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作品名:敦(とん) 作者:ro

第1回   タコの刺青とブイヨン
【01】タコの刺青とブイヨン 

 連絡は4日ぶりだった。

 ベッドの上、ブランケットを膝にかけコンクリートの壁に背中を預けていたタケルは、抑揚のない着信音を聞いて自動的に手を動かした。伸ばした手の先にはベッドと一体になったステンレス製の細長いラックがあり、室内のほとんどのシステムを自動制御している小型のラップトップパソコンが置いてある。10インチ程の小さな液晶モニターに「calling」の文字が点滅している。タケルはパソコンのキーを押し、イバチからの電話に応えた。三十分後だ、とイバチは言った。食道の壁にドロドロした痰が無数に張り付いているようなその声に混じって、僅かに車のエンジン音が聞こえる。スピーカーを通して聞くそのズズズズというノイズは、小さな虫の群れが飛び立つ羽音のようだ。三十分後、というイバチの言葉を受けて、タケルは正面の壁にある時計に目を遣った。それは体育館とか会議室とか倉庫とかそういう所で見かけそうな異様に大きなアナログ時計で、タケルが今の仕事に就いてこの部屋をあてがわれた時から同じ場所にかかっていた。時計には秒針がなく長針は突然動く。短い痙攣のようなその動きを見る度にタケルは不安になる。バネが強すぎるのか、移動して数秒間は細かく震え続けるその長針を見ていると、まるでその鋭利な針にさっきまでの自分が細かく刻まれて消えていくような焦りを覚える。肉体のどこかに隠れている空洞が、自分の知らないうちに大きくなっていくような、そんな疎外感に似た焦りだ。聞いているのか、というイバチの声が聞こえて、タケルは我に返った。時間を頭に入れ、今長針が動かないことを祈りつつ、分かりました、と応えた。
 自動制御されているエアコンで部屋は快適な温度を保っているが、イバチからの電話を終えてからタケルは皮膚の温度が上昇し始めた気がした。暑さを感じるわけではない。逆だ。自分の内側に隠れていた小さな熱の塊が血管を伝って皮膚に達し、自分の外側で産声を上げ、そしてその熱は既にタケルのものではない。一つの熱を失った体はむしろ、それまでよりも冷たさを意識させ、自分の中に存在していた人間らしさがまた一つ失われた気分にさせるのだった。当然なのかもしれない、とタケルは思った。これから4日ぶりの仕事なのだ。普通の人間にとって、僕の仕事は、一般的ではない。イバチから連絡が来るたびに、僕の中の人間性は少しずつ失われていくのかもしれない。
 タケルは下半身を覆っているブランケットを勢いよく剥ぎ取った。ほとんど毛の生えていない白い足とピンク色の性器が露になり、肋骨の浮き出た細い体が目に入った。外出を禁止されているわけではないのにこの部屋に閉じこもり、イバチとその付き添いでやって来る警備班の人間以外にはほとんど人にも会わず、ここ数年まともに日の光を浴びた事のない自分には似つかわしい体。また一つ有機体としての要素を失って、その体温を下げた可哀相な体。
 部屋には一つも窓はなく、暗い。しかしほとんど白に近い灰色をしたコンクリートの壁がボンヤリと発光しているように見えるせいで妙な覚醒感がある。意識がはっきりすればするほどタケルは自分の存在に客観的になる。自分の姿をどこか別の場所から見下ろしているような感じ、という意味ではない。自分の意識はこのタケルという容器の中に収められた無数の要素の中の、たった一つに過ぎないのだという事実を実感するのだ。タケルは半ば懇願するような気持ちで腕に力をいれ、どうにか動いたその手で白い腿を数回撫でてから、キーボードに手を伸ばしてクラッシックの曲を再生した。ピアノの音が静かに流れ始める。そのまま別のソフトを立ち上げ、室内の照明をビルの外側とリンクさせた。コマンドを入力してエンターキーを押すと、ゆっくりと部屋の中が明るくなる。午後2時15分、この分厚いコンクリートの外は快晴らしい。太陽光が全く入らないこの部屋にやって来たのはいつの事だっただろうか、とタケルはボンヤリと思った。イバチに連れられてはじめてここに入ったとき、その広さに似合わない圧倒的な閉塞間に怯えたものだ。あの時、とタケルは思った。あの時、僕ら以外にも誰かがいた。薄緑色の作業着を来たサービスマン。そう、この照明システムを設置しにきた、顔色の悪い、天然パーマの男の人。
「基本的に、この照明は現実の天候が自動的に反映されます。日が昇れば明るくなり、沈めば暗くなる。曇りの日には薄暗くなるし、雨の日はもっと暗く、晴れた日の夕暮れにはオレンジ色の光を作ります。そうする事で、人間の自然なサイクルを、つまり、朝起きて夜寝るって事ですが、その健康的なサイクルをできるだけ維持してくれるしくみになっているわけです。もちろん、夜になったらあらためて明かりをつけてください。面倒臭いなんて言ってはいけませんよ、操作はワンタッチですみますし、それに、そういう意識を持つ事が人間的なサイクルを保つためには重要なんです。もっとも、その気になれば光量はいつでも自由に調整できますがね」
 そう言いながらサービスマンは、キーボードを操作して部屋の明るさをクルクルと変化させてみせた。
「さらに、このシステムのおもしろいところはですね、なんと様々な天候の音までを再生できる事なんです。当社のホームページにある専用サウンドチャンネルにアクセスしていただければ、リアルタイムの音声が、つまり、雨の日には雨の音が、雷の日には雷の音が、雪の日には雪がハラハラと降りてくるあの独特な音がこのスピーカーからストリーミングで再生されるというわけです。どうです、すごいでしょう」
 サービスマンは慣れた口調でよどみなく話したが、タケルはほとんどその説明を聞いていなかった。前の日まで暮らしていた警備班の寮にはパソコンどころか電話もなく、その日から暮らす事になるハイテクノロジーで装備されたこの部屋との圧倒的な違いにただ呆然とし、そして、時々忘れたように針を振動させる大きな壁掛け時計に無意味に怯えた。
「このシステムをセントレに搬入したのは何度目だ?」
 タケルの隣で説明を聞いていたイバチは、作業員がキーを叩くたびに変化する照明を見上げながら言った。それまで決して笑顔を崩さなかったサービスマンは、唐突に投げかけられたその言葉に顔を強張らせた。
「初めてか?」
「…」
「というより、上層に来るのが初めてなんだろう」
 サービスマンは複雑な表情でイバチを見上げ、そしてやっと曖昧な愛想笑いを浮かべながら頷いた。
「そうだろうな。このシステムは本来上層には不要なものだ。このビル内のほとんどの部屋には本物の窓があるんだ、わざわざこんなものつけなくたって光は差し込んでくる。これは下層の住人のために開発された人工の太陽なのだ。真上にこの巨大なビルが建設されたせいで、下層には太陽の光がほとんど届かなくなってしまったからな」
作業員は苦しそうな表情のままパソコンのディスプレイに向き直り、イバチの話を背中で聞いている。タケルは壁掛け時計から視線を外し、天井の照明システムを見上げた。
「この新しいビルに移り住む権利を金で買い取った金持ち達は、謝罪とある種の皮肉を込めてこのシステムを開発し、それを無料で下層にばら撒く事で彼らの口を縫いつけたんだ。もっとも、階層全体を照らす巨大な照明スクリーンが登場した5年前以来、この個人用商品は下層での需要も少しずつなくなって、まさに絶滅への道を辿っているがね」
 タケルが生まれる数十年前に誕生した敦(とん)という名のビル郡は、郊外に打ち捨てられた20数棟の団地から始まった。大規模な改装工事を経て生まれ変わったその団地には様々な企業が進出し、やがて建物と建物の隙間を埋めるように無数のビルが建てられ始め、いつしか敦は巨大な一つの建物のようになった。そして今から20年前の夏、タケルがまだ6歳の時だが、その巨大な怪物ビルを覆うかのように人工の地面が建設された。その上には豪華の髄を極めた巨大なビルが建てられ、敦の内外から多くの金持ちが移住したり店を出したりオフィスを構えたりするようになった。イバチが「上層」とか「このビル」と言ったのはその建物の事で、名前をセントレ、と言う。そして「下層」とは、文字通りセントレの下に存在する事になった元々の敦の事で、最近では「U」とか「アンダー」と呼ばれることもある。
 寂しそうに部屋から出て行くサービスマンの背中を見たのはいつの事だろう、とタケルはまた思った。多分2年くらいは経っているだろう。照明システムを完璧に使いこなせるようにはなったが、あの日から今日までの間にあった出来事をタケルはほとんど思い出す事ができない。どうして自分がこの部屋にいるのかすら分からないような気がしてくる。ただイバチからの連絡を待つだけの生活。変化のない生活。どうでもいい事だ、とタケルは思った。明るくなった部屋の中でタケルは裸のままベッドから下りた。そのままバスルームに向い、何も考えないようにしながら淡々とシャワーを浴びた。バスタオルを被ったままリビングに戻り、ベッドの前を通り過ぎる。タケルは壁際まで進み、床に置かれている大きな工具箱の前に立つ。タケルは僅かに錆び始めたその緑色の工具箱の取っ手を掴み、床を引きずるようにして部屋の中央まで移動させた。蓋を開ける。血液に似た鉄の匂いが鼻を突く。
 工具箱の中からは、大小さまざまな道具が登場した。刃渡り10センチ程の小さなナイフが2本、細長いノコギリが1本、医療用のニッパーと大振りなハサミが1つずつ、金属製のハンマーが1本、爪切りが1つ。タケルはそれらを部屋の中心に寂しく置かれているローテーブルの上に並べていった。刃物とガラスの天板が触れ合う金属的な音が、細胞の隙間に心地よく響いて、そしてやがて体全体に浸透する。照明を反射して鈍く輝いているそれらの道具をしっかりと確認し、いくつものホルダーがぶらさがった専用の革ベルトに一つずつ収納していく。とても安心する、とタケルは思った。全て道具を収納し終わった重そうな革ベルトはとても強そうに見えた。タケルは革ベルトから視線を外さないまま、クローゼットの中から下着を取り出し、身につけた。そして白いシャツをはおり、黒いストレッチパンツを履いた。穏やかに溜息を吐いた。
 タケルは一度ベッドに腰掛け、U4、つまりセントレから数えて4番目の階層に住む両親の顔を頭に描こうと目を閉じた。警備班に入る前まで、自分を育ててくれた両親。たった数年前の話なのに、もう何十年も会っていない気がする。事実、タケルはいつからか彼等の顔を思い出せなくなってしまったのだった。だから時々挑戦してみる。
 瞼の裏側、暗闇の中にネバネバしたアメーバのような物体が二つ、グルグルと回転しながら人間の頭部を形作り始めた。一般的な骨格ができあがり、続いて、一般的な目と鼻と口ができあがった。その顔には何の見覚えもなかった。どこにでもいそうで、一度も見たことのない顔。両親の顔を思い出すことを何かが拒否しているのだ、とタケルは思った。そう思うと、男女の顔がゆっくりと崩れていった。僕にははじめから両親などいなかったのかもしれないという気がしてくる。いつのまにか瞼の裏側にはこげ茶色の斑点だけが残っていて、プラネタリウムで見る星のようにキラキラと輝いていた。そしてその星は徐々に暗くなっていつのまにか消える。タケルは少し息苦しくなり、目を開けて部屋を見回した。窓は一つも無かった。ここは外部から完全に遮断された部屋だ。それを思い出すと呼吸が荒くなった気がした。この分厚いコンクリートを爆弾か何かで破壊したいと思った。そうすれば、地上数百メートルに位置するこの部屋には、冬の日光が無数の針のように差し込んでくるだろう。
 タケルは両親の顔を思い出すことを諦めて、大きな壁掛け時計を見つめた。イバチが到着するまであと5分というところだろう。針が動くのを見たくないのでタケルはパソコンに向き直り、音楽のボリュームを上げた。天井の4隅それぞれからぶら下がっているスピーカーから個体的なピアノがボコボコと吐き出される。自分の体を薄く覆っている汗がピアノの音に張り付いて、シャワーでほてった皮膚の温度を瞬間的に下げた気がする。立ち上がり、広い部屋の中を歩きまわりながらその感覚を楽しんだ。
 パソコンに繋がれた小さなスピーカーから再び着信音が聞こえた。タケルはテーブルの上のベルトを掴んで腰に巻きつけながらベッド脇に戻り、点滅しているキーを押した。あと2分で着く、準備はできているだろうな。苛立った声が通信専用のモニタースピーカーから聞こえる。警備班のトップであるイバチ班長の声は相変わらず喘息の老人のように濁っていたが、もうエンジン音は聞こえない。既に車から降り、セントレ内を移動するエレベーターに乗ったのだろう。タケルはラップトップに接続されていた携帯電話のケーブルを引き抜き、無線通話に切り替えた。肩と顔で携帯電話をはさみながらソールの裏に滑り止めが付いたラバーシューズを履き、ベッドからちょうど正面、壁掛け時計の下のドアに向かって早足で歩いた。大丈夫です、すぐに始められます。鍵を外して扉を開けた。

 「処置室」の床は薄い緑色のリノリウム張りで、警備班の新人が毎週交代でワックスをかけていくせいで、照明を不自然に反射して発光しているように見える。壁はさっきまでいたプライベートルームと同じコンクリート素材だが所々に黒いシミが浮いている。人間の体液が飛び散ってできたシミだ。タケルはゴム製の白い前掛けと、手術用の手袋を着け、道具がちょうど腰の部分にくるようにベルトを回転させた。そして、黒いゴムで肩まで伸びている長い前髪をまとめた時、正面の扉が開いてイバチが姿を現した。深緑色のウールで編まれた軍服を着たイバチの胸にはいくつもの勲章がぶらさがっていて、イバチが動くとカチャカチャと耳障りな音を立てる。詰襟を縁取っている赤い刺繍は、丸太のように太いイバチの首にめりこんでいるせいで僅かに歪んで見える。イバチは不機嫌そうな目でタケルを一瞥し、そしてゆっくりと後ろを振り返った。その視線の先には紺色の制服を着た警備班の人間が二人。彼らは担架を滑らせながらイバチの横を素早く通り過ぎ処置室に入ってきた。担架の上にはボディバッグが乗せられていて、まだ十代に見える2人の若い警備員は処置室の中央に設置されたステンレス製の寝台にそのバッグを移した。二人の警備員はタケルと視線を合わせないようにしながら素早く担架を折りたたみ、イバチの横を再び通り抜けてエレベーターの前に戻った。それらの動作に20秒もかかっていない。いつもながらの迅速さだ。タケルが感心しながら見ていると、すぐに1人がエレベーターの扉脇にあるパネルを操作し始める。2人はタケルに背を見せる形で立っている。イバチは神経質そうな視線をグルグルと回しながら部屋を観察しているが、既にエレベーターの到着を待ってイライラしている。壁に埋め込まれたエレベーター用のモニターの中に水色のウインドウがいくつか現れ、メモを片手に慎重にキーを打つ若い警備員の顔に青い光を映している。
 セントレのメインエントランスにある巨大なエレベーターホールからこの部屋に到着するまでの10数分間、窓のないエレベーターという「個室」がどういう経路で移動してきたのか、初めてセントレを訪れる人間がイメージするのは難しい。セントレの内部にはまるで網の目のようにエレベーター専用の通路が張り巡らされていて、それはビル内の至る所に繋がっている。その道の中を縦にも横にも前にも後ろにも移動可能なこのエレベーターは、ショッピングモールやホテル、高級レストランやバー、カジノ、風俗店、そしてこの部屋のような「秘密の場所」にも通じている。セントレにおけるエレベーターとは、簡単に言えば一つ一つが独立した地下鉄のようなものだ。イバチのように個人で一つのエレベーターを所有している場合などは、自家用車と全く同じだ。もっとも、全ての人間が全ての場所に、自由に運んでもらえるわけではない。この部屋のようにセキュリティのかけられた場所まで移動するには専用のIDとパスワードを入力する必要がある。この部屋のパスを持っているのはタケルとイバチ、そしてどこかの偉い人数人くらいだろう。あの若い警備員は、重要な秘密であるはずのそのパスワードを、緊張しながら入力しているのだ。
 初めて見る顔だな、パネルの操作に手間取っている警備員を見ながらタケルは思った。若い彼らはきっと今年の訓練生だ。懐かしいな、とタケルは思った。僕が初めてこの処置室にやってきた時もあんなふうに緊張した顔をしていたんだろうか。様々な機材が並ぶ手術室のようなこの部屋を見て、魚屋が着けるようなゴム製の前掛けや、腰のベルトからぶらさがったたくさんの刃物を見て、自分達が運んでいるのが死体だとなんとなくは分かっているだろう彼らは、この状況を、そしてこの自分の事をどう認識しているのだろう。警備員達の後姿に視線を遣りながら、タケルは強力な消臭スプレーを部屋に振りまいた。突然背後から聞こえたブシュウという大きな音に驚いて2人の訓練生はビクンと震えた。やがて音がやむと、2人は恐る恐る振り返った。タケルはその怯えきった表情を見て、少しだけ考え、そしてできる限りの笑顔を作った。二人の警備員はタケルの笑顔を見て一層恐怖に襲われた顔になり、やがて、無表情になった。諦めに支配された醜い顔だ。タケルは自分の笑みが顔からはがれていくような居心地の悪さを感じたが、よくよく考えてみれば他人から自分に投げかけられる視線はいつもこのようなものだった。
 警備班の訓練生として寮に入って半年ほど経った頃、何の前触れもなしに人間を解体する訓練を受けさせられた事があった。組織同士の抗争で殺された中国人マフィアの死体が偶然手に入ったのだと当時教官であったイバチは自慢げに話していた。およそ30人いたその年の訓練生達はまだ乾いていない血液が首筋に流れている死体を間近に見て、その半分以上が部屋から飛び出していった。教官達によって無理矢理部屋に連れ戻された訓練生達の見つめる中、タケルは教官のアドバイスに従い死体にメスをいれ、顔の皮を剥ぎ、電動ノコギリで四肢を切断し肉と骨の間に器具を差し込んで引き剥がした。それを黙ったまま見ていた訓練生達の感情が、おぞましい行為を淡々とこなしているタケルにある印象を貼り付けてしまったのかもしれない。あれ以来、他人から普通の視線を投げられた事はなかった。恐れか、不快感か、興味か、いずれにしても自分を見つめる人間の目には何かの感情が込められている。しかしその事に対してタケル自身がネガティブになる事はない。誰が何を考えていようが、タケルには他人と感情を共有する意志がはじめから存在していないからだ。
「いつも通りだ、一ミリも残すな」
 濁ったイバチの声が聞こえて、タケルは警備員達から視線を外さずに笑顔を消した。ゆっくりと手を伸ばし、腰の高さに横たわっているボディバッグのジッパーを慎重に下げていった。分かっています、バッグの間から僅かに漂ってくる腐臭を嗅ぎながらタケルは答えた。エレベーターが到着した機械音がして、イバチは若い2人とともにそれに乗り込み、やがて銀色の扉は小さな空気音だけを残して閉まった。
 
 タケルは敦で起こった事件や事故の中でも、何らかの理由で公にできない理由のある死体を、この世から消し去る仕事をしている。そういう処置についての知識が秀でていたというわけではなく、タイヤに轢かれて血だらけの顔とか、肉がえぐれて骨の見えるボロボロの腕とか、刃物で切り裂かれた妊婦の腹の中の胎児とか、眼球が飛び出て黄緑色の体液が鼻や口からだらしなく垂れている少年の顔とか、そういうものを見ても全く動揺しない人間が警備班訓練生の中でタケルしかいなかったのだ。警備班としての通常業務を2年間勤めた後、タケルは同期の中で一人だけこの情報部特別処理班に配属になった。この仕事の先任は80歳を過ぎた老人で背が低く頬にカビのような緑色のシミがいくつもあった。彼の他にスタッフは一人もおらず、先任が引退するまでの2年間、タケルはその老人と文字通り二人きりで、訳ありの死体を数え切れないほど解体した。タケルは先任の技術を一通りマスターし、今から4年前、22歳の時に誰もが羨むような今のプライベートルームが与えられ、同期の2倍の給料を手にするようになった。
 タケルは自分を特別だとは思わなかった。死体の処理など誰にでもできると思っていた。想像力をコントロールし冷静な判断さえできれば豚や牛や魚をさばくのと何の変わりもない。人間の想像力が「人間を解体する」という事自体に特別な意味を貼り付けているだけだ。もともと想像力の乏しい自分はそれをコントロールする必要すらあまりない。僕には適当な仕事だ、とタケルは思った。そもそもそれほど重要な仕事でもない。なぜなら、死体がこの部屋に運ばれてきた時点で、既にイバチを始めとした権力者達の手によって問題の9割が片付いているからだ。自分は誰も近づけないこの秘密の部屋でゆっくりと死体を解体するだけでいい。下層の中でも下のほうにかたまって住んでいるらしい食肉業者とやっていることは同じだというのに、扱うものが人間だというだけで、住むところも給料も桁違いだ。
 タケルはジッパーを下げ終わり、慣れた手つきでボディバッグを取り除いた。特殊なビニール製のその袋はもう何度も繰り返し使われているもので、毎回徹底的に洗浄されるが所々に濃い紫色の斑点模様が残っていた。付着した体液のシミはタケルに分からないようなゆっくりとしたスピードで増殖を続けているのかもしれない。こぶし大ほどのひときわ大きなシミにタケルは少しだけ触れ、すぐに離し、ボディバッグを畳んで数メートル後ろにある仮洗浄用の洗濯機に投げ入れた。医療用のゴム手袋には既に死体から流れた体液が付着して指の間で糸を引いている。タケルは視線を落として寝台の上の死体を見た。体中に刺青を施された小柄な男で肌は浅黒く、彫りの深い顔はどう見ても日本人ではない。腹部に大きな刃物傷があるがそれらは既に完治していて、口から体液をこぼれさせている以外に目立った外傷もない。男が死んだ直接的な原因がタケルには分からなかった。別にどうでもいい事だとタケルは思った。医師でもあった先任は様々な医療知識をタケルに教えようとしたが、タケルはそういう事に関しては完全に無関心だった。そんな事はどうでもいい事だとタケルは思っていた。自分はこの死体を消すためだけに存在する人間だ。この人がどんな人間でどんな理由でどんなやり方で殺されたのか、そんな事は僕が知るべき事じゃないし、知りたいとも思わない。僕がすべきなのは、この死体をミンチにする事だけだ。
 死体の腹に彫られた巨大なタコの刺青が盛り上がった傷跡のせいで不自然に歪んでいる。海底で目を光らせて帆船を襲う化け物ダコは、男の皮膚の上で苦しそうにもがいているように見える。タケルは指先で絵柄をなぞり、そして天井のスピーカーを見上げた。ベッドやキッチンのある自室とこの処置室は一枚の扉で仕切られている。自室とリンクしているスピーカーからは何重にも重なった重いカーテンのようなクラッシックが流れている。タケルは幾つものホルダーがぶら下がったベルトからピカピカに研がれたナイフを引き抜き、死体の首筋にゆっくりと差し込んだ。
 1時間程かけて丁寧に細かくされた手足や胴体を、水を張ったいくつかの圧力鍋に入れ火をつけたタケルは、大きな音を立てて回るミキサーに目をやった。水洗トイレを改造して作られた巨大な排水溝の傍に置いてあるそのミキサーは、異様に大きくてくすんだ銀色をしている。まるで大昔の宇宙船みたいだな、と鍋の蓋を閉じながらタケルは思った。セットされた半透明のガラス瓶の中で、さっきまで男の腹の中にあった様々な臓器がピンク色とオレンジ色のグラデーションを作りながら回転している。タケルは男の血液やその他いろいろな体液でドロドロになっている床の上を進み、部屋の隅にあるスピーカーの下まで進んだ。ミキサーが内臓を砕いてジュースにするガリガリという不快な音にかき消されて、ピアノの音はほとんど聞こえない。タケルはしばらく天井からぶら下がっているスピーカーを見上げたまま止まった。じっと見つめていればスピーカーから粒々した音の塊が飛び出してくる気がした。こういう場面をずっと昔にも経験したような気がした。不快な音に包まれながら、ピアノのように心地よい何かを待っていた記憶。それがいつの事だったのか、どんな場面だったのかタケルは思い出すことができない。瞬きをしないでスピーカーを見上げていると目に映る物体の輪郭がジワジワ動き始めた。光の細胞が水の上を滑っているようだとタケルは思った。
 やがてそれまでよりもひときわ大きな音を立ててミキサーが止まった。ピアノの曲は既に終わっていて、非常にゆっくりとしたストリングスの曲が始まっている。タケルはミキサーの下部にある大きなコックをひねった。流れ出るドロドロになった男の臓器をそれまで使っていたものの5分の1サイズ程の小ぶりなミキサーに移し、さらに細かく砕いた。完全な液体になるとそれをすぐ脇にある排水溝に流す。その作業を何度も繰り返しながら、さっき頭に浮かびかけた昔の記憶の事を想った。記憶、記憶。タケルには12歳以前の記憶がない。先ほどその顔を思い出せなかった父と母に会ったあの日より前、自分が存在していた事を証明する記憶は一つもない。僕は生まれたときから12歳だったに違いない、だってそれより前に自分がどういうものを見てどういうものを食べどういう話をしてどういう音を聞きどういうものを望んでいたのかが、全く、これっぽっちも分からないのだから。さらに、今のタケルには両親の顔を思い出すことができない。記憶喪失がひどくなっている、とタケルは思った。再び挑戦を始めようと目を閉じたが、アメーバのように溶けた2人のイメージが戻ってきそうでやめた。代わりにさっきの訓練生の表情を思い浮かべた。前掛けには赤黒い液体や小さな肉片が飛び散っていて、白かったシャツは全体的に様々な濃さのピンク色に染まっている。今の僕を見たら彼はもしかしたら気を失ってしまうかもしれないな。タケルはその場面を想像して少し笑いながら頬に飛んだ体液を拭い、圧力鍋の前まで進んだ。穏やかに沸騰する水の中を透明の蓋越しに見下ろすと、少しずつ柔らかくなっているであろう刺青男のふくらはぎが見えた。ブイヨンと牛乳で煮込んでいるせいで死体独特の臭いはほとんどない。これらを骨から楽に引き剥がせるようになるまで数時間ジックリと煮込むのだ。いい匂い、とタケルは言いながらタイマーをセットし、ソファに腰を下ろして流れている曲に聞き入った。


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