「お兄ちゃん、研究室にいるの?」 「入学式はちゃんと出るよ。その後、一緒に研究室に行こうか。佑美が、何か困ることがあったらいつでも来られるように」 「いいよ。お兄ちゃんも忙しいでしょう?それに、研究室に行ったら迷惑にならない?」「大丈夫だよ。みんなには話してあるからね。みんな、理解しているから」 それもまた、和宏の優しさであった。 入学式を終え、和宏に連れられ、東棟の四階に連れて行かれた。佑美は、和宏がどのようなことを研究しているのか理解していなかったが、興味がないわけではなかった。ただ、聞くチャンスがなかったのだ。これから、色んな事を和宏から学んで行けたらと思うことも沢山あった。もちろん、和宏とは学部も違うので自分の知識の一つとしてなのだが。和宏の研究を理解することでまた一歩和宏に近づけそうな気がした。各デスクの上には、パソコンが置かれていた。もちろん家にも和宏はパソコンを持っている。それは、和宏がバイトして購入した物であった。大学院に進むこともかなり悩んでいた。もっと学びたいと思う和宏だったが、早く独立しなければと考えていたため、就職活動を始めたのだ。それを見かねて、教授が父親に電話してきたのだ。異例のことだったのではないか。だが、それだけ見込まれていたに違いない。父は、兄を呼び、二人だけで話をした。長い時間であった。佑美と母親は、かなり待たされた。話し合いが終わり、和宏は母に、 「もう少し勉強させて下さい」 そう頭を下げた。母は、寂しそうな瞳をしていたが、 「私達に出来ることは、させてちょうだいね」 そう和宏に声を掛けた。和宏は俯いたまま頷いた。和宏はどうしてそんなに両親に遠慮するのか佑美には理解できなかった。それ以外では、とっても仲の良い家族なのに。 「佑美、この部屋だよ」 和宏に案内されて、研究室の一室に通された。そこには、五つの机があり、ここもパソコンが置かれていた。 「僕は、この部屋にほとんど居るからね。もし、居なくても誰かに伝えていたら連絡は取れるようになっているから心配しないで」 佑美は、頷いた。そこへ、誰かが入ってきた。 「あれ、横川さん、どうしたの?」 驚いたように和宏を見て、横に立っている佑美を見た。 「あ、今日、入学式でしたね。初めまして、横川さんより一つ下の上田祐二です」 佑美もつられて、頭を下げた。 「初めまして。横川佑美です」 佑美は、俯いたまま答えた。 「妹が時々お邪魔するかもしれないけど、よろしくね」 和宏は、佑美を横目で見ながら後輩に告げた。 「佑美、もう少し帰るの待っていてくれる?少ししておきたいことがあるから」 「うん」 佑美は、頷き、側の椅子に腰掛けた。和宏は、後輩の祐二と、何か相談し始めた。佑美は、ぼんやり和宏を見ていた。何となくいつもの和宏と違っていた。表情も厳しく、口調も緊張感があった。和宏もこんな顔をするんだと少し驚きながら、でも、違う一面を見られたことが嬉しかった。 「佑美、ちょっと退屈だね」 佑美の視線に気づき、いつもの柔らかい表情で和宏が声を掛けた。 「ううん、大丈夫よ。気にしないで」 佑美は、笑顔で答えた。そう、凛々しく見える和宏なんてなかなかお目にかかれないのだから。 「あれ、横川、どうしたんだ」 そこへ、また、違う男性が入ってきた。側にいる佑美に気づき、 「あ、妹さんの入学式だったな。あっ、こんにちは、和宏と同じ学年の中井雅之と言います。佑美ちゃん、だったよね?一度、遊びに行ったことあるけど覚えている?」 佑美は少し考え、 「はい、でも何となくなんです。ごめんなさい」 佑美は、素直に答えた。 「うん、仕方ないよ。横川がなかなか君に会わせてくれなかったしね。よっぽど僕たちには、取られたくないんだろうね。まあ、仕方ないか、こんなに可愛い妹さんなら。でも、これから大学でしょっちゅう会えるし、いつでも此処においでよ。こいつが居なくても、僕たちが居るからね」 「はい」 佑美は、俯き加減で返事した。どう答えたらいいのか少し困ってしまい、ちらっと和宏を見た。和宏は、少し、険しい表情をしており、佑美の視線に気付くと、穏やかな顔になり、 「佑美、そろそろ帰ろうか?」 と優しく声を掛けた。 「うん、でもまだ終わってないんでしょう?私大丈夫だよ。もし、邪魔なら先に帰るよ。近いんだから」 和宏は、きっと、気を遣って居るんじゃないかと思った。和宏は、いつも優しいから。「折角だから、みんなでご飯でも食べに行こうよ。佑美ちゃんの入学祝いをかねて。ねっ、どう、佑美ちゃん」 「そうですね。僕もお腹が空いたし、横川さん、駄目ですか?」 佑美は、返事に困ってしまった。和宏に助けを求めるように、見つめていると、 「いや、今日は、帰るよ。佑美もその方が良いだろう」 佑美は、和宏がそうすべきだと思うのならと、頷いた。 「ああ、残念だな。折角佑美ちゃんとお近づき出来ると思ったのに」 佑美は、あっけらかんと言う雅之にどう接していいのか戸惑った。やはり、大人なんだろうなとつくづく感じた。外が少し賑やかになり、数人の学生と教員らしき人物が入ってきた。 「あれ、横川さん、今日は来ないんじゃなかったの?」 一人の学生が、近づいてきた。他の学生もよってきた。 「そう言えば、今日は、入学式でしたね。お父さん代わりで出席したんですね」 にやにやしながら和宏に近づいてくる学生もいたが、佑美に気付くと、慌てて頭を下げた。 「あ、初めまして。妹さん?」 和宏は、頷いた。 「ねえ、先生、今からみんなでご飯に行きましょうよ。横川の妹さんの入学を祝って」 雅之は、諦めきれなかったようで、何とか佑美を連れ出そうとした。和宏には、その魂胆がお見通しだったため、気乗りしなかったが、これといってこれ以上断る理由もなかった。それに、友人としては雅之は、最高の男であった。だが、佑美を託すには、戸惑いがあった。容姿も申し分ない。スポーツ万能。おかげで女性陣にはかなりの人気があったが、何故かクールに接していた。何人かの女性と付き合った経験があるが、あまり長続きしなかった。いつも、 「また、振られた」 と笑いながら和宏に話していた。実際、振られていることが多いようだったが。良いやつだと思っているが、 『俺は、何をためらって居るんだろう』 その答えを、和宏自身わかっている。雅之でなくても、他の男性でも佑美が付き合うことに納得できないのだ。解っている、妹だし、いつまでも自分の側にいないことは。だが、今まで側にいた佑美が居なくなることを考えると、どうしようもなく寂しくなるのだ。そしてもうひとつ・・ 「じゃあ、ご飯を食べに行こうか」 いつの間にか、食事に行くことが決まり、その輪の中に、佑美と雅之がいた。 「横川、何ぼんやりしてるんだ。今日は、先生がご馳走してくれるって。佑美ちゃん、何食べたい?」 馴れ馴れしく話しかける雅之に、佑美は、困ったように和宏を見つめていた。 「中井さん、困っているじゃないですか」 そう助け船を出したのは、上田祐二だった。和宏は、佑美の側に行き、それも、雅之との間に入り、 「じゃあ、折角だし、一緒に行こうか」 その問いに、うんと佑美は頷いた。 「じゃあ、今日は、学食に行こう」 えーという学生に、 「妹さん、初めてなんだから一番良いじゃないか。なあ、横川」 「はい、そうですね」 皆、納得し、食堂に向かった。 「佑美、僕の先生で松木秀樹先生だよ。先生、僕の妹で佑美です」 「初めまして。いつも兄がお世話になっています」 そう言いながら、佑美は頭を下げた。 「いつも、君の話は、お兄さんから聞いて居るんだよ。入学おめでとう」 大らかに話す松木に、佑美は、好感を持てた。 食堂に着くと、かなり席は埋まっていたが、この14,5人の団体でも充分座れた。取り敢えず席に着き、メニューを決めた。 「おい、あんまり高い物にするなよ。一人一セットまでだぞ」 「先生、高くても600円が限度じゃないですか」 他の学生がどっと笑った。佑美は、圧倒されてみんなの様子を見ていた。 「佑美、何にする?ここね、佑美の好きなオムライスがおいしいよ」 和宏は、小声で囁いた。佑美は、にっこり笑い、 「じゃあ、それにする。でも、本当に良いのかな」 心配そうな佑美に、 「うん、大丈夫だよ。たまにご馳走してくれるんだ。先生も楽しんでいるからね」 和宏は、佑美を安心させるようにそう告げた。 「なに、こそこそ話してるんだ」 そう声を掛けてきたのは、中井雅之だった。雅之は、佑美を見つめながら、 「佑美ちゃん、決まった?」 佑美は、真っ直ぐ見つめる雅之の瞳が少し苦手だった。全く物怖じしないその瞳に吸い込まれそうになる。 「うん、決まったよ」 和宏は、雅之の瞳を遮るように割って入り、そう答えた。雅之は、苦笑いしながら、 「俺、佑美ちゃんに聞いたんだけどな。まあ、仕方ないか。和宏は、佑美ちゃんが可愛くて仕方ないようだから」 何故か、佑美は俯き、赤くなるのが解った。「そりゃあ、そうですよ。大事な妹さんを中井さんみたいな男の人に取られたら僕だったら泣きますよ」 後輩の一人がそう叫ぶと、笑いが起こった。「俺って、そんなに酷く無いぞ。もう少し先輩をいたわらなきゃ」 「充分いたわっているじゃないですか」 何となくその場も和んできて、皆の注文した品がそろった頃には、佑美もその雰囲気に馴染んでいた。それでも、雅之とは,話すことが出来ずにいた。側に和宏が居たからかもしれないが、佑美は、和宏が居てくれて良かったとほっとするところもあった。 和宏は和宏で、雅之のタイプが、佑美のような女性だと知っていたためどうしても近づけたくなかった。佑美が好きになれば仕方ないと諦めていたが、それでも、自分が納得できるだろうかと心配であった。佑美を誰にも渡したくないと思っていたのだ。だが、和宏だっていつまでもずっと一緒にいられないことなど解っていたのだ。いつか佑美は、自分の側から巣立っていくのだ。 「お兄ちゃん、おいしいね」 ぼんやり箸を進めていた和宏に、佑美は、満面の笑みでそう答えた。和宏は無言で頷いた。だが、その瞳は、優しく佑美を包んでいた。 「でも、横川さんと妹さん、似てませんよね」 和宏は、ドキッとして箸を止めた。同じように佑美も、硬い表情になった。佑美が、いつも言われる言葉だった。二人が全然似ていないと。兄である和宏は、父と似たところがある。私は、といつも佑美は、問い返す。母にも似ていなかった。そして、行き着くところは、私は両親の子ではないのではないかと思うのだ。兄が、自分に優しいのは、その事を知っているからだと。佑美は、ずっと、兄と居たいと思っている。だが、それも、敵わなくなるのではないかと思うこともしばしばあった。もうすぐ兄は、遠くに行ってしまうのではないかと。 「そうかな、目の辺りなんか似てると思うけどな」 そう言いだしたのは、雅之だった。佑美は、ほっとした。一番触れられたたくないことなのだ。同じように和宏もほっとした顔をした。佑美は、その顔を見て、やはりブルーになるのだ。 「そうだね。言われてみれば」 さっき言った学生が、雅之の言葉に納得した。 「ところで、佑美ちゃんは、学部何なの?」 雅之は、話題を変えるように聞いてきた。 「心理学を専攻するんです。楽しみです」 佑美は、初めて雅之に素直に笑いかけることが出来た。 「ねえ、佑美ちゃん、今度佑美ちゃんのクラスの子と合コンしようよ。なんせ、男ばっかりだからつまんなくて。クラスの子に声掛けといてよ」 雅之は、冗談ぽく言った。 「あ、それ、僕も参加する。良いでしょう?」 「おまえは、駄目だ。俺のこと、酷いやつみたいに言ったから」 雅之がそう言うと、 「あ、僕は、言ってないから。是非誘って下さいよ」 他の後輩がお願いしてきた。 「あ、じゃあ、僕も参加しようかな?」 そう言いだしたのは、先生である松木だった。 「先生は、駄目ですよ。奥さんが居るのに。僕たちは、寂しい独り身なんだから」 「それにそんな事したって奥さんにばれたら大変でしょう。はい、先生は駄目」 佑美は、みんなが盛り上がっているのを見ながら、困った顔をしていると、 「佑美、みんなは、冗談だから心配しなくて良いよ」 和宏は、そっと耳打ちした。 「うん」 佑美は、にっこり笑って頷いた。ちらっと雅之を見ると他の学生と楽しそうに話していた。
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