佑美の大学生活は、それなりに軌道に乗ってきたように思われた。和宏は、時々、研究で帰りが遅くなることもあったが、なるべく早めに、帰ってきてくれた。夕食の支度は、いつも、佑美の仕事であり、まるで新婚家庭のようであった。 ある朝、 「佑美、今日は、早く終われるから一緒に帰らないか」 そう、和宏に誘われた。久しぶりである。入学式以来ではないだろうか。 「うん」 佑美は、笑顔で答えた。 「じゃあ、授業が終わったらこの前の教室に来てくれる。じゃあ、夕方ね」 和宏と別れて佑美は、教室に向かった。 授業が終わると、和宏に言われたとおり、佑美は、研究室に向かった。 「こんにちは」 佑美は、遠慮深げに教室に足を踏み入れると、雅之が一人、パソコンに向かっていた。佑美に気付くと、 「あ、こんにちは。久しぶりだね」 明るく声を掛ける雅之に、佑美は、軽く頭を下げた。佑美は、初めてあったときのことを思い出した。社交的であり、物怖じせず、話しかけてくる雅之がとても苦手だった。だが、あの時、助けられたこともあった。そう考えると、雅之は悪い人ではないのかもしれないと思う気持ちも横切った。 「和宏は、ちょっと、教授に呼ばれたんだ。もうすぐ帰ってくるから待っていたらいいよ」 何も言わない佑美に、雅之は優しく教えてくれた。この前にあったときと何だか雰囲気が違って見えた。あのときは、何だかずかずかと土足で人の心に入ってくる人なのだろうかと思っていたのだが、今日の雅之は、静かに佑美のペースに合わせて一緒に歩いてくれている感じに思えた。 佑美が、静かに待っていると、雅之は急に立ち上がり、 「コーヒーでもいれようか?」 と言いながら、隣の部屋に入っていった。佑美は、慌てて雅之について行き、 「あの、私、いいので」 そう声を掛けるのがやっとだった。 「コーヒー嫌い?」 「いえ」 佑美は、俯きながら首を振った。 「じゃあ、僕も飲みたいから。佑美ちゃん、手伝ってくれる?」 雅之は、二つのマグカップを手渡した。 「こっちが、佑美ちゃんのね。これ、和宏のだから心配しないで」 可愛いネコの絵が描かれたマグカップだった。 「似合わないだろう、和宏には」 雅之は、笑いながらカップにコーヒーを注いでいった。佑美は、笑って返事をごまかした。 「佑美ちゃん、お砂糖とミルクは?」 「じゃあ、お砂糖下さい。ありがとうございます」 雅之は、自分のカップを受け取りながらスプーンとスティックシュガーを渡した。元の部屋に戻り、雅之が、自分の席の隣の椅子を勧め、佑美は、腰掛けた。 「最近、和宏、帰るの遅いだろう。凄く気にしていてね、佑美ちゃん一人だから」 確かに和宏は、十時頃になることがしばしばだった。だが、一人で居ることに不安を感じるわけではなかった。ただ、遅くに帰ってくる和宏の体調が気になっていた。大学ってそんなに遅くなる物なのだろうか。佑美は、コーヒーを飲みながら考えていた。 「でも、忙しいのも、もうすぐ終わるからね。今度発表があるからそれの準備でね。発表は、今回後輩がするけど一応研究グループだから」 雅之は、コーヒーのカップを抱えたまま、佑美に説明していた。 「そうなんですか。私は大丈夫なんです。住み慣れた家ですし。ただ、お兄ちゃんが遅いといろんな事心配します」 「いろんな事?」 佑美は、ちょっと照れながら、 「私が心配するのって変だけど、事故に遭わないかなとか、変な人に追いかけられないかなとか」 佑美は、自分で言いながら恥ずかしくなり、苦笑いを浮かべた。雅之も、微笑みながら、 「お兄ちゃん思いなんだね」 佑美は、赤くなりながら下を向いた。 「僕も、一緒にしてるからもうすぐ暇になるんだ。今度、僕とデートしない?」 雅之は、軽くウインクしながら、佑美を誘ってきた。佑美は、少し困った顔をした。 「あ、もしかしたら彼氏が居るのかな?」 「いえ、居ません。でも、お兄ちゃんに聞かないと」 佑美は、返事に困っていた。やはり、兄である和宏の友人である。まずは、和宏の了解を得なければ行けないのではないか。堅苦しいようであるが。それに、やはり、何処か苦手であった。真っ直ぐ見つめる雅之の目は、純粋で何だか自分の心の中を見透かされているようで。和宏に対しての淡い恋心などを。「まさか、和宏同伴なんてあり得ないよね」 雅之は、苦笑し、驚いて見せたりした。佑美も、苦笑しながら 、 「はあ、それは。ただ、お兄ちゃんの友人ですから」 「恋愛には、関係ないよ。あ、でも、反対されたらやっぱり交際するのに支障があるか。でも、反対されたら燃え上がるかもしれないし」 楽しそうに話す雅之を見ながら、この人は、きっと私をからかっているんだろうと思えてきた。私は、まだ、子供だから、きっと私の反応を楽しんで居るんだろうと。佑美は、静かに雅之の様子を見つめていた。 「あれ、どうかした?」 雅之は、乗ってこない佑美に気付いた様子で、 「あれ、つまんないな。それとも、嫌われたかな?」 雅之は、いたずらっぽく笑いながら、 「でも、いつか、デートしようね。楽しみにしているね」 そう明るく告げる雅之の笑顔は、素敵だった。 後で聞かされたことだったが、雅之は、前日に半年付き合った彼女と別れた後だった。雅之にしたら長い付き合いだったらしいが、いつも雅之が振られるらしい。佑美をデートに誘ったのは寂しさを紛らわすためだったのだろうか。それとも、もうすっかり吹っ切れて新しい恋に向かっていたのだろうか。和宏に、聞くと、あいつは、なかなか、立ち直れないんだと答えた。佑美は、こんな私でも役に立つのだろうかとふっと思った。でも、私は、何も出来ない。きっと、雅之だって同情されるのは嫌に違いない。 「デートしようって言われた」 「誰に?」 和宏は、ドキッとした。佑美にも、そういう男が居るのか。 「あ、中井さんに言われたの。ちょっと、びっくりしたよ」 「いつ?」 「この前、お兄ちゃんと待ち合わせした日」 ああ、そうかと言いながら、和宏は、雅之が振られた話をしたのだ。 「どうして、中井さんはいつも振られるの?そんなに、嫌な人なの」 和宏は、佑美が、雅之に興味を示しているのが解った。確かに雅之は、魅力的な男だった。佑美が、好きになっても仕方ない男だと思った。 「和宏は、女の子に優しすぎるんだ。いつも女の子から付き合ってほしいって言われて、でも、あまりにも優しいから女の子は物足りなくなって、女の子から別れてって言われるんだ。勝手だよね。優しい男に惹かれて付き合って、でも、物足りなくなると優しすぎるからって」 佑美は、何だか雅之が羨ましくなった。和宏にそこまで思ってもらえて。焼き餅なのかな。佑美は、和宏に気付かれないように苦笑いを浮かべた。 和宏も、苦笑いを浮かべていた。僕は、佑美に、雅之をさり気なく薦めているのだろうか。確かに良い男だと僕も認めている。佑美が惹かれても仕方ないことだ。確かに僕と佑美は、兄妹である。だから、僕が託せる男性と、僕が気に入った男性と付き合ってほしかった。だから、僕は、雅之となら付き合いを認めても良いと思っていた。寂しい物だな。和宏は、このままずっと佑美と居たいと思っているのに。それは、許される物ではないのだが。佑美は、きっと、僕のそんな気持ちなんて気付いていないのだろう。 「ねえ、お兄ちゃん。今度、三人で遊びに行こうか。私、中井さんと出掛けても何話して良いか解らないし、きっと、中井さんだって退屈すると思うから。それじゃあ、申し訳ないし。どう?」 優しい笑顔で雅之のことを話す佑美を見ながら、和宏は、胸の奥の何かがずきんと痛んだ。僕は、ずっと、こんな気持ちで佑美を見て行かなきゃいけないのだろうか。佑美は、楽しそうに雅之とのデートの話をしている。和宏にとっては、何だか音楽でも聴いているような感覚だった。 「ね、お兄ちゃん。どう思う」 不意に声を掛けられ、和宏は、戸惑った。 「あ、聞いてなかったの。もう。あのね、うちで一緒にご飯でもって思ったの。どう?」「ああ、それも良いかもね」 和宏は、慌てて答えた。佑美は、不審そうに見ていたが、特に何も言わなかった。
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