その日から真千子は大学へ来なくなった。 来なくなったというよりは、家族と会うために来れなかった。
私が真千子と会ったのは2週間後だった。 彼女はいつもと変わらず授業を受けに来た。 最初に私に「おはよう」と言い、何事もなかったように授業に出た。
私は気の利いた言葉が思いつかなかった。 真千子は何事もなかったはずもなく、真千子は彼女なりに周りに心配をかけたく無いといった気遣いだった。
私が真千子の右手に、そっと手を差し伸べると、彼女は照れ笑いながら、いつもの君じゃないよと言い、払いのけた。
普通に振舞う真千子だったが、今までの彼女の顔ではなかった。 私が考えすぎているからかもしれないが、何かが変わっていた。 泣きつかれたのか、それとも、他に彼女自身に何か起きているのか。
私は真千子と東京に同行した学務課の佐々木という女性職員に話を聞いた。 女性の佐々木さんは、あの佐々木さんの奥さんだ。 佐々木さんの話によると、真千子は東京に向かう新幹線の中で、涙が止止まらなかったという。 声を殺し泣いていたという。 しかし、空港に着き、無言の家族と面会した時、驚くことに一番冷静だった。
別の家族達は、それぞれの無言の家族と面会し、声にならないほどの悲しみに満ち溢れていた。 真千子は、見るに耐え難いほど、変わり果てた家族を黙って見つめていたという。
それを聞いた私の胸は、グッと重くなった。 家族と面会した時の真千子の気持ちが、全く想像つかなかったのだ。
私は佐々木さんの話を聞き終えると、真千子と会って学内を歩いた。
「大丈夫か?」
私はようやく、その言葉を発した。 彼女は軽く微笑みながら大丈夫だと答える。 その顔はいつもの真千子だった。 しかし、大丈夫だといわれると、それから先の会話が続かなくなる。
「健次郎、今日、晩御飯作ってあげるよ!」
気まずくなりかけたとき、彼女は元気な声で私を夕食に誘った。 ずっと一緒にいたが、真千子の手作りの晩御飯をご馳走になった事はなかった。
「えっ!?本当に?あ、ありがとうー」
私は初めて彼女の住むアパートに案内された。
私は急に心臓がドキドキし始め、食欲よりも、その先に起こるかもしれない不純な妄想が、期待感となり頭の中を巡り始めた。
駄目だ駄目だ、と言い聞かせながら、私は真千子のアパートへ案内された。 真千子は、手始めに肉じゃがを作ってくれるという。 私は部屋の中心にある机の前に座る。 真千子の部屋はきちんと掃除がしてある。 私の部屋とは大違いだった。
しかし、なんだかトイレの匂いがする。 トイレの匂いと言っても、排泄物の匂いではない。
私は部屋の周囲を見渡した。
「あっ!」
私が声を出すと、真千子はキッチンから駆け込んできた。
「ま、何、何々!? 何か変なのあった!?」
真千子はちょっと焦ったように、勉強机の上の写真立てを手に取って隠した。
私が「あっ」と言ったのは、部屋の片隅に置いてある芳香剤を見ての事だ。 「トイレの匂い」がしたのは、この芳香剤のせいだった。
「この芳香剤、トイレ用じゃねえの?ここに“トイレ用”って・・・」
彼女は顔を真っ赤にして「間違えたー!!」と叫んだ。 叫ぶと同時に、持っていた写真立てを落とす。
どういった経緯で、トイレの芳香剤が置いてあったのかは不明だ。 しかも、だいぶ中身が減っている。 本当にドジで間違ったのか、わざと置いたのか・・・ しかし私は、そんなドジな面がある彼女が、余計に好きだった。
私は彼女の手元から落ちた写真立てを拾って見る。
「あ!だ、駄目ぇぇ!」
駄目と言われた頃、私は写真を見た。 何も隠すほどの写真ではなかった。 私と彼女が二人で写っている写真だった。
「何も隠す事じゃないじゃん」
私は平然としていた。 彼女は写真立てを持つ私の横に座った。
「わ、私は・・・ああ〜もう・・・」
顔がもっと赤くなった真千子は、何か言いそうだったが、鍋から焦げた匂いがしてきたので、また慌ててキッチンへ戻った。
何というドジッぷりなんだろうと、感心してしまった。
真千子がキッチンで肉じゃがを作っている間、私は勝手にTVをつけた。
TVは、また日中関係のニュースがやっていた。 彼女の部屋で、このニュースを見るのは不謹慎かと思ったが、彼女は今、料理中だった。
デモは中国政府と日本政府の対応で、一時的に沈静化が図られた。
しかし、今度は中国政府は共産主義政権を維持できなくなりつつあった。 対日の不満を沈静化すれば、貧富の差が激しい中国では、貧困層が政府に対して不満をぶつけるからだ。
中国は激動の時期を迎えていた。
TVの評論家が、中国は共産主義政権を維持するために、国外に新たに敵を作るだろうと言った。
その時の私は、その評論家が何を言っているのか分からなかった。
「できたよ〜」
真千子が肉じゃがを作って持ってきた。 私はTVを消した。
「いただきます〜」
普段の私は手を合わせていただきますなど言わないのだが、この時は言った。
「どお?美味しい?」
私は真千子が作った肉じゃがの味より、彼女の手作りの夕飯を食べれた事がとても嬉しかった。 よく母親が作ってくれていたが、好きな女の子の手作りの味とは、何か相容れぬ良さがあった。 私は幸せな男だと思った。
「うん!美味い!俺は幸せだー!」
私はつい、不幸が降りかかったばかりの真千子の前で「幸せ」という言葉を使ってしまった。 私は恐る恐る、彼女を見たが、何も気にしない様子だった。
私は、やっぱり真千子のことが好きだった。 友達ではなく、もう1人の女性として愛していた、そう実感が確信になった。
夕飯を食べ終わると、急にまたドキドキし始めた。 また変なことを妄想していた。
彼女は、冷蔵庫からワインを取り出した。
「ずっと開けてなかったの、飲む機会ないし・・・」
「ってかさ、ワインって冷蔵庫に入れるモンなの?」 「あっ!?え?違う?またドジッちゃった!?」
私も実際、どうなのか分からなかった。 私はワインはあまり飲まなかったが、飲めば緊張感が解けると思った。
私達はワインを飲みながら、2人が出会った切っ掛けから思い出話を始めた。
「あの時、志津川温泉の時さ〜」 「私、健次郎を始めてみた時、オタクだと思った〜」 「真千子さん、すっげ〜暗い女の子だったよな〜外見」
私たちは大声で騒ぎ、笑い、はしゃいだ。 隣の壁からうるさいの合図、ドンドンと壁を叩く音がした。
話が盛り上がって、ワインがなくなる頃、彼女は私の腕にしがみついていた。 これは、何かいい雰囲気なのか・・・ 私は真千子を見た、彼女も私を見ていた。
「このワイン、実は連休に実家に帰ったとき、親からもらったの・・・」
一瞬、私は酔いが冷めた。
「私、どうしたらいいのか分からない・・・」
今度はお酒で顔を赤くした真千子は、目を潤わせて言った。 私は首を二回振って、首に力を入れた。
「大丈夫、俺がいる、真千子は一人じゃない俺がお前を護るっ!!」
私は、自分自身では本気で、かつ、真面目に言ったつもりだった。 しかし、彼女は、その場のムードをぶち壊すように、全く、反応がなかった。 表情さえ変わらなかった。
「・・・健次郎も、変なこと言うんだね」 「・・・へ、変なこと・・・か?」
私はとても恥ずかしかった。 酔っ払っているからとはいえ、確かに恥ずかしい台詞だった。 自分で納得すると、余計に恥ずかしくなってきた。
彼女から目をそらし、もういい、と思いかけたときだった。 真千子は、言った。
「健次郎、好き・・・」
ずっと私のことが好きだったと言った。 私はすぐに、目を戻した。
「俺も、ずっと好きだ・・・」
同じ言葉だ。 相手に好きだと言われて、そのまま同じ言葉で言い返しただけだ。
真千子は私の右袖を強く握った。 私は真千子の髪に触れた。
お互い、何も話さずに、無言のまま時は過ぎた。 何だか、とてもスッキリとした気分だった。 私はさっきまであった不純な妄想が消えていたことに気がついた。 真千子のことがとても大事に思えた瞬間、妄想が自然と消えたのだ。
不思議だと、思いつつ、真千子の顔を、前髪を掻き分けて見た。 ・・・寝ていた。
私は、ちょっと安心した。
眠る彼女をベッドに寝かし、私もワインが回ってきて眠くなった。 これから、彼女をしっかりと支え、護ってやろうと決意し、私もそのまま寝る事にした。 もちろん、床に寝る。
何か枕代わりになる物が無いか、辺りを見渡した。 さっきの写真立てが目に入った。
そして小声で「おやすみ」と言って部屋の電気を消した。
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