小学校の頃の思い出は何がありますか・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝顔はちゃんと花を咲かせましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何か習い事はしていましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その頃のお友達は何人覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・
ペットは何か飼っていましたか? ペットや植物は、貴方に面倒を見る喜びを教えてくれましたね。
大切に育てかわいがり、花が咲いたとき、ペットがうれしそうにした時、貴方は大切な喜びを感じた事でしょう。
そして花が散ったとき、貴方は命の尊さを刻んだ事でしょう。 ペットが死んだとき、貴方は大粒の涙をいつまでもいつまでも流したことでしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
我が家では私が幼稚園の頃に初めて犬を飼いました。 白い雑種の雄犬で、チロと言いました。
物心の付いた私にとってチロは一番の友達で、散歩に行くときも毎日私が付き添って行きました。 お母さんに内緒でおやつのお菓子をあげた事は数え切れない程です。
一度散歩の途中で私が他の犬に駆け寄り吠えられた時には、普段本当に大人しいチロがその犬に向かって行こうとしてくれました。 また私が転んだりすると、不安そうに座って待っていてくれました。
小学校に上がると、私は妹を引き連れて三人だけで散歩に出かけました。 左手に綱を持ち、右手で妹の手を握り、夕方の四時に出発するのがいつしか日課になっており、チロも時間が近づくと、そわそわしたり、嬉しそうにはねたりしていました。
チロはもともと父の友人が、車で跳ねてしまった子犬をもらってきたものでした。夜見通しの悪い道を飛び出してきた子犬は、後ろ足を骨折してしまったそうです。 急いで当事は数も少なかった獣医の所に連れて行き、何とか一命は取り留めたそうです。それから一週間してほぼ完治した子犬は、そちらの家にはもう別の犬もおり、2匹飼うのも大変という事もあり、私達の家族になりました。 父と母も以前から犬がいれば私の良い友達になるだろうと、検討していた矢先の出来事だったようです。
チロは私にとって友達であり、家族であり、兄のようにも思えました。 三人で散歩をするようになった頃は、いつも先頭はチロでした。チロが私を引っ張り、私が弟を引っ張っていました。 前から車が来ると、チロは立ち止まりいつも私達を振り返りました。
そんなチロも年をとり、私が五年生の時、チロが目の手術をしました。 白内障だった様ですが、幼い私にはどんな病気なのかは理解できず、ただただ手術と言う言葉の重みに打ちのめされ、手術の日が近づくとまるで自分が受けるかのように怖く、不安になり、とうとう熱を出して学校を休んでしまった程でした。 当事はもう八歳程になっていたようで、犬としては高齢の部類に入ります。
その手術を期に、チロはだんだん元気がなくなってきました。 散歩に行っても走ることは無くなり、何か背中が丸くなったような印象が残っています。 ただ私が一番ショックだったのは、チロがもうおじいさんだと知らされた時でした。うっすらと子犬だった頃の思い出の残っていた私は、チロは私よりも少し年上のお兄さんだと思っていました。 いつの間に、何故、チロだけが年を取ってしまったのか? 私には理解が出来ませんでした。
ましてやチロが死んでしまう事など、夢にも・・・・・・・・
十二月に入り、雪がぱらつく様な季節になると、母はチロを車庫の中で飼うようになりました。 「ここなら風も当たらないし、少しは暖かいからね」 私は母の優しさを感じましたが、何故今まで外で飼っていたのに、今年の冬に限って車庫で飼うのか不思議に思うことはありませんでした。
二月になると使い古した毛布を犬小屋に敷いてやり・・・・
春にはチロはいませんでした・・・・・
私が学校から帰ると犬小屋が片付けられており、私は春が近くなったから、また庭に移したのかと思いました。 すぐに友達と遊びに出かけた私が、四時近くに帰ると 「お散歩はいいからね」と母に言われました。
入院しているとの事でした。
その日の夜私は、父に呼ばれ話を聞きました。 実は入院ではなく、今朝早くに亡くなった事を・・・
すぐには理解できなかった私は、何時になったら会えるのか父にたずねたそうです。 父は生き物の死について私にゆっくりと語ってくれました。
私は妹にはまだ言わないでと、泣きながらたのんだそうです。 きっと、これ程悲しい思いを、まだ幼い妹にはさせたくないと思ったのでしょう。
私は泣きながらチロに手紙を書きました。 思い出せる限りの思い出と、思い出せる限りのありかどうを・・・・・
給食は残さず食べましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どんな食べ物が苦手でしたか?
今もそうですか?
私は豚肉が苦手でした。 実は幼稚園の頃、母の田舎で養豚をしている農家に豚を見せてもらいに行ったことがあり、その時は初めて見る本物の豚の迫力に圧倒されました。 胴などは私の何倍もあり、上に乗ってもびくともしない程の大きさに驚いたものです。やんちゃだった私は豚の胴を靴で軽く蹴り、その硬さに再度驚きました。
豚舎の中で遊んでいるうちに、だんだん豚達に囲まれた私は急に怖くなり急いで外に出ようとあせりました。べそをかきながら外に出ようとする私に、豚たちは容赦なく道を塞ぎ、必死で押しやろうといくら力を出しても彼らには通用しませんでした。 その時です、私のお尻を一頭の豚が噛んだのです。
噛んだといっても歯を立てた訳ではなく、軽く咥えた様な形ですが、その時の私には充分過ぎるほどの恐怖でした。
その日以来、未だに豚肉は苦手です。
小学校の給食には豚肉が頻繁に使われており、毎日の様に苦戦しました。 当事は残さずに食べないと、全部食べ終わるまで放課も、掃除中も食べさせられました。 私はある時は床に捨てたり、ある時は諦めて牛乳で飲み込んだりと、大変な毎日を送りました。時には先生の目を盗んで、ナフキンに包み家に持ち帰ったりもしました。その時は当然チロに助けてもらった訳ですが。 またある時などは、ナフキンに包んだ豚肉をポケットから出すのを忘れ、そのまま洗濯されてしまった事があります。 洗濯物を母がたたんでいた時に、その物体がポケットから発掘され・・・・・ 大変な事になっていました。
私にとってはあまり楽しかった思い出のない給食ですが、でも今思うと、先の割れたスプーンやビンの牛乳、ステンレスの食器、ソフト麺、硬いパンが無性に懐かしく思えます。
貴方はどんな給食でしたか?
給食は楽しかったですか?
献立表を家に持ち帰り、お母さんに渡していた事を覚えていますか? 小学校の頃の思い出は何がありますか・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝顔はちゃんと花を咲かせましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何か習い事はしていましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その頃のお友達は何人覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・
小学校の頃の思い出は何がありますか・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝顔はちゃんと花を咲かせましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何か習い事はしていましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その頃のお友達は何人覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・
ペットは何か飼っていましたか? ペットや植物は、貴方に面倒を見る喜びを教えてくれましたね。
大切に育てかわいがり、花が咲いたとき、ペットがうれしそうにした時、貴方は大切な喜びを感じた事でしょう。
そして花が散ったとき、貴方は命の尊さを刻んだ事でしょう。 ペットが死んだとき、貴方は大粒の涙をいつまでもいつまでも流したことでしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
我が家では私が幼稚園の頃に初めて犬を飼いました。 白い雑種の雄犬で、チロと言いました。
物心の付いた私にとってチロは一番の友達で、散歩に行くときも毎日私が付き添って行きました。 お母さんに内緒でおやつのお菓子をあげた事は数え切れない程です。
一度散歩の途中で私が他の犬に駆け寄り吠えられた時には、普段本当に大人しいチロがその犬に向かって行こうとしてくれました。 また私が転んだりすると、不安そうに座って待っていてくれました。
小学校に上がると、私は妹を引き連れて三人だけで散歩に出かけました。 左手に綱を持ち、右手で妹の手を握り、夕方の四時に出発するのがいつしか日課になっており、チロも時間が近づくと、そわそわしたり、嬉しそうにはねたりしていました。
チロはもともと父の友人が、車で跳ねてしまった子犬をもらってきたものでした。夜見通しの悪い道を飛び出してきた子犬は、後ろ足を骨折してしまったそうです。 急いで当事は数も少なかった獣医の所に連れて行き、何とか一命は取り留めたそうです。それから一週間してほぼ完治した子犬は、そちらの家にはもう別の犬もおり、2匹飼うのも大変という事もあり、私達の家族になりました。 父と母も以前から犬がいれば私の良い友達になるだろうと、検討していた矢先の出来事だったようです。
チロは私にとって友達であり、家族であり、兄のようにも思えました。 三人で散歩をするようになった頃は、いつも先頭はチロでした。チロが私を引っ張り、私が弟を引っ張っていました。 前から車が来ると、チロは立ち止まりいつも私達を振り返りました。
そんなチロも年をとり、私が五年生の時、チロが目の手術をしました。 白内障だった様ですが、幼い私にはどんな病気なのかは理解できず、ただただ手術と言う言葉の重みに打ちのめされ、手術の日が近づくとまるで自分が受けるかのように怖く、不安になり、とうとう熱を出して学校を休んでしまった程でした。 当事はもう八歳程になっていたようで、犬としては高齢の部類に入ります。
その手術を期に、チロはだんだん元気がなくなってきました。 散歩に行っても走ることは無くなり、何か背中が丸くなったような印象が残っています。 ただ私が一番ショックだったのは、チロがもうおじいさんだと知らされた時でした。うっすらと子犬だった頃の思い出の残っていた私は、チロは私よりも少し年上のお兄さんだと思っていました。 いつの間に、何故、チロだけが年を取ってしまったのか? 私には理解が出来ませんでした。
ましてやチロが死んでしまう事など、夢にも・・・・・・・・
十二月に入り、雪がぱらつく様な季節になると、母はチロを車庫の中で飼うようになりました。 「ここなら風も当たらないし、少しは暖かいからね」 私は母の優しさを感じましたが、何故今まで外で飼っていたのに、今年の冬に限って車庫で飼うのか不思議に思うことはありませんでした。
二月になると使い古した毛布を犬小屋に敷いてやり・・・・
春にはチロはいませんでした・・・・・
私が学校から帰ると犬小屋が片付けられており、私は春が近くなったから、また庭に移したのかと思いました。 すぐに友達と遊びに出かけた私が、四時近くに帰ると 「お散歩はいいからね」と母に言われました。
入院しているとの事でした。
その日の夜私は、父に呼ばれ話を聞きました。 実は入院ではなく、今朝早くに亡くなった事を・・・
すぐには理解できなかった私は、何時になったら会えるのか父にたずねたそうです。 父は生き物の死について私にゆっくりと語ってくれました。
私は妹にはまだ言わないでと、泣きながらたのんだそうです。 きっと、これ程悲しい思いを、まだ幼い妹にはさせたくないと思ったのでしょう。
私は泣きながらチロに手紙を書きました。 思い出せる限りの思い出と、思い出せる限りのありかどうを・・・・・
給食は残さず食べましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どんな食べ物が苦手でしたか?
今もそうですか?
私は豚肉が苦手でした。 実は幼稚園の頃、母の田舎で養豚をしている農家に豚を見せてもらいに行ったことがあり、その時は初めて見る本物の豚の迫力に圧倒されました。 胴などは私の何倍もあり、上に乗ってもびくともしない程の大きさに驚いたものです。やんちゃだった私は豚の胴を靴で軽く蹴り、その硬さに再度驚きました。
豚舎の中で遊んでいるうちに、だんだん豚達に囲まれた私は急に怖くなり急いで外に出ようとあせりました。べそをかきながら外に出ようとする私に、豚たちは容赦なく道を塞ぎ、必死で押しやろうといくら力を出しても彼らには通用しませんでした。 その時です、私のお尻を一頭の豚が噛んだのです。
噛んだといっても歯を立てた訳ではなく、軽く咥えた様な形ですが、その時の私には充分過ぎるほどの恐怖でした。
その日以来、未だに豚肉は苦手です。
小学校の給食には豚肉が頻繁に使われており、毎日の様に苦戦しました。 当事は残さずに食べないと、全部食べ終わるまで放課も、掃除中も食べさせられました。 私はある時は床に捨てたり、ある時は諦めて牛乳で飲み込んだりと、大変な毎日を送りました。時には先生の目を盗んで、ナフキンに包み家に持ち帰ったりもしました。その時は当然チロに助けてもらった訳ですが。 またある時などは、ナフキンに包んだ豚肉をポケットから出すのを忘れ、そのまま洗濯されてしまった事があります。 洗濯物を母がたたんでいた時に、その物体がポケットから発掘され・・・・・ 大変な事になっていました。
私にとってはあまり楽しかった思い出のない給食ですが、でも今思うと、先の割れたスプーンやビンの牛乳、ステンレスの食器、ソフト麺、硬いパンが無性に懐かしく思えます。
貴方はどんな給食でしたか?
給食は楽しかったですか?
献立表を家に持ち帰り、お母さんに渡していた事を覚えていますか?
ペットは何か飼っていましたか? ペットや植物は、貴方に面倒を見る喜びを教えてくれましたね。
大切に育てかわいがり、花が咲いたとき、ペットがうれしそうにした時、貴方は大切な喜びを感じた事でしょう。
そして花が散ったとき、貴方は命の尊さを刻んだ事でしょう。 ペットが死んだとき、貴方は大粒の涙をいつまでもいつまでも流したことでしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
我が家では私が幼稚園の頃に初めて犬を飼いました。 白い雑種の雄犬で、チロと言いました。
物心の付いた私にとってチロは一番の友達で、散歩に行くときも毎日私が付き添って行きました。 お母さんに内緒でおやつのお菓子をあげた事は数え切れない程です。
一度散歩の途中で私が他の犬に駆け寄り吠えられた時には、普段本当に大人しいチロがその犬に向かって行こうとしてくれました。 また私が転んだりすると、不安そうに座って待っていてくれました。
小学校に上がると、私は妹を引き連れて三人だけで散歩に出かけました。 左手に綱を持ち、右手で妹の手を握り、夕方の四時に出発するのがいつしか日課になっており、チロも時間が近づくと、そわそわしたり、嬉しそうにはねたりしていました。
チロはもともと父の友人が、車で跳ねてしまった子犬をもらってきたものでした。夜見通しの悪い道を飛び出してきた子犬は、後ろ足を骨折してしまったそうです。 急いで当事は数も少なかった獣医の所に連れて行き、何とか一命は取り留めたそうです。それから一週間してほぼ完治した子犬は、そちらの家にはもう別の犬もおり、2匹飼うのも大変という事もあり、私達の家族になりました。 父と母も以前から犬がいれば私の良い友達になるだろうと、検討していた矢先の出来事だったようです。
チロは私にとって友達であり、家族であり、兄のようにも思えました。 三人で散歩をするようになった頃は、いつも先頭はチロでした。チロが私を引っ張り、私が弟を引っ張っていました。 前から車が来ると、チロは立ち止まりいつも私達を振り返りました。
そんなチロも年をとり、私が五年生の時、チロが目の手術をしました。 白内障だった様ですが、幼い私にはどんな病気なのかは理解できず、ただただ手術と言う言葉の重みに打ちのめされ、手術の日が近づくとまるで自分が受けるかのように怖く、不安になり、とうとう熱を出して学校を休んでしまった程でした。 当事はもう八歳程になっていたようで、犬としては高齢の部類に入ります。
その手術を期に、チロはだんだん元気がなくなってきました。 散歩に行っても走ることは無くなり、何か背中が丸くなったような印象が残っています。 ただ私が一番ショックだったのは、チロがもうおじいさんだと知らされた時でした。うっすらと子犬だった頃の思い出の残っていた私は、チロは私よりも少し年上のお兄さんだと思っていました。 いつの間に、何故、チロだけが年を取ってしまったのか? 私には理解が出来ませんでした。
ましてやチロが死んでしまう事など、夢にも・・・・・・・・
十二月に入り、雪がぱらつく様な季節になると、母はチロを車庫の中で飼うようになりました。 「ここなら風も当たらないし、少しは暖かいからね」 私は母の優しさを感じましたが、何故今まで外で飼っていたのに、今年の冬に限って車庫で飼うのか不思議に思うことはありませんでした。
二月になると使い古した毛布を犬小屋に敷いてやり・・・・
春にはチロはいませんでした・・・・・
私が学校から帰ると犬小屋が片付けられており、私は春が近くなったから、また庭に移したのかと思いました。 すぐに友達と遊びに出かけた私が、四時近くに帰ると 「お散歩はいいからね」と母に言われました。
入院しているとの事でした。
その日の夜私は、父に呼ばれ話を聞きました。 実は入院ではなく、今朝早くに亡くなった事を・・・
すぐには理解できなかった私は、何時になったら会えるのか父にたずねたそうです。 父は生き物の死について私にゆっくりと語ってくれました。
私は妹にはまだ言わないでと、泣きながらたのんだそうです。 きっと、これ程悲しい思いを、まだ幼い妹にはさせたくないと思ったのでしょう。
私は泣きながらチロに手紙を書きました。 思い出せる限りの思い出と、思い出せる限りのありかどうを・・・・・
給食は残さず食べましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どんな食べ物が苦手でしたか?
今もそうですか?
私は豚肉が苦手でした。 実は幼稚園の頃、母の田舎で養豚をしている農家に豚を見せてもらいに行ったことがあり、その時は初めて見る本物の豚の迫力に圧倒されました。 胴などは私の何倍もあり、上に乗ってもびくともしない程の大きさに驚いたものです。やんちゃだった私は豚の胴を靴で軽く蹴り、その硬さに再度驚きました。
豚舎の中で遊んでいるうちに、だんだん豚達に囲まれた私は急に怖くなり急いで外に出ようとあせりました。べそをかきながら外に出ようとする私に、豚たちは容赦なく道を塞ぎ、必死で押しやろうといくら力を出しても彼らには通用しませんでした。 その時です、私のお尻を一頭の豚が噛んだのです。
噛んだといっても歯を立てた訳ではなく、軽く咥えた様な形ですが、その時の私には充分過ぎるほどの恐怖でした。
その日以来、未だに豚肉は苦手です。
小学校の給食には豚肉が頻繁に使われており、毎日の様に苦戦しました。 当事は残さずに食べないと、全部食べ終わるまで放課も、掃除中も食べさせられました。 私はある時は床に捨てたり、ある時は諦めて牛乳で飲み込んだりと、大変な毎日を送りました。時には先生の目を盗んで、ナフキンに包み家に持ち帰ったりもしました。その時は当然チロに助けてもらった訳ですが。 またある時などは、ナフキンに包んだ豚肉をポケットから出すのを忘れ、そのまま洗濯されてしまった事があります。 洗濯物を母がたたんでいた時に、その物体がポケットから発掘され・・・・・ 大変な事になっていました。
私にとってはあまり楽しかった思い出のない給食ですが、でも今思うと、先の割れたスプーンやビンの牛乳、ステンレスの食器、ソフト麺、硬いパンが無性に懐かしく思えます。
貴方はどんな給食でしたか?
給食は楽しかったですか?
献立表を家に持ち帰り、お母さんに渡していた事を覚えていますか?
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