「和君?」 ふと顔をあげると、そこには奈央の顔があった。どうやら講義全体を寝て過ごしていたらしい。机に広がる透明な液体がなによりの証拠だ。しかし、とても嫌な夢を見た。 「待ち合わせ場所に行っても和君いなかったから、こっちに来てみたの。」 「僕、寝てたみたいだね。」 「うん。でも、和君が講義ひとつをまるまる寝るなんて珍しいね。具合悪いの?」 机についた僕の唾液を彼女は自分のハンカチでさっと拭き取った。なんとなくその奥さんのようなあったかい行動にほっとする。それから指に光るものをはめた左手で僕の額を触った。こつんと額に幸せな金属が当たる。 「熱はないみたい。今日はこのまま真っ直ぐ帰ろう?」 僕らはいつも、帰るときには下校デートという名のお茶をする。お茶をしながらその日の出来事をお互いに報告したりして、ふたりの時間を楽しむのだ。 「でも、このあとデートは…。」 「彼氏の具合が悪いのに、無理やりデートに誘うほど嫌な彼女じゃないよ。」 ふふっと笑いながら彼女はそそくさと教室を出ていく。彼女に抗議する暇もなく、僕も急いで机に散らばる教科書をトートバッグにしまい、彼女を追いかけた。
僕は今一人暮らしをしている。 その家はというと学校から一駅離れたところにあり、一軒家で、マンションやアパートよりはずっと広い。造りは洋風で、僕みたいな怠け者が住んでいていいのかと時々思うくらい結構豪華な家だ。そして、一人だからか、よく彼女が出入りしたりしていた。たまに泊まっていくこともあるけど、彼女は実家暮らしだから僕と同棲しているわけじゃない。 「よし!今日は和君のために腕ふるっちゃおうかな!」 なんてまだ寒いのに腕まくりなんかしてみせる彼女。僕は別に風邪ひいてるわけでもないし、ましてや熱なんてないのに。ただ…、小さい頃の悪夢を見て気分がよくないだけ。それでも、僕を気遣ってくれる彼女の存在は僕にとって本当に有り難いものだ。 「そしたら買い物しなくちゃ。なにがいいかな…。あ、でも和君は先に帰ってて?買い物済ませたら行くから。」 優しく微笑んで手をあげると、彼女は走っていってしまった。道端に取り残された僕は、彼女の走る姿が見えなくなるまでぼーっと見つめていた。
「ただいま。」 靴の散らかっている玄関先で言葉にしても返答の日本語は返ってこない。けど、あえて言葉にするのは、僕の帰りを待つ可愛い子の姿があるからだ。 「わんっ!」 「フェンネ、今日もいい子にしてたか?」 僕の愛犬、フェンネだ。フェンネは僕が12歳の時にやってきたシェルティ種の犬。名前の由来は、僕の好きなペンネ・グラタンのペンネをフェンネと覚えてしまっていて、フェンネと会ったときにペンネ・グラタンを食べるのと同じくらいの嬉しさがあったからだ。ややこしい説明だけど、とにかく僕はフェンネが好きで、フェンネも僕が好き。とりあえず靴を脱いで電気を付けて。いつもの動作を終えると、僕はリビングのソファに勢いよく寝転んで側にいるフェンネを抱っこした。 「今日は嫌な夢を見たんだ。僕が小さい頃の、フェンネがまだいないときのね。」 フェンネの前だと僕は弱くなる。なんでもフェンネに話したくなる。犬というか動物は不思議なもので、見たり触ったりするだけで人の強い部分を素直に変えてしまう。動物の前で下手に強がる人なんていないだろう。フェンネの頭を撫でながら僕の口は勝手に言葉を紡いでいく。 「やっぱり、僕がいたから父さんはいなくなったのかな。僕がしっかりしていれば、母さんはああならずにすんだのかな…。」
―僕は母さんを守れなかった。
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