その日の東京の天気は、いつもの年がそうであるように、バケツをひっくり返したようなざんざん降りの雨で、所々では小刻みに震えている女の人や、長袖のシャツを準備してきた人は長袖を着たりと、到底8月とは思えない涼しい日だった。
良太はこの盆休みの間に、ある重大な決断をし、実家から東京に戻ったところだった。
新幹線が東京駅のホームに入り、掃除係りの人に起こされ、ふと窓を見ると、大量の雨粒で窓が覆われていることに気付いた。窓際に置いていた携帯をズボンの右ポケットにしまい、寝起きでふら付いた足を何とか機能させ、ホームに出ると、肌で感じることができるくらいの大雨だった。
「いやー凄ぇ雨だなー」
良太は寝起きの頭をグルグルとまわしながら、さて何からしようと考えを巡らせていた。
「とりあえず傘は買ったほうがいいよな。髪が乱れたんじゃ格好も付かねーってもんさ」
早速キオスクで青のビニール傘を購入し、帰省ラッシュの最終日でごった返す東京駅の構内で、良太は一人わくわくしていた。
「やっとだからなー。いっぱい待たせたぶん、びっちり格好を付けていかねーとな」
トイレの鏡に向かって、切りたての髪を撫でながら、服の乱れを入念にチェックし、買ったばかりのジャケットの袖を伸ばし、香水を振り直し構内に戻った。
「随分と待たせた相手を迎えに行くのに電車じゃ格好もつかねーな。まぁ今日ぐれーはタクシーで行くか!」
そう決めて、良太は八重洲口に向かい、颯爽と歩を進めた。
駅の構内を歩く様々な人々が、全て自分より不幸な人物に思えて、良太は歩きながらもずっとにやついていた。
「おかしな人じゃねーぜい。これからとびっきりの女と待ち合わせだ。あんたらの幸せとはあまりに度合いが違いすぎらぁ。綺麗さも、所作すらも、比べる方が恥ずかしいや。」
そう心の中で叫び、さっきよりも更に歩調を速め、八重洲口に向かって歩いっていった。
「いつもは長いと思うが、今日は出口が向かって来るような気もするなー。って、憑き物が落ちるってのぁー、こういうことかね〜」
東京名店街を通り掛かった時、「そういやーあいつ飯食ったのかな。」 そう思い、おもむろにズボンのポケットから携帯を取り出し、歩きながら携帯を開き、早速メールを作成した。
「今東京についた!タクシーで向かうから、20分位かな。飯食った??食ってないなら、何か考えといてよ^^」
送信ボタンを押して、メールを打つために緩めていた歩調をまた速め、階段を駆け上がり、一気に八重洲のロータリーの所まで出た。
辺りを見渡し、タクシー乗り場を探し、乗車待ちの列を見つけた。
「いやぁ、この雨だもんなー。乗るまでに20分位掛かりそうだな。一応あいつにメールしとくか。」
再び携帯をポケットから取り出し、この大雨でタクシーが混んでいるため、予定よりも遅くなることを伝えた。
「しかしマジでドシャ降りだなぁ。髪が乱れちまうし、服が濡れちまうよ。何より寒いよ。」
そう心で呟きながらも、ここまできたからには引き返せねー。と心を決め、さっき買ったばかりの青いビニール傘を開き、列の一番後ろに並んだ。
少なく数えても20人程が並んでいたが、タクシーの回りは意外にスムーズなようで、前から5人位はあっという間にタクシーに乗っていった。
「予定よりも早そうだな。しかしあいつ返信がねーな。」
先ほどから少しも鳴らない携帯を、見直し、センターへの問い合わせをしたがやはり返信は無かった。
「まぁ、またでけー音でも流してんだろ。タクシーに乗ったら、電話すりゃいいや」
そう思いながら携帯をポケットに入れ直し、まだ長い列を作っている先を眺めた。
並び始めてから10分程がたった頃、携帯からの振動を、良太の太ももが感じとった。ポケットから素早く取り出すと、期待通り彼女からの返信だった。
受信ボックスを開くと、「何も食べてないよ!でもあんまりお腹は空いてないかな・・・だから気にしなくて平気^^」
「何だそりゃ。」時間で空腹がくる便利な腹を持った良太には、時に入ってくるこの手の意味が、イマイチ読み取れなかったが、「まぁいいや。どうせ今日こそは、俺はいい気分で飲めるから!」と思いなおし、「わかったよ^^」と彼女に返信のメールを送った。
それから10分程待ったろうか、ようやく良太の順番が来た時には、8時半を回っていた。 傘を閉じるのと同時にタクシーに乗り込むと、運転手がタオルを手渡してきた。 急なことで、良太が一瞬戸惑いを隠すことを忘れていると、
「雨の日のサービスですよ。」と、70歳を迎える年頃に見える運転手が、にこやかに言った。
その言葉にようやく事を理解した良太は、「あ〜どうも。いやー助かりますよ。傘が小さくて、実際肩のあたりがびしょ濡れだったもんで。」
「雨の中待って頂いてるので。で、どちらに向かいましょう?」 とうに還暦は迎えているであろう、その見かけとは違い、とても心地の良い、テンポで話しかけてきた。
「あー、門前仲町方面なんで、とりあえず永代通りを真っ直ぐ行って下さい。」
「はいはい。門前仲町にお住まいですかー。賑やかでいいとこですねー。」
「いや住まいは東陽町ですよ。まー俺じゃあないんですが。まあそのねー」と言いかけた所で、その老人が間髪いれずに、「あーあー、彼女さんの方がですね。そりゃ失礼しました。」と、何とも断定的な言い回しで言ってきたため、「いやー彼女というか、何というか。」と言ったことで、この先どうなるかは想像に難くなかった。
この手の話しは誰もが一番乗りやすく、特に老人には一番話すと厄介な「ネタ」であることは、それなりの人付き合いの中で熟知していたはずなのに、あまりにも気分が良かった為、つい口走ってしまった。 案の定、その老人は自分の若い頃を思い出したのか、根掘り葉掘り聞くものだから、良太はこれまでの経緯や今日の予定を全て話す羽目になった。
「まー掻い摘んで話しますと、田舎の父、母が中々認めてくれなかった結婚を、ようやく認めてくれたと。まーそれでも渋々ですがね。それで、今日はそれを報告しに、彼女の家に行くわけですよー。」
「ほう。それは良かったですな。人生のパートナーだけは、してみないとわかりませんから。私どもの頃は、家柄だ、見かけだで、中々思うように結ばれるってのはありませんでしたからな。本当に良かった。」
雨のせいか、道が混んでいる上に、この老人の話は止まらず、無駄にお人よしな良太は彼女に電話することもできず、ジレンマの矛先を更に話すという行為に表した。
「へー。運転手さんは恋愛だったんですか?」
「いえいえ、私は生涯孤独の身でして。まあ結ばれそうになった人はいましたがね。それがダメになった日も、こんな雨の日でした・・・いやいや、これからの人に縁起の悪い話しは御法度でしたな。申し訳ない。」と、さして悪びれもせず、話しを続けた。
「何で親御さんは反対されてたのですかな?何か彼女に問題でもおありで?」
大手町を超え、茅場町のあたりに差し掛かった頃、核心に触れる質問にまで話題が触れ始めた。
「ん〜、いや〜、彼女というよりも私に問題がありまして・・・まぁその何というか、別に婚約していた女性がいたんですよ。それを破棄して今の彼女と結ばれようとしたんですが、中々ね〜、そりゃまぁそうなんですが。ただ好きになっちまったんですよね。純粋に。ただね、やっぱり親としちゃ、世間様に何ともね、顔向けできねぇってなもんですよ。まぁ、わかるんですけどね。向こうの親御さんへの顔なんかもありますからね。」
初対面の運転手に、何話してんだ。良太は一瞬我に帰ったが、そこまで話して、この話し好きな老人が、その後だんまりを決め込むはずもなく、予想どうり、話しは続いた。
「なるほど。確かに親としちゃーね、何とも言い難い感情があるんでしょうが、わかってやりたいけど、俗世間に一度染まっちまうと、やっぱり世間様の目を気にしないでなんてことは、できなくなっちまうもんですよ。それを義理と人情って呼ぶと美しいもんですが、素直に生きることに臆病になっちまってるって見方もできますがね。なかなか難しいもんですよ。でも、良かったじゃありませんか、まぁその婚約していたお嬢さんには少々酷ですがね、まぁ、その、何て言いますかね、結局最後に幸せになるかどうかなんてーのは、そん時になってみねーとわかりやせんからね。その時にそう思うなら、そちらをお選びになるのが最善だと思いやすよ。だって、そっちの方が、後悔は少なそうでしょ。なんて、天涯孤独のジジイが言う台詞じゃありやせんやね。」
いつの間にか、その老人の口調が、時代劇に出てくる岡引のようになっていることに良太が気付いたのは、永代橋を過ぎ、門前仲町の交差点で信号に捕まったあたりのことだった。
「あー今日は八幡様の祭りですかい。道理でざんざん降りになるはずだ。」
さも今日は雨が降ることが、前々から決まっていたような口ぶりで、祭り半纏着た若衆を見ながら、運転手はそう呟いた。
良太はさしてその意味を気にも留めなかったが、何故か耳鳴りのように、その言葉が響いていた。
信号が青に変わり、車が木場を越え、沢梅橋を渡りきった所で、「東陽のどの辺りにつけましょうか?」と運転手に聞かれ、さっきの言葉が耳から離れず、外の街灯やネオンの光がなぜかやけに妖艶に見えて、夢見心地のような気分で車に揺られていた良太は、その言葉を投げかけられ、現実に引き戻されたかのように、「あっ、駅前の交差点を越えて、ちょっと行くと歩道橋があるんで、そこでお願いします。」 と答えると、「あー試験場の前の歩道橋ね。」と、間髪入れずに運転手が答えた。
やがて車が歩道橋の下につき、清算して車を降りようとすると、「お幸せにね。タオル代はサービスしときやすから。」と運転手に言葉を投げられ、「そうだ、その為にここまできたのだ。」と、当初の目的を思い出し、「ありがとうございます。」と、よくわからない御礼を言い、外に出ようとしたその時、またあの言葉が耳を突いた。一瞬、何かに獲り付かれたように、椅子に尻餅を付くような格好になったが、「すいません。立ち眩みしちゃいました。」と運転手に笑いかけ、改めて、外に出ようとすると、「まぁ雨ですからねー。」と、運転手が微笑み返した。
外に出て、青いビニール傘を広げ、彼女の家の方向に向かい、少し雨が小降りになった空を傘越しに眺め、気持ちを落ち着かせ、「よし!」と一声掛け声をかけ、彼女の住むマンションの入り口へと入った。
いつもの風景と変わりなく、オートロックのドアがあり、その奥の透明なガラスの向こうに集合ポストがあり、白を基調にした明るい・・・になっている。
彼女の部屋の番号を押し、いざ、と思ったが、まずはガラスに自分の姿を映し、髪と服装の乱れをチェックした、「よしよし」心の中で呟き、再びインターホンに向き合った。
最初の言葉は決めてある。
きっと「おかえりなさい」と微笑む彼女に、「今度こそは本当にただいま」って言って、思い切り抱きしめてやる。
そう決めて、ようやく彼女の部屋の番号を押し、インターホンの呼出ボタンを押した。
トゥルルルル トゥルルルル
トゥルルルル トゥルルルル
何度が鳴らしたが向こうからの応答が無い。
「なんだよー。シャワーかな。」
よくあることなので、さして良太は驚かなかったが、せっかちな良太は、再びボタンに指をかけた。
トゥルルルル トゥルルルル
・ ・・に呼び出し音だけがこだました。
「ああ!!せっかくの晴れの一瞬を迎えるのに!!!いやいや落ち着け。大事な瞬間だからな。顔が曇ってたんじゃ格好悪いしな。」
良太は少し悩んだが、せっかちはかわらず、ポケットから携帯を取りだしリダイヤルで彼女の名前を探し、発信ボタンを押した。
良太の耳元で彼女のメロディーコールが響いたが、留守番電話に切り変わった。
「絶対シャワーだな。後何分位だろな。」
待たされているイライラが溜まっていたが、「ごめん、待った?」「待ったよ!」という会話は、立場的に非常にしずらいので、どうにか平静を保つ努力をした。
とりあえず暇なので、また携帯電話の発信ボタンに指をかけたが、また留守電に切り替わる。それを2,3度繰り返し、再度インターホンを鳴らしたが、やはり応答がない。
もう一度インターホンに指をかけ、鳴らしてみた。
トゥルルルル トゥルルルル トゥルルルル トゥルルルル
・・・に同じ音が同じリズムでこだました。
その時左手にもっていた携帯が震えた。
ふと見ると七色に光っているのがわかった。七色の光り方は彼女の合図なので、すぐに開くと、電話でなくメールだった。
「何だよー。コンビニか。」
少々気がたっていた良太は、少し強めに決定ボタンを押した。
題名の所に「ありがとう」と入っていたので、間違えかなと思いながらも、メールを開いた。
それは今までで一番長いメールだった。
「ありがとう。夢をくれてありがとう。幸せだった。それが嘘でも本当でも幸せだった。でも私はやっぱりあんたとはいられない。幸せくれたあんたには、これ以上苦しんでほしくない。
こんなあたしに一瞬でも夢を見させてくれたあんたは、格好良かったよ。本当にこんな女を一瞬でも幸せにしようと思ってくれただけで、あたしはきっと生きていける。そんな人がいたってだけで、きっとこの先も頑張れる。
あんたはあんたらしく、あんたの道を歩きなよ。あんたもきっと幸せになれる。あんたらしく生きてるってだけで、あたしもきっとやっていける。
あんたからは色々貰ったよ。楽しいことも辛いことも、喜びも悲しみも、いっぱいいっぱい貰ったよ。貰いすぎて、あたしには抱えられなくなっちゃったから。 抱えきれないぶんを、あんたに持ってもらうのも手だけど、あんたも結構重いもん抱えてるしさ。だからそろそろ降ろそうかなって。
だからもうあたしはあんたの前からいなくなる。あんたも荷物が一つ減るよ。あんたの中ではそんなに重要な荷物じゃなかったかもしれないけど、少しはあんたの負担も減るでしょ。 笑
だから安心して歩きなよ。あたしも真っ直ぐに長い道を歩いていくから。あんたが見せてくれた道を、ゆっくりかもしれないけど歩いていくよ。
あんたは本当にいい男だったよ。今でもあんたの残像がはっきりと見えるくらい、あんたの存在は凄かったよ。
どんなに苦しんでも、それでもあんたはずっと追いかけてきそうだから、あたしもいい女すぎるからね。 笑
だからあたしがあんたの前からいなくなるから。もうあんたも安心しな。
本当にありがとね。本当にいい夢だった。あんたはあたしの前に光をくれた。だからちゃんと生きていきます。
本当にありがとね。あたしは初めて人をちゃんと愛せたよ。
本当に愛してた。名残はつかないけど、じゃあ行くね。さよなら。」
しばらくの間、ただそこに立ちすくんだ。携帯を動かすこともできずに、ただ、立ちすくんだ。
その後良太はインタホーンを何度も何度も押しながら、何度も何度も彼女の携帯に電話をしたが、インターホーンからの応答はなく、電話はずっと電源が切られていた。
それでも、何度も何度も携帯を鳴らし続けたが、電源が入ることはなかった。
どれ位そうしていたのかは定かではないが、気付くとガードレールに座り、タバコに火を点け、またドシャ降りになった雨に、ひたすら打たれていた。
彼女のマンションからそこまでどのように歩いたのかは定かではない。そこがどこなのかもわからなかった。どれ位そこでそうしていたかも覚えていないが、気付くと時計の針は10時半をさしていた。
何も考えることができず、どしゃ降りの空を、ただぼんやり眺めていたが、そこにはただ彼女の残像のみが見えるだけで、浮いてはすぐに消えていった。
良太は雨に打ちひしがれながら、タクシーを拾おうと、ガードレールから腰を上げて、タクシーを待った。
しばらくすると一台のタクシーが見えた。力なく手を上げると、この大雨のせいで見えずらいのか、一度越してから、急ブレーキを踏み、確認するようにバックでこちらに近づいてきた。
後ろのドアが開き、倒れるようにシートにもたれると、前からタオルが手渡された。「雨の日のサービスですよ。」
よく見ると先ほどの老人であった。「どこに行きましょう?・・・あれ、さっきの兄さんかね。こりゃ奇遇だ。あまりにも人が少ねぇんで、帰ろうと思ってたんですよ。今日は兄さんで店仕舞いだ。で、そこに行きましょう?」
「今ここはどこですか?」良太は力無く尋ねた。
「どこですかって、小松島だよ。東陽町の用事はすんだんですかい?」
「そうですか。」
「兄さんよく見たらびしょ濡れじゃあねーですか。東陽町から歩いてきたんかい?」
「わかりません。どうしてここにいるかも、どうやってきたかも覚えてないんです。」
「全部聞いちまうのもできるが、何ともそりゃ粋じゃねーんで、みなまでは聞きませんが、今日は一先ず帰って休みねー。その様子じゃ風邪ひいても気付かねーだろうが。さぁ、家はどこだい。」
「田町です。」
「田町ね。今日はサービスだ。メーター倒して飛ばしてくからね。しかし、八幡様もよく降らすねー。」
「ありがとうございます。運転手さんは家はどこなんですか?」
「あたしは鳥越。鳥越神社のすぐ傍。わかりますかねー。」
「ええ。結ばれたかった人とは、何で結ばれなかったんですか?」
「あぁ。さっきの話ですかい。人に話す事でもねーが、まぁ話しちまったからしょうげーやね。いやね、良家のお譲様だったんですよ。それでも気さくないい娘でね。あたしみたいなやし香具師を好きっていってくれたんですがね、さすが良家ともなると、やっぱり向こうの親からも止めが入るしね。それでも頑張ったんですがね、ある時向こうの親父さんが来てねーこう言われたの、娘が好む位だから、あんたもいい男なんだろうが、申し訳ないが引いてくれって土下座されちまいましてね、何でも良家の坊ちゃまとの縁談が進んでたらしくてね、まぁ政略結婚ってやつだね。それで、散々考えたが、俺が消えた方が、彼女のためにもいいだろと思いやしてね、今日みてーなざんざん降りの日に、悪態ついたら頬っぺた張られてねー、それでバイバイってもんです。それから雨が嫌いでねー。」
その時あの言葉が、また良太の耳を突いた。「八幡様の祭りですかい。道理でざんざん降りになるはずだ。」
何故かずっと耳から離れないその言葉の意味を。運転手に聞いてみた。
「なんで八幡様の祭りの日は、どしゃ降りなんですか?」
「あぁ。そりゃあ水の神さんだからねー。実はあたしが頬っぺた張られた日もね、八幡様の祭の日で、あたしももちろん店出してね、その合間に物陰でね、男の職場に顔だすなんざさすが嬢さんはやることが浮世離れしてらー。って、本当はこんなヤクザな世界に来て、俺に会いにきてんじゃなくて、自分が注目されてーだけなんだろ。なんて言っちまったら、頬っぺた張られちまってね。まぁ、親父さんの言うとおりにしたってことだが、本当は直前まで、やっぱり好きなもんは諦めれねーって、心に決めたんですがね、誰かに言わされたように、思ってもねーことが口から出ちまったの。不思議だね。きっと雨に言わされちまったんですよ。」
「あー、お祭の日だったんですね。やっぱり雨だったんですか。あぁ、そうなんですか。水の神様か。」
それからその老人は、誰に話すわけでもなく、歌でも歌うように話しを始めた。
深川の、富岡八幡様の祭の日にゃ、
どんなに暑い夏にだって、必ず雨が降るんだよ。
何てたって水の神様だからね。
何でこの時期に雨かって??
野暮言っちゃーいけねーよ。
将軍様がいなさったよりももっと昔から、
江戸の祭は旧暦って決まってらぁ。
豊作を祈念して、最後に大雨降らすのよ。
「神輿は深川、山車は神田、だだっぴろいは山王様」ってね。
やっぱし義理と涙と祭だけは、何があっても忘れねーもの。
江戸の祭っていゃ〜、皐月になったら、神田の明神様を担いでね〜、
何てたって、江戸の神社の総氏神の明神様だ、
そりゃ江戸の夏はそこから始まるんで。
日枝神社の山王様も中々親分らしいけど、
やっぱし江戸の親分はっていゃー神田の明神様よ。
何てたって、芝まで神田の明神様が見てたって言うんだから。
皐月にゃさ、浅草神社の例大祭に、道真公の湯島の天満様があってさ、
湯島の白梅も中々オツなもんだけどな。
三社様の祭ぁー、最近じゃいまいち品が無くていけねーや。
水無月になりゃー、梅雨明けで水がねぇーってんで、
鳥越で唯一敷地を召し上げられなかった、
鳥越の明神様が、江戸に水を恵んでくれるってーわけよ。
それでも海じゃあんまし水が増えるってんで、
神田の市場って言われてた、そうよ築地の大市場の辺りじゃ、
波除の神様を崇めて、海を鎮めるって〜、
江戸のごった煮文化らしくて粋じゃあござんせんか。
それで葉月にゃ富岡の八幡様が最後に水を恵んでくれるって魂胆。
長月にゃ、根津の神様持ち出して、豊作を皆で祝うってわけ。
でもね、人に見せるなら、鳥越の夜祭よ。
できれば土曜にしておきな。
日曜は人が多くていけねーや。それが見せ場なんだけど。
それに土曜のほうが、たぶん雨っぷりが少ねーから。
個人的に雨が嫌いでね〜。雨はどうもいけねーや。
人の気持ちを動かしやがる気がしてね。
だから富岡の八幡様の祭の日にゃ、家でじっとしてるのよ。
雨の祭の後の雰囲気は、どうにも心が踊らねーの。
やっぱり祭の後の雰囲気ってのぁー、からっとしてなくちゃねー。
後ろ髪をひかれながらも、からっと装うのが江戸の男の、
いなせな姿でね。武士は食わねど高楊枝たぁーよく言ったもんよ。
そこをそっと出迎えるのがー江戸の女の粋な所作。
まぁきょうびそんな男と女はいねーけどねぇ。
要はやせ我慢は、男のいなせなとこってことよ。
今じゃあ、高楊枝なんてした日にゃ、鼻で笑われちまうけどさ。
まぁだから、雨ってのはー、そんな雰囲気も壊しやがるって話。
だから雨の夜にゃー、何もしねーで、家で1,2杯酒を飲んで、
黙って寝ちまうのがいいのよ。
えっ、ここで降りるって??
よしときなって、雨に降られた祭の後なんて見たって、
心がどうかしちまうだけだからさ。
そこまで言われて止めるのも、どうも粋じゃねーから、
これ以上止める道理もねーが、雨には気をつけなよ。
雨ってーやつは、思ってもねーほうに引っ張っていきやがるから。
その日どういう風に家路に着いたのかは、良太は覚えていない。
きっと、雨に引っ張られて、涙に濡れたんだろう。
雨が涙を隠すのは、きっとせめてもの神様の慈悲なのかもしれない。
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