いわし雲が点々と浮かぶ秋の夕焼け空の下、僕はとぼとぼと歩いている。 ・・・少し立ち止まって、周りの景色を見てみる。 周りの建物は焼け落ち、田畑や野原はことごとく火の海に飲まれてしまったらしい。あたり一面に広がるのは炭やガレキばかりだ。 ・・・戦争に行く前とは大違いだ。 僕はその光景から目を逸らし、下唇を強く噛む。手も通さずに肩にだらりと掛けたコートが、夏よりも大分涼しい風に吹かれてばたばたとはためく。 コートを風に持っていかれないようにしっかりと押さえながら、僕は再び歩き出した。 はっきりとした目的地はある。それは確かだ。確かなんだけど・・・。 僕はゆっくりと、自分の進むべき道を一回一回確認するかのように歩く。 本当にこの道でいいのか? この道を進んでしまっていいのだろうか? そう。僕は迷っているのだ。 このままあの場所へ行って、そこで死ぬべきかどうかを。自害すべきかどうかを。 あの出来事が起こってからというもの、僕は戦争中に何度死のうとしたかわからない。 敵陣に一人で突っ込んで行ったりもした。地雷原を何の対策も打たずに普通に走って行ったりもした。何の武器も持たずに敵の戦車に突っ込んでいったりもした。 でも・・・・・・死ななかった。死ねなかった。 ただ一つ、右腕を根元から失ってしまっただけだった。 ・・・右腕、か。そういえば彼女が失ったのも、右腕だったなぁ。 僕は空を見上げて、自嘲気味に鼻で笑った。失った部位が同じということが、何故か僕に少しの安堵感を与えてくれる。 でも、彼女はもういない。あの場所に戻ったっていやしない。いやしないんだ。 ・・・僕は見上げていた顔を戻し、再び前を向いた。 そう。わかってる。 彼女が失ったのは右腕だけじゃない。彼女は命までも失ってしまったんだ。 脳裏に浮かぶ彼女の笑い声、笑顔、そして・・・あの写真。 ・・・・・・僕は再び歩き出す。あの場所へと行くために。 僕は右腕を失った。彼女と同じように。 だから今度は命も失ってやるんだ。彼女と同じように。彼女と同じ場所で。 そうすれば・・・そうすればまた彼女に会えるかもしれない。「おかえり」って言ってくれるかもしれない。 一縷の希望を胸に、僕は前を向いて、できる限りきびきびと歩くようにした。
・・・ようやくたどり着いた。何だかずっと歩いていたような気がする。 僕は左手を額にかざして、全てを見渡そうとした。 しかしどれだけ遠くを見渡しても、そこに広がるのはやはり一面の焼け野原だった。 僕は軽くため息をつきながら、焼け野原の中へと歩いていく。 乾いた土の上に、焼け焦げたひまわりがまるで人の死体のようにごろごろと転がっている。 そう。ここはあのひまわり畑。 僕の大切な、大切な一本のひまわりが死んでしまった場所。 幾千もの死体の中で腰を下ろし、僕はコートの左ポケットからタバコを取り出して口にくわえる。これが死ぬ前の一服、といったところだろうか。 元々タバコを吸っていたわけではなかったのだけど、戦争中にあまりにも破滅的な僕の行動を見かねて、仲間たちが勧めてくれたのだ。これさえ吸っていれば気がまぎれて、ひとまず兵舎内で死ぬようなことはしないだろうと思っていたのだろう。 確かに吸っていると、少しは気が楽にはなる。余計なことを考えなくて済むようにはなる。 彼女を失った痛みを消してくれることはなかったけれど。 火をつけようと右ポケットからライターを取り出そうとしたとき、僕は自分が無意識的に右腕を動かそうとしていたのに気づいた。そして軽くかぶりを振る。 まだ右腕がない状況に慣れていない。そう言ってしまえばそれだけなんだろう。 でも僕にとってはそうではない。 彼女が失った部位と同じ部位である右腕を失った。そのことを少しでも忘れてしまうことは、僕が彼女を忘れてしまったことと同じなのだ。彼女が記憶から消えてしまったことと同じなのだ。 自分のしてしまったことに嫌気が差し、ため息をつきながらも、僕はタバコに火をつける。大きく息を吸い込み、煙を肺へと送り込む。肺の中が有害な煙で満たされる。 そして僕は勢いよく、煙を口から吐き出した。煙が風に流され、一瞬で見えなくなる。 僕はタバコを口にくわえて、足を伸ばして地面に寝転がった。 冷えて乾いた土の感触が、服越しに伝わってくる。 空を見上げると、先ほどまで橙色をしていた空に薄黒い絵の具がかかり始めている。じきに夜になるのだろう。 ・・・僕は今までこのひまわり畑で彼女と過ごした日々のことを思い出していた。 そのひまわりの中でくるくると踊る彼女。 僕が戦争に行くと言ったとき、涙で顔をくしゃくしゃにしてしまった彼女。 僕の胸の中で泣きじゃくり、決して忘れることのない痛みを僕の胸に刻みつけた彼女。 ずっと待っていると、力強い声で約束してくれた彼女。 いつも夢の中で「おかえりなさい」と言ってくれた彼女。 そして・・・ここの無数のひまわりたちと同じように、戦火に焼かれてしまった彼女。 ・・・僕は再び大きく息を吸い込む。タバコの先からどんどん灰が落ちて、肺に煙が集まってゆく。 どうして・・・彼女だけは特別なひまわりでいてはくれなかったのだろうか? 戦火にも負けない、強いひまわりでいてはくれなかったのだろうか? 口からだらしなく煙を吐く。煙は大気と混ざり合うようにゆっくりと消えていった。 結局は彼女も・・・他のひまわりたちと同じであったということ、か。 もうすっかり短くなってしまったタバコを地面でぐりぐりともみ消して、僕はすっと立ち上がる。 もう、いい。余計なことは考えるな。 お前がここで死ねば、お前は彼女に会いに行ける。・・・そうだろう? 僕は自分にそう言い聞かせ、目をつむって深呼吸をする。 秋の乾燥した心地よい風が体全体を通り抜け、体が中から洗われるような気がする。 悪いものを全て出し切るように、限界まで息を吐いた後、僕はゆっくりと目を開けた。 そして自分でも驚くくらいの穏やかな動作で、腰のナイフに手を当てる。 ・・・彼女に向こうで出会ったら、まず何て言えばいいのだろう? やっと帰ってくることができたことに対する「ただいま」? 約束を守っててくれたことに対しての「ありがとう」? それとも、死なせてしまったことに対する「ごめんなさい」? ちょっとの間考えてみたが、どれも何だかしっくりこない感じがする。どれも何かが、何かが足りない。 今の僕のこの思いを、全て伝えるには。 僕は少しうつむいた。しかしすぐに顔を上げ、ナイフを抜く。 まあ向こうに行って、出会ったら考えればいいや。 微笑さえも浮かべながら、緩やかな動作で、僕はナイフの刃を首に軽く当てた。 今から、会いに行くよ。 そう心でつぶやき、ナイフを持つ手に力を入れた瞬間、
「隊長殿! ようやくお戻りになられましたか!」
背中から声が聞こえた。それも、よく耳に慣れた、聞き覚えのある声が・・・。 まさか・・・いや、そんなはずはないだろう? よく考えてみろ。 何度だって確認したはずだ。あれは、あの写真の腕は彼女のものだった。間違いない。 あれだけ酷かったんだ。彼女は死んでしまった。生きているはずがない。 これは・・・これは幻覚だ。まだ心のどこかで、僕は死にたくないと思ってしまっているんだ。 これから死のうとする直前でさえも・・・。 「・・・おい。いい加減にしてくれよ。」 僕は口調を荒げる。幻覚を、払いのけるために。 「これ以上、僕を惑わすのはやめてくれ!」 僕は勢いよく振り返り、前を見据える。 そして・・・馬鹿みたいに目を丸くした。 僕の視線の先に立っていたのは・・・一本のひまわり。 すらっとした体型で、茶色の長い髪の毛をしていて、赤く長いスカートをはいていて、そして、そして・・・右の枝がかけてしまっているひまわり。 そのひまわりが、呆気に取られている僕をよそに、にっこりと、それこそ不気味なくらいに微笑みながら、こっちに向かって歩いてくる。 右の枝が欠けていてバランスが取りづらいせいか、歩き方が少しふらついている。 「ようやくかえってきたわね。ホント散々待たせてもらった・・・」 彼女の言葉と足が同時に止まる。何故か瞳を大きくして、僕の顔を凝視している。 瞬間、僕は気づいた。 自分がまだ首にナイフを突き立てたままであることに。 「あ、いや、これは・・・」 僕は慌てて首からナイフを話す。しかしそんな僕の様子にも腹を立てたのか、彼女はキッと目を吊り上げ、歩調を強めて、再び僕のほうへと歩いてくる。彼女が迫ってくる。 後ずさりする間もなく、彼女は僕と目と鼻の先まで近付き、歯を食いしばりながら僕を睨み付けた。そして・・・・・・ パァン!!!!! 乾いた、はじけたような音が、ひまわり畑に響き渡った。 僕の左手からナイフがこぼれ落ち、からからに乾いた土に深く突き刺さった。 彼女は・・・平手で、渾身の力を込めて、思いっきり、僕の頬をひっぱたいたのだ。 僕の右頬夕焼けと同じ色に染まり、じわじわとした鈍い痛みが湧き上がってくる。 心の底まで届くような、響くような、そんな痛み。 「・・・馬鹿。」 うつむきながら唇を噛みしめて、彼女はつぶやくように、それでありながらもはっきりと僕に語りかける。 彼女の目から、一筋の雫が流れ出し、頬を伝う。 それを皮切りに、まるで大きなダムが決壊したかのように、彼女の目から涙がとめどなく溢れ出てきた。まるで、滝のようだ。 「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」 彼女は涙を溜めた瞳で僕を真正面に見据えて、あらん限りの力で僕を罵る。 彼女が馬鹿と一回叫ぶたびに、反動で涙がしぶきとなって中に飛び、そして僕へと届く。 「私はずっと待ってるって言ったじゃない! 約束したじゃない! そうでしょう!? どうして信じてくれないのよ! あんただって約束したじゃない! 絶対、絶対帰ってくるって! なのにどうして今死のうとしてたのよ! どうしてよ!」 彼女の思いの一つ一つが、僕の心に深く、とても深く突き刺さる。それこそナイフで首を切られるよりも、よっぽど痛い。 その痛みは僕の目の奥に響き、僕の目からは涙が溢れ出てくる。 僕は涙でぼやけた目で、彼女の泣き顔をじっと見つめた。 よく見てみると、彼女の顔の右半分、いや、身体の右半身の皮膚が、赤紫色に酷くただれている。 ・・・火傷の跡だ。右腕を失ったときに、一緒に焼かれてしまったんだ。 彼女は・・・こんな体になってしまってもずっと僕のことを待っていてくれたのだ。 僕が帰ってくることをただただ信じて、待っていてくれたのだ。 それなのに、僕は・・・僕は・・・。 僕の目の涙がまたさらに勢いを増した。涙なんて・・・もうあの時に一生分出し尽くしたものだと思っていたのに。 「聞いてるの!? 何とか言いなさいよ! 私がどれだけあんたのことを心配してたと思って・・・」 彼女の言葉を強引にさえぎって、僕は彼女を優しく、しかし力強く抱いた。 これでもかというくらい、もう一生離さないというくらい、抱きしめた。 今まで思いのたけを一気にまくし立てていた彼女は、一瞬驚いたが、急にしおらしくなり、僕の胸の中におもむろに顔をうずめる。 一瞬とも、一時間とも、一年間とも言えるような静寂が流れた。 僕たちはお互いの体温を感じあい、二人とも生きているということを何度も確かめ合った。 やがて彼女は僕の胸から顔をゆっくりと離し、僕の顔をじっと見つめた。涙は僕の服に全て出し尽くしたのか、もう乾ききっている。 僕も彼女の顔をじっと見つめた。僕の涙は彼女とは違い、相変わらず流れっぱなしだったが。 お互いに、相手の顔を隅々まで観察するように顔を近付け、そして・・・
僕らは、互いの唇を重ね合わせた。
あの日のように、心臓がトクンと音を立てる。心地よい鼓動が、何度も胸を打つ。 時間にしたらものの数秒程度だったのだろう。しかし僕らにとっては、その時間は永遠にも等しい時間のように思えた。 やがて名残惜しむようにお互いにゆっくりと唇を離し、僕らは再び見つめ合った。 「・・・ただいま。」 先に言葉を発したのは、僕だった。 「おかえり!」 彼女はそれに、元気に答えてくれる。あの日のままだ。 彼女は、何一つ変わってはいなかった。彼女は僕のひまわりのままでいてくれたのだ。 右の枝を失い、花びらが焦げてしまっても、彼女は明るいひまわりのままだ。 「ありがとう。」 「うん!」 「ごめんね。」 「うん!」 何度も何度も、僕は「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返す。 そのたびに彼女は、あのひまわりの笑顔で答えてくれた。 あのぱっと咲いたひまわりのような笑顔で。 これからは、いやこれからも、この一本のひまわりと一緒に生きていきたい。 僕はそう思った。 この笑顔を、絶対に枯らしてなるものか。 絶対に失ってたまるものか。 「ありがとう」と「ごめんね」の繰り返しの中で、僕は、強く誓った。
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