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作品名:インターナショナルスクールのガキ 作者:kaguya

第4回   知らないBirthday Party
幼稚園もそろそろ飽きてきて、あまり行きたくない日々が続いていたころ、ある土曜日に突然母親から、

明日はお誕生会よ、呼ばれているでしょ?

え? だれに?

理沙ちゃんよ

僕知らないよ、だれ、それ?

ほら、坂之上にあるお家の理沙ちゃん・・・

????知らないよ・・

お姉ちゃんも呼ばれているのよ・・・あ、あんたには言ってなかった・・
でも二人で呼ばれているから、行ってらっしゃい!!

いいよ!! いやだよ!!

良いの、行けば、直ぐ終わるんだから・・・行ったら、顔出して帰ればいいんだから。

わかったよ・・・・

次の日、母親と3人で歩いて5分ちょっとで理沙ちゃんのお家にたどり着きました。 その5分がなんと永遠に続くようで、すごく疲れました。 行くとやはり、知らない顔ばかり。 男の子も女の子もみんな知らない子供たち、理沙ちゃんもあったこともない女の子でした。姉の友達がほとんどで、姉は、みんなと仲良く遊んでいました。

ねえ、かえろうよ、もうきたから、いいでしょう、はやくかえろうよ・・・

悲痛な叫びも届かず、無視され、再び

かえろうよーーー

来たばかりでしょ、何言ってるの!!もうちょっと待ちなさい

と自声の大きい母に怒鳴られ、遭えなく撃沈。

やっぱりね!!と思っていたら、小学校5,6年の外人が、

Hey lets play outside

と言って数人の男の子を連れて外の出ました。みんなまったく知らない子ばかり。
男の子と言うのは動物的な要素が多分あるみたいで、仲間同士のグループを統制し、
敵と戦う習性をもっているようです。案の定、竹とか、プラスチック製のステイックとか新聞紙を丸めた棒を使って、ちゃんばらが始まりました。 ただひとり、誰も知らない僕が敵とみなされ、10人ぐらいを相手にしなくては、ならず、必死で落ちていた棒切れを振り回し、2,3人泣かしました。 でも無勢に多勢で結局、もうだめかと思ったそのとき、かわいそうに思ったのか、小学生のジャックが、味方になり、事なきを得て終結。

家に入り、バースデーソングを歌い、ケーキの蝋燭が消され、プレゼントを開け終了。やっと帰れると思っていると姉は、・・・私はもうちょっと遊んでいく・・・と言って、座り込んでしまい。結局さらに苦痛の時間が過ぎ、日も暮れて外は真っ暗になっていました。やっと帰宅したのが8時ごろです。

明日は月曜日で、幼稚園もあるのに、その日の出来事が多少ショックだったのか、眠れないよるをすごし、あっという間に朝になっていました。

幼稚園に行く途中、紙切れを発見・・・なんだなんだと言って近づくとなんとお札・・・
すげーすげーと思って、みたら500円札。その当時の500円は、幼稚園児の僕の取っては大金も大金です。めんこ、2B弾、プラモデル、切手に、チョコ、グリコ等々・・・あれもこれも、買えるぞ。わーい、やったー!!

すると母親は、

だめよ、ちゃんと交番のおまわりさんに届けなくては!!ママがちゃんと預かって届けておくから。

え?えええ???? んんんんん わかった。

と言って仕方なくわたすと、しめしめと言う顔をするのを見てしまい、ひょっとして、あやしい。後でわかったことですが、案の定使ってしまったと言っていました。けしてお金持ちではなかった我が家は、家を購入したあと、お金を持ち逃げされ、質屋がよいもしていたそうです。幼稚園と言ってもアメリカンスクール、馬鹿にならない月謝だったそうです。そうまでしていれるか、普通に考えれば、そうなのですが、無理をしても子供の教育に力をいれたいと言う思いだったのでしょう。父の都合もあり、いずれは、アメリカに帰るつもりだったのでしょう。

父は、ロサンジェルス生まれで、今の国際空港があるところで、生まれ育ちました。祖父母は、そこでお米(現在のカリフォルニア米)を作っていたアメリカ移民でした。アメリカが移民を日本、中国などの東南アジア諸国から募集した折、祖父母は、夢をかけて応募し、アメリカの地で人生を開くことを決意したそうです。船で約1ヶ月、ようやくアメリカに到着、夢で描いていた別天地とは、かなりの相違があり、苦労して、自分の畑を持つまでになったそうです。父は、4人兄弟の末っ子として生まれました。父は、日本語がほとんど喋れなかったそうです。第二次世界大戦勃発後、父は、日本人として日本に行くか
収容所に入るか、それともアメリカ人として日本と戦うかの選択を迫られ、父の兄、姉は、そのまま収容所に入ることにし、祖母と父の直ぐ上の兄と父は日本にくることにしたそうです。祖父はすでになくなっていたそうです。父が20歳の時の話です。日本に来た父は、日本語が出来ず、中学に通わされました。幸い、大人の父はいじめられなかったといっていましたが、今から思えば、かなり、ひどい扱いをされたのではないかと思います。

ただ、救いだったのは、父が、よく言えば、おおらか、悪く言えば鈍感、よく言えば大器、悪く言えば気がつかない人だったことです。父は、母には、最初何年も戦争に行っていたと言っていましたが、実は、日本で中学を終えてから戦争に行ったので、前線には参加せず、戦争に行くための訓練に参加して1週間後に終戦を迎えたようです。強運の持ち主のようです。戦後、父は、日本国籍になっていたため、日本で暮らすことを考えていました。そこで、中央大学に入学、卒業して、就職。しかしながら、その当時は、アメリカの企業が日本にかなり入ってきていたので、英語の出来る父は、引く手あまたでした。いやなことがあると直ぐにやめても、直ぐに就職が出来ると言った具合にいろんな会社からヘッドハンテイングされていたようです。 

母と結婚してようやく父は、洋酒を取り扱っている輸入業者当時勤め、長い間そこですごしました。

父は、なんだかんだ言っても生粋のアメリカ人でした。ちょっとバタ臭い感じですが、母に怒られても、何を言われても、ニコニコしながら、へらへらしながら笑っていました。
今から思えば、家族の中で父が一番強かったの化も知れません。 新し物好きな父は、クリスマス、誕生日、ハローウィンなど何かあれば、おもちゃを買ってきては、母に、

そんな高いものをなんで買ってきたの?

と怒られていました。 

父のエピソードは、ひとまずここでおしまいにします。













 


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