の木の間の数歩の距離がこの光景を成しているのだと感じて、自分が"けれども彼女らがここで永遠に立ち尽くす だけの存在になれないことは、一瞬彼女を通り過ぎた幸せがもたらした悲惨である。"と書いたことを思い出した。そして彼女が そうするはずであったように、彼もまたすぐに再び一歩踏み出していた。
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