大学の講義。
腫れた重いまぶたを擦りながら、僕は懸命にシャーペンを走らせていた。
昨日の今日だ。 あんなに泣いてまぶたが腫れないわけがない。それを隠すように今日の僕のヘアスタイルは、前髪が少し垂れ気味。普段の僕じゃ絶対に使わないヘアワックスで、無理やり即席の前髪を作ったのだ。もちろんそんな器用な技が僕にできるはずもなく、この前髪は彼女作。彼女曰く、この方が僕はカッコいいらしい。かといって毎日こんなふうにセットする暇なんかないから、どうせ明日からはいつもの僕だ。それにさっきからその前髪の先端が視界に入ってきて、非常に僕の気に障る。いくら最愛の彼女が賛美しても、この髪型は僕にとって邪魔にしかならない。 そんなこんなで集中が途切れると、タイミング良く前方の扉が開いてひとりの見慣れない男の人が入ってきた。
ああ、そういえばこの教科の教授って先月から出張中だった。そのため、曜日毎に違う教授が授業をしに来るのだ。まあ、いつもと違う教授の授業に新鮮さがあると言う彼女の考えに間違いはないなと思った。 しかし、今しがた入ってきたこの教授はこの大学じゃ一度も見たことがない。…歳はだいたい40代半ばだろうか。いや、もう少し若いかもしれない。そう僕の目が推測したとき、昨日の昼にした彼女との会話が思い出された。たしか新しく来た教授が40代の男って言ってたな。もしかしたらそいつか…?ルックス的にはよく見ると上級ランクだ。それなりに歳をくってるとしても、カッコいい部類に入るだろう。背も平均より高めでまあ、当然ながら頭も禿げてない。こうも美形だと、情けなくも一応大学3年のいわゆる旬なオトコのコの時期であるにも関わらず、僕はそのルックスに負けを認めざるを得なかった。 しかし、その顔を見れば見るほど初めてという感覚はだんだんと薄れていき、どこかであったような感覚さえ芽生えだしたが、その長い前髪が邪魔してまたもや僕の集中を途切れさせた。
「そういえば、昨日奈央が言ってた教授が来たよ。…40歳越えてるのに顔はカッコいいんだね。」
昼休み。 いつものように彼女と昼食を共にしている。
僕は教授のことを嫌味ったらしく告げた。なんとなくあのハンサムな教授が気に入らないのだ。すると彼女はそんな僕の意図など察する様子もなく、その綺麗な栗色の髪を揺らして目を輝かせた。 「そうだったの!?ねえ、すごく良い授業をする先生だと思わない?まだ新任だけど、室伏先生って薬学部の女子に結構人気あるんだよ!」
―むろふし?
カッコいいとかの話はどうでもよくなり、出てきた彼女の言葉に僕の手は止まった。室伏っていう苗字は鈴木とか佐藤とか高橋とかいう、そういうありきたりなレベルのものじゃない。その瞬間、嫌な汗が全身を伝った。さっきから嫌でも「悠次」という名前が僕の頭に浮かんでいる。僕が3歳のときに22歳だから、あれから18年経った今じゃあいつはちょうど40歳だ。40歳も立派な40代の仲間で決して的外れじゃない。ましてや当時塾の講師をしていたくらいだから、18年もの空白があれば教授になるなんて簡単だろう。 「奈央、その室伏っていう教授だけど、下の名前はなんていうの?」 思わず僕はそう彼女に聞いていた。その名前が彼女の口から出てこないことを期待するが、その期待の中の隅っこのほうに、あいつなんじゃないかという気持ちもあった。そう思った瞬間、こんなところで呑気に飯なんか食ってる場合じゃないとさえ思えてきて、3歳のときの記憶が、昨日の夢が、一気に頭の中でフラッシュバックされる。僕に食べ物を与えるときのあの顔、母さんを見るときのあの顔、…母さんを抱いた後のあの顔。
そう思うと、さっきの教授の顔にそのときの面影があるような気がしてきて、僕は益々冷静さを無くしていった。
「…和君?ねえ、和君ってば!」 彼女の声と揺さぶりに僕は自分を取り戻した。 「顔色悪いけど…、また変な夢でも見たの?」 僕には彼女の顔色の方が悪く見えた。それは僕を本当に心配しているから、そこまで表情が曇るのだろう。 「違うよ。ちょっと考え事をしてたから。」 そう言ってのけると彼女は更に表情を険しくした。 「私が先生の名前を言ってから和君おかしくなったけど、名前になにかあるの?」 名前? ああ、そういえばあいつの名前を聞き逃してた。さっきはあまりにも我を忘れていたから。正確には名前を聞く前から僕はおかしくなってたのだ。そして一呼吸おいてから僕は口を開いた。 「ごめん、聞いてなかったみたい。教授の名前、なんだっけ?」 そう問うと、彼女はぽかんと豆鉄砲でも食らったかのような顔をして僕を凝視した。 「え?聞いてなかったって、名前聞いておかしくなったんじゃないの?」 薬学部のトップはどうやら勉強はできても、こういう会話での頭の回転は非常に鈍いらしい。とりあえず彼女からあいつの名前を聞こうと質問を促した。 「一樹先生だよ。って読み方は和君と同じだけど、一樹先生のかずは数字の一だから。きは同じなんだけどね。」
―室伏一樹?
僕の期待していた「悠次」じゃなかった。 ほっとしたような、そうじゃないような説明のしようのない気持ちが僕の中にあふれていた。名前が違うんだから、あいつじゃないんだろう。手元にある冷めたコーヒーをぐいっと飲み干して、僕は席を立った。
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