あたしの背中には翼がある。ううん、正確に云えばまだちょっぴり生えかけてる程度。
ある日、病室に天使が尋ねてきた。透き通るような白い肌、きんいろのくるくるしたセミロングの髪。 「あやかさん。あなたには天使になれる資格があります」 男のひとにしては高い声。差し出されたその手は大きくて、体温は感じられなかった。 白いスーツに身を包み、にっこりと笑うとあたしの手のひらにキスをした。彼(彼女?)がお辞儀をした拍子に背中の真っ白な翼が揺れた。 その横にもう一人いた。天使とは正反対の真っ黒ずくめの男。深々と帽子を被っていて長い前髪の隙間から、瞳が見える。 ドキッ 空みたいに青い瞳は優しくて。あたしをまっすぐに見つめていた。 「あなたも…天使なの?」 恐々と訊いてみた。彼は何も答えない。ただ帽子を取って無言の挨拶をしただけだ。まるで「ご自由に」と云わんばかりだった。 「…ねぇ、きちんと答えてよ」 今度ははっきりと訊いた。なんだかイラッとしたのだ。何もかも見透かされているような瞳に。 「君次第だよ」ふわっと微笑をみせて「また会おう」彼はいなくなった。 何…あの意味深な発言は。 イラつきながらも天使の方をみると、天使も眉間に皺を寄せて…気のせい?舌打ちしたように見えた。 天使はあたしの視線に気づき険しい表情をといた。 「あやかさん。あいつには気をつけた方が良い。」 「なぜ?あの人は何者なの?」 「…こちらの世界で云う”死神”みたいなもです」 死神??? 「そう、あやかさんの望みや希望を奪う者」 「…望みを…奪う…そんなの嫌だ」 「ですよね。だから私が来たのです」 「守ってくれる?あたしのこと」 「もちろんです」 天使は極上の笑みをみせて、あたしを優しく抱きしめた。天使の翼が大きく開き包み込む。あたしは身体ごと安心しきって預ける。ふわりとした感覚に囚われ、背中に痛みが走った。あたしの翼が成長したのだ。その分、力が抜けた。天使の胸は心地よくていつまででもこうしていたいと思った。とろりとろりと睡魔があたしを襲う。完全に思考が停止する前に、あたしは自分の希望を心に思い描いた。
『どうか。どうか。あのひとがあたしのものになるように。あたしだけを見つめていてくれますように。天使になってもずっと傍に居られますように』
きんいろの髪の天使が微笑んでいる。でも…あれ?なんで?瞳の色が違う。さっきまで透き通るようなキレイな緑色だったのに…。ひゅるひゅると谷底に落ちていくような感覚に包まれる。…このまま…堕ちたほうがとっても楽になれる。きっとそう。
ガクン
誰かに強く腕を捕まれた。睡魔がどんどんあたしを連れて行く。視界は真っ暗。何も見えない。 「だ…だれ?」確実に寝言になってる。あたしの腕をつかんだ手はさらに強く引き上げ、腕の中に抱きしめた。温かい・・・。 「天使?あなたなの?」 耳元で小さな笑い声がした。 「確かなことはいつも闇の中だよ」囁いた。 「自分で決めなきゃ。自分で進まなきゃ」 誰の声だろう。どこかで聴いたことのある声。ああ…あのひとの声に似てるんだ。あたしの大切なひと。あたしのものにならないひと。 ……変だな。青い瞳が意識の中にちらつく。 …あ…だめだ…意識が遠のく。どこかで睡魔が笑ってる。真っ赤なその瞳で、舌なめずりしながら手招きしてる。
目覚めると目の前には母さんの心配そうな顔。そしてその背後には厳重なくらいの看護士さんたちの数と主治医。 「ああ良かった!!一時はどうなるかと…」母さんは涙に言葉を詰まらせた。 それからのことはよく覚えていない。はっきりしてるのは『死に掛けてた』ってこと。否、一旦心臓は止まっていたみたいだ。 あたしはいつものことだとため息をつく。14歳まで生きられないと云われていたあたしが10年寿命がのびた。でもやっぱりあたしの身体はほかの人たちよりオンボロで、年々、免疫力を失って行く。大きな窓を見た。あたしが外と繋がれる唯一のアイテム。青い青い空、こないだまでの入道雲はどんどん無くなって、高くなった空には秋の雲がのんびりと寝そべっていた。 「母さん。あたし空が見たい、屋上に連れて行って」どうせもう永くはないんでしょ?好きにさせて?そう云いかけてやめた。 子供みたいに母さんは泣く。そして「何が欲しい?」「どうすれば良い?」しか云わない。もううんざり。
屋上に出ると風が冷たかった。母さんはあわてて私の上着を取りに戻った。 あたしは筋力の衰えた腕では移動が出来ずに屋上から見える風景を眺めていた。屋上には物干し台がたくさんあって、真っ白いシーツがその大半を埋め尽くして風にはためいている。まるで雲の上にいるみたいだ。 「あれ??あやか?ひさしぶりぃ〜」シーツの隙間からタバコをくわえた彼がやって来た。 「うん、ひさしぶり。またタバコ?見つかったらどうすんの?」 「にゃしし。ま、あやかは俺の味方だよね」 「さぁ?どうだか」 ニヤリと笑うと彼は落胆した。彼は肺の病気だ。手術も済んであとは回復を待つばかり。なのに、もともとヘビィスモーカーの彼はこうやってこそこそ屋上にタバコを吸いに来る。 「んじゃあ、これで共犯」 車椅子に覆いかぶさってキスされた。子供っぽい笑顔で彼はまたタバコをふかす。 「ヤダ。こんなんじゃ共犯になれないよ」あたしがふて腐れると、彼はまた笑った。 「どうして欲しい?」何回もキスしてきて彼が問う。その左薬指にはぎんいろの指輪。彼がまだ手術前で恐怖のどん底だったとき、あたしもまだ車椅子を必要としなかったとき。何度もここで会った。時には個室のあたしの病室に彼が潜り込んできた。わかってた、どうせあたしが先に死ぬし、彼には帰る場所があるってことも。
でも。だって良いでしょ?これくらいのこと。あたしのは生涯一度きりの本気の恋なんだから。
上着を取りに行ったはずの母さんは戻ってこない。最近…痴呆症ぎみなのだ。いや…ただ単に早く楽になりたくて忘れたフリをしているだけなのかもしれないな。 でも…もう良いや。だってあたしはもうすぐ欲しいものを手に入れる。 「ね、ここでしよ??」あたしが甘ったるく耳元で囁く…彼はあたしから身体を離した。 「もう出来ないよ。お前こんなんだし…それに俺…退院日決まったんだ」 「そっか。お別れだね」 あたしがあっさり云うと彼はびっくりした顔をした。そして…だんだん表情が曇る。 「なんで…お前って何でもかんでもすぐ見限るの?…俺、別れる気ないよ」 「奥さんと子供いるじゃん」 「それとこれ、別」 「別じゃないよ!!!」叫んだ。自分でもびっくりするくらいの声だった。痛い。痛い痛い。胸が痛い。背中が痛い。
メリッ…メリメリメリ
ふわりとした感覚に包まれた。足元を見ると宙に浮いていた。白い翼が大きく大きく育っていた。 「あやか…?何それ」 彼が腰を抜かしたまま後ずさりしていた。あたしは重力に縛りつけられた身体はもういらないと感じた。それと…我慢し続けるのももう止めてしまおうと決心した。 「あたし。ずっとずっと寂しかった。なんでこんな世界に縛られて生きてなきゃなんないのっていつもいつも。母さんと父さんの仲をおかしくしたのもあたしだし。好きになったひとにはあたしじゃない大切なひとがもういて。でもでも大好きで。自分だけのものにしたくて。でも出来ない。奥さんや子供から奪うことなんてしたくない。それに…あたしもうこの世界に居られない」 ボロボロと泣いた。10年前に泣き方なんて忘れたと思ってたのに。 「ねぇ!一緒に来て!!一緒に死んでよ!もう独りっきりはいやなの!!一緒に居て欲しい!!」 彼の表情が徐々に険しくなる。怯えているのか・・・怒っているのか。 ふと、隣に誰かの気配を感じた。きんいろの髪…赤い瞳。白い大きな翼。あたしの両肩に手を置く。 「さぁ。あやかさん、私と契約しますか。あなたの願いを叶えることが出来るのは私だけです。彼の命を奪いなさい。そうすれば独りきりで居ることも、奥さんのもとに帰らなくてもよくなりますよ。そして、私はあなたの大きく育った”想い”を貰う。そしてあなたは天使として生き続けることができる」 なんだか…天使の横顔に恐怖した。すごく綺麗な横顔。残忍な言葉。めまいがした。あたし…間違いをおかしたのかも。 「あやか!解かった!俺の命が欲しいのならやる」彼が叫ぶと天使は光を飛ばした。彼の心臓めがけて。 「嫌ぁ!!」 叫んでも遅い。彼はそのまま仰向けに倒れた。あたしの翼がまた一段と大きくなった。 「うふふ。おいしそう」天使があたしの頬をなめる。
『確かなことはいつも闇の中だよ』
『自分で決めなきゃ。自分で進まなきゃ』
「離して!!」天使を突き飛ばした。美しい顔を歪めて天使はうなった。 「あなた天使なんかじゃない。願いなんて叶わなくていい!」 「ほほう。じゃあいったい、誰があなたの望みを叶えてくれるって云うんだい。この、人間ふぜいが!」 天使があたしに向けて光の矢を放つ。もう駄目だ!と思った時、黒い影があたしと天使の間に入り込んだ。 「いってぇ」 黒づくめの男は言葉とは裏腹に嬉しそうに笑っていた。あたしが驚いて背中を見ていると、ちらりとだけ振り向いた。 「彼のこと。助けたい?」 頷いた。 「この世とあの世。離れ離れよ?オーゲー?」 頷く。男はあたしの頭をくしゃりと撫でた。 「よーし。よく出来ました。彼の傍に行ってやりな」 「…で、でも」 「悪ぃな。こっちの世界の事情なんで、自分らで解決すっから。ほら!あんたは早くいきな!あんたの時間が無い!」 男に半ば突き飛ばされるように屋上に舞い降りた。
彼の心臓に耳を当てる。規則正しく刻む命のパルスに感謝した。
彼を抱きしめる。愛しいひと。奪いたくても奪えないよ。生きて。あなたは生きて。あたしを忘れてもいい。奥さんごめんなさい、すこしだけ彼の想い出を下さい。 あたしはもうすぐ居なくなるから。あたしのなかの確かなこと。それに気づいてしまった。
『彼が幸せであること』 『生きていてくれることがあたしの幸せ』
空中で天使と闘う黒い服の男。その背中には6枚の翼が生えていた。 そしてあたしが天使だと信じていた者は、コウモリのような羽根の背中の曲がった化け物になっていた。ううん、多分あれが元々の姿なのだろう。あたしの背中の翼は砂のようにほころび出して、急激に消えていった。完全に消え去ったとたんに天使だった者はバランスを崩してコンクリートに叩きつけられた。 「はい。捕獲!っと」 左手に天使の成れの果て?の中型犬くらいもコウモリもどきを持って黒服天使は笑った。あっと云う間に翼を消して、キューキュー啼く”天使だった者”の鼻を指ではじく。ギャーギャー啼きわめくと頭をひっぱたいた。 「さて…と。お嬢さん、もう時間なんだが。彼とのお別れは済んだかい」 男は申し訳なさそうに云う。最初に会ったときとは全然違う印象だった。いや…あれは、私がかってに『天使』のイメージを作り出していただけかもしれない。 「ねぇ、ひとつ訊いても良い?」 「なんなりと」 「あなたが天使で…これは?」 「元天使。人間の願望とかの感情を食べなきゃ存在出来ない。…にしても、あんたの願いは大きかったな」 「そう?人間なら誰でも持ってるよ」 「幸せになりたい。ってやつか?」 黒服天使のぼやきに何故かあたし、笑ってしまった。天使が眉間に皺をよせる。 「あん?何か違うのか?」 「違ってるようで違ってないよ」
『誰かの幸せを願うこと』
あたしはふっきれたように立ち上がる。一度だけ大好きな彼の唇にキスをした。体温を感じた。黒服天使に差し出された手をとると、身体が軽くなった。徐々に天空に昇って逝く。
屋上に残されたあたしの抜け殻は、幸せそうに微笑んで瞳を閉じていた。右の頬に涙が一筋、夕日に照らされて光って見えた。
(FIN)
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