「あのね、和君。今日の午後から薬学部に新しい教授が来るんだよ。」 自分の分の弁当の包みを開けながら、彼女はにっこり笑って僕に話しかける。 「へえ…。どんな人?」 僕以外の人の話をにっこりしながら言う彼女に少しむっとした僕は、むっとした分だけ声色を少し暗くする。男だか女だかは知らないけど、僕の頭にあるスクリーンには若い男の映像が勝手に映った。もちろん彼氏の僕としてはあんまり面白くない。そんな僕の複雑な男心を知ってか知らずか、彼女はさらににっこり笑って言葉を続けた。 「噂によると、40歳代の男の人みたいだよ?新しい先生が来ると新鮮でいいよね。」 やっぱり男か。そして、僕のスクリーンに映る若い男が一瞬で40代くらいのむさい男に変わる。でも彼女が楽しみにしてるのは男だからじゃなくて、どうやらその授業の新鮮さらしい。まあ彼女らしいといえば彼女らしい理由だ。それに40代じゃ彼女の恋愛対象には入らないだろう。ひとまず彼氏としての心配がなくなり、僕はほっと胸を撫で下ろした。 「いい先生だといいなあ…。」 いい先生とは?性格、外見、学力、学歴…。彼女の発言に僕の頭はいろいろな言葉で埋め尽くされる。とりあえず異性として彼女に近寄らなければなんでもいいけど…。 あれ…? ここまで考えてから気付いた。僕って案外嫉妬深かったのか。2年付き合ってる相手がいて今更気付く僕が鈍感なのかもしれないけど、自分は嫉妬深かったということが意外でなんとなくおかしくなり、少し笑みがこぼれた。 「どうしたの?和君が思い出し笑いなんて珍しいね。」 今度はにっこりじゃなくてふんわり笑う彼女。まるで愛しいものを見つめるような優しい眼差し。それが僕ひとりに向けられているものだとわかると、やっぱり少し照れる。きっと僕らはいつまでも初々しいままなのだろう。彼女の笑顔を見てそんな気がした。 ほんわかした昼食時間を終えて、僕は午後一の講義に参加した。この講義は別に受けなくてもいいものだけど、彼女がこの時間のコマを終えれば今日の講義は終了で一緒に帰れる。何もしないでぼーっとするよりはましかと思ったから、一応参加してみることにしたのだった。
しかし、それが悲劇の再幕開けだとは思いもしなかった。
「それじゃ、和樹のことお願いしますね。悠次君。」 「ええ。美波さん、いってらっしゃい。」 「ママ、いって、らっしゃい!」 「いってきます。」
―パタン。 このドアの閉まる音が嫌だった。 母さんが仕事に出かけると、家には僕と僕のせんせいとのふたりになる。せんせいとは、俗に言うベビーシッターにあたる人で、せんせいという呼び名は塾の講師をしていることに由来している。名前は室伏(むろふし)悠次。歳は22。背は父さんより少し高くて眼鏡をかけている。そして父さんとは違う手を持った男の人で、何より僕はその手が大嫌いだった。僕は当時3歳だったけど、その記憶はいつだって鮮明に頭の中に蘇る。
いつものように僕はリビングの絨毯の上で、お気に入りのくまのぬいぐるみとロボットを戦わせて遊んでいた。その間にせんせいは部屋の掃除や昼ご飯の準備をする。僕は決してせんせいに甘えることはしなかった。人一倍人見知りの激しい子供で、せんせいに慣れるまでには相当な時間がかかった。 父さんは僕が生まれてすぐに単身赴任を言い渡され、遠くの地域でひとりで暮らしている。だからといって単身赴任の父さんの稼ぎを当てにするわけにもいかず、母さんは僕が1歳を迎えてから働きに出るようになった。まだ小さい僕をひとりにしておけないから、母さんの知り合いでもある近所の室伏悠次さんが僕の面倒を見るようになったのだ。 「和樹くん。お昼ごはんできたよ。」 にっこり笑いながら僕のテリトリーである絨毯に近づいてきた。僕はそれが気持ちよくなくて、側にあった小さなぬいぐるみをせんせいに投げつけた。 「こらこら。あ、遊んであげなかったからすねちゃったのかな。ごめんね。ご飯食べたら一緒に遊ぼう。」 すっと僕に伸びてくるせんせいの手。僕は大嫌い。けど大人の力には勝てなくて簡単に抱っこされてしまう。暴れることもできずに僕専用の椅子へひょいと座らされた。 「今日は美波さ…いや、和樹くんのママが教えてくれたペンネ・グラタンだよ。和樹くんが好きだって聞いたから頑張って作っちゃった!」 僕はこの目が嫌い。眼鏡のレンズ越しに見える、愛おしい者を見るようなこの目が大嫌い。僕はふいっとせんせいから目をそらして、テーブルに置いてある大好きなくまさんのスプーンを手にした。 「あ!和樹くん、まだグラタン熱いから僕がふーふーしてあげる。」 せんせいは僕の手からさっとくまさんのスプーンを奪い取って、あつあつのグラタンをすくう。ふーっと何回か息を吹きかけると、僕の口の前にくまさんのスプーンを差し出した。そのスプーンの先からは、焼けたチーズの匂いと甘いミルクの香りがふわっと広がった。 「はい、あーん。」 いくらせんせいが嫌いでも母さんのグラタンは嫌いじゃない。それに加えお腹も空いていた僕は差し出されているスプーンを頬張った。 「どう?おいしい?」 今度はすごく真剣な目をして僕を覗いてくる。口に広がるのは母さんが作るグラタンと同じ味でやっぱりおいしいから、とりあえずこくっと頭で返事をした。 「よかったあ!よし、じゃあまたふーふーしてあげるね。」 せんせいの頬が緩んで目が細くなった。またこの目になる。だから、その目はやめて。その目で僕のことを見ないで。僕はその目を見ないように、いっしょうけんめいグラタンを食べていた。
午後1時。 昼を済ませた後、僕はまたひとりで遊んでいた。でもさすがに子供だということもあって、だんだんと眠気が襲ってくる。そしてふあっと僕が大きなあくびをすると、せんせいは声を弾ませて嬉しそうに近寄ってきた。 「あれ。和樹くん、お昼寝の時間かな。」 目が勝手に閉じてくるからせんせいの顔はよく見えない。けどきっと嬉しそうに笑ってる。 なんで…? 笑ってる理由は…あれ、なんだったっけ。
いつの間にか僕は楽しい夢の中にいた。
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