"ふと振り返ると、両側から押し迫られて狭く薄暗い、これまでやって来た道のりの先だけが針の穴のようにわずかに ひらけていて、明るい海が見えた。とても鮮やかといえるような景色ではなく、咽返りそうな白い光の中にあらゆる境界が 溶け込んでいて、つられてぼんやりとしてきそうに、うっすらと埃を被っているようである。 この光景に懐かしさを感じられるほどの経験など彼女にはなかったが、どうしてなのか、これらをもうじき手放さなければ ならないことが酷く耐え難く思われた。もちろん彼女は行く。行かないということに耐えられるはずがなかった。 けれども彼女らがここで永遠に立ち尽くすだけの存在になれないことは、一瞬彼女を通り過ぎた幸せがもたらした 悲惨である。"
彼はもうこれ以上書くことなどできないくせに、しつこく黒い芯で紙を突いて、何かの拍子にこの続きを思いつけるつもり でいた。布団の中で腹這いになっているので頭は火照るのに、白い紙の上へ晒した指先だけが冷え固まっている。 これは子どもを生むことを恐れる若い女が、自分の娘を当たり前に慈しみながら二人で坂道を上っていくという幻を見る話 なのだが、幻から覚めた彼女がどこに居るのか、何を思っているのかという件になると、彼の目の前は真っ暗になるのだった。 彼が書くためには映像が必要だった。それは光景を見渡せる全体像であったり、人物の視野だったり、映像でありながら 聴覚や触覚そのものであったりするのだが、これらの別々のものが、既にあった時間のように、目蓋の端辺りできちんと流れて いくのだった。
この映像のようなものを彼は放っておくことができなかった。映像の原形はふいに思い浮かんだり、眠っているときの夢で あったりするのだが、一旦その存在を意識すると、忽ち完成させることに偏執してしまうのだ。それは際限なく映像を繰り返し ていく内に作中の人物と一体化し、いつか経験した自分の感覚で肉付けしていくという終わりのない作業のはじまりだった。 彼は偏執から逃れるために、何とかして再現可能な形でこの映像を頭の外に取り出さなければならなかったが、逆に映像が 彼にそう要求する力を感じることもあった。
そこで彼はごく自然に書く(文字にする)という手段をとった。そのまま映像にすれば良いのかもしれなかったが、あの 光景をそっくり作り上げるために何をするべきなのか分からなかった。けれども映像を自分の言葉に置き換える作業では、彼は 勘を働かせることができた。使いたくない言葉を切り捨て、ふさわしいものを選び取る基準を持っていた。段階を踏むと現れる ささやかな仕掛けを考えることができた。 しかし筋道を立てて書きはじめるわけではないので、いつもこうして映像がぶつりと途切れてやむなく終わる。形が残って 再び辿れることが分かると彼の執着は慰められて、敢えて思い出さなければ意識に上って独りでに繰り返したりしなかった。
低い天井に吊り下げられた蛍光灯から、じりじりと虫の鳴くような音が聞こえる。夜中の二時を回って目蓋も半分に垂れ 下がっているのだが、彼はそれ以上に空腹感が耐え難くなっているのに気付いた。痛いのではないけれど、本当に飢えている としか言いようのない辛さだなぁと言葉の妙に感心する。こんなときに限って家の中に腹が膨れるようなものは何も残って いなかったので、彼はやけになって、このまま朝まで空腹を抱えてやり過ごすよりは、どんなに寒くても今すぐコンビニにでも 出かけていって、温かいものを食べて満足したい気になった。
まだ面倒臭がる気持ちも多分にあったが、彼は自分でも驚いたことに、それから床に転がっていた眼鏡をかけて、のろのろと 身支度をはじめていた。
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