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作品名:貴方の物語 作者:

第1回   1
赤ちゃんの頃の写真はお持ちですか?

お手元にあれば、一度ご覧になってみて下さい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どんな表情ですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

目は開いていますか?何を見ていたのでしょうか?



誰と写っていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一緒に写っている方は、貴方と一緒に写真に入り誇らしげな笑顔でしょう。

誰に抱かれていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
抱いている方はカメラの方ではなく、貴方の方を向いていませんか?
抱く手はぎこちなくはないですか?





今の手からは比べようもない程の、小さな手、さわるのがこわい程の小いさな小いさな指、ほんのり乳の香りのする柔らかな、透き通る様な肌、それが貴方です。

たとえ小さくても、家族にどれ程大きな幸せをもたらした事でしょう。

たとえ小さくても、どれだけ大きな希望を持たれていた事でしょう。





貴方が生まれた時、お父さん、お母さんはどれだけ喜ばれたでしょう。

その頃のお話は伺った事はありますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



お父さんは仕事場から駆けつけられた事でしょう。
お母さんも、きっとその日の事は生涯忘れられないことでしょう。

お腹にいる時はどうでしたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お母さんは、アワビは召上りましたか?
ご両親は、お腹の中の貴方にどんな言葉を掛けられましたか?





貴方のお名前は、ご両親から貴方への最初の贈り物でした。
その贈り物を貴方に贈る日を、ご両親はどれ程楽しみに待ってみえた事でしょう。

どんなお名前ですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どんな思いが込められていますか・・・・・・・・・・・・・・

貴方はご自分の名前は好きですか?
大切にして下さい。




 私の名は父が付けてくれたそうです。昭和生まれなので昭の字を入れるかどうかで、祖父ともめたという話しを後になって聞きました。

父にとっても初めての子供であり、祖父にとっては待望の初孫ということもあり、お互い譲り合うことが無かったそうで、私が生まれてから数日間は双方の考えた名前を、なんとか付けてしまいたいという攻防があった様です。

 いかに自分の考えた名前が良いかを母や祖母に力説し、父は自分の子だから自分で決めると譲らず、祖父はとにかく姓名判断の先生に診てもらった事を拠り所にし、どっちの名前がこの子を幸せに出来るかと互いに一歩も譲る事は無かった様です。終いには、自分の考えた名を看護婦さんや祝いに来る人に披露したそうです。
 看護婦さん達は、各々聞かされた名前で私を呼ぶ様になってしまい、「どっちが本当の名前なの?」と母に尋ね・・・・混乱を呼びました。


二つの名を持つ我が子を、母はどう思った事でしょう?

当時の母の気持ちを尋ねた事があります。
母は「私はもう一つ別の名前を考えていたけど、結局言い出せなかった。」と言い、淳と書いてジュンと読む名を考えていた事を、これなら男でも、女でもおかしくないので、妊娠中に両様の名前を考えておいた事を明かしました。
「どっちが出て来るか分かんないからね。両方に使える方が良いでしょ。」
母らしい言い分でした。
「名前なんて慣れだから何でも一緒、どんな名前でも母さんが産んだ事には変わりないんだから。」
 産んだ者の余裕でしょう。
父や祖父は名前を付ける事で、私の誕生に参加したいと言う気持ちが有ったのでしょうか・・・・

ともあれ、父と祖父のそんな二人の対決に終止符を打ったのは祖母だったようです。祖母の提案で私に二つの名を呼んで聞かせ、反応の良かった方にしようと言うことになったそうで、父の考えてくれた名に決まったそうです。

後で聞くと実はそれは祖母の作戦勝ちだった様で、
祖母自身は祖父の考えた名よりも父の考えた名の方が気に入っていたため、私に名を呼んで聞かせる時にこんな作戦に出たそうです。

 二つの名で呼び掛ける時に、祖父の考えた名は祖父自身に呼ばせて、父の考えた名は母に呼ばせたそうです。
しかも私が乳を飲んでいるときに・・・・・
 どちらが勝つかは明らかで、結果祖母の思いの名に落ち着いたという経緯の様です。

 そんな家族の思い出の詰まった名前ですが、私自身幼い頃は、名前をよく読み間違えられるので嫌でした。
特に病院で違う読み方で名前を呼ばれた時など、返事をして良いものか、何故だか恥ずかしさがこみあげてきたものです。もちろん「読み方が違います」などと言えるはずもなく。
ただ恥ずかしそうに下を向いて受付に突進していったのを覚えています。

 しかし大人になるにつれ、いつからか、間違えられる名前にも慣れ、今ではその名前にも自然に反応できるようになりました。名前を聞かれたときなど漢字を説明するのに自分からもう一つの名前を言うこともあります。


パソコンで自分の名を書く時なども、もう一つの名で入力する癖が付いています。




今貴方の名前を呼んでくれる方は、あなたの周りに何人みえますか?

私たちは大人になると、互いを名字で呼び合います。

幼稚園の頃、小学校の頃・・・何と呼ばれていましたか・・・・・

中学の頃、親しい友達からは名前で呼ばれていましたか・・・・



子供の頃は頻繁に呼ばれたあなたの名前も、今はもう数える程しか・・・・

いつからでしょう名前をあまり呼ばれなくなったのは?

以前は名前で呼び合っていた親しい友人さえも、いつしか苗字で呼び合うような関係になり・・・・・・・・






今はもうご家族から、お父さん・お母さんと呼ばれることの方が多いですか?

いずれはおじいちゃん・おばあちゃんと呼ばれるのでしょうか・・・・・・

貴方は、どんな赤ちゃんでしたか・・・・・・・・・・・・・・・

よく泣きましたか?
お乳はよく飲みましたか?
病気はしませんでしたか?

ベッドの上で回っていたガラガラは覚えていますか?






 ひとたび貴方が泣きだすと、お父さんはドキドキされ
お母さんは優しく、貴方を抱き上げられました。
貴方は幸福のゆりかごの中で再び眠りについた事でしょう。




 貴方の毎日の食事はお母さんのお乳でしたね。
オムツを替えてもらい、身体を洗ってもらい。
泣いた時には、優しく抱き上げてもらったでしょう。

 想像できますか?
貴方自身が赤ちゃんだった時の事を。
創造してみて下さい、貴方が抱上げられ、負ぶって貰っている姿を・・・・・・


 私の生まれた頃、我が家では初孫の誕生に沸き返っていました。
母は実家が遠く、結局里帰りせずに私を産んだ為、私は病院を出るとすぐに家に入りました。そして昼間は母と祖母に、夜には父も加わり奮闘してくれた様です。
 母は乳の出も良く、私もよく呑み、よく寝、よく泣いたそうです。
乳の沐浴の腕も上がり、毎晩の沐浴は乳の役目でした。

ただそんな中、祖父だけは無関心を装い、私を抱き上げることもほとんど無かったそうです。
昔気質の祖父にとって、孫にデレデレする姿を家族とはいえども、家族だからこそ見せることに抵抗があったのでしょう。


 そんなある日、母と祖母が別の部屋でくつろいでいると、なにやら私の寝ている部屋で物音がしたらしく、怪訝に思った二人が顔を見合わせ様子を見に行くと、そこには誰もいないことを確認した祖父が嬉しそうに私を抱き上げ、小さい声で「おじいちゃんですよ」と話しかけていたそうです。それは嬉しそうで。

普段、仏頂面のそんな祖父の顔は、二人とも今まで見たことも無かったそうです。
二人は面白がり、普段の仕返しとばかりにニヤニヤしながら祖父に声を掛けたそうです。

「かわいいでしょう」

その時の祖父の顔は紅葉し、おたおたして大変な慌てぶりだったそうです。
終いには、「何で一人にしとくんだ。何かあったらどうするのだ。」と怒りだしてしまったそうです。

今でもこの話をする時の母は大変楽しそうで、その時の奇襲の成功ぶりが伺えます。
祖父は言うとその件以来ふっきれたように、私を可愛がり、一旦抱き上げると一時間は離さなかったそうです。


 初めて立ち上がり、初めてしゃべった時、きっとご家族にとって忘れられない出来事だったに違いありません。



おじいさん、おばあさんは目を細め
いつ転んでもいいようにと貴方の後を追われた事でしょう。

貴方は両手を広げバランスをとりながら、一歩一歩、ゆっくりと歩を進め始めました。



その頃のお話を一度伺ってみて下さい。
照れくさいかも知れませんが聞いてみて下さい。
きっと、遠い日の温かい思い出を語って下さる事でしょう。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




家には私が鏡餅を両手で抱えて立ち上がり、一歩を踏み出す瞬間をおさめた写真が残っています。
この地方では昔からの風習で、子供が歩き始めると餅を持たせる風習があったらしく、その写真もそんな一コマとして残っています。


 写真の中の私は顔よりも大きな鏡餅を、両手でしっかりと抱き上げて、正面に座る祖母に向かって歩いています。
 正面に座る祖母の横では、大きく両手を広げた祖父が、こっちにおいでとばかりに身を乗り出している様子が残っています。カメラマンは父だったそうで、そういえば私の幼い頃の写真には気の毒なほど父は登場しません。昔はカメラも扱いにくく、どの家でも犠牲者はお父さんだったのでしょう。


その後に撮られた祖父とのツーショットでは、祖父の膝の上で嬉しそうに菓子を食べている私の笑顔が残っています。祖父は本当に優しそうな目をしており、父の言うような頑固な昔気質の様子はみじんも見られません。


実は私は祖父と遊んだ記憶が無く、この写真の祖父が唯一の二人で写った写真となってしまいました。

ある時祖母がポツリと漏らしました。
「私だけ二人の孫に囲まれて、おじいさんに申し訳ない。」
本当に申し訳なさそうにつぶやいた、小さな背中を覚えています。



お宮参りの写真はご覧になったことがありますか?
写真の真ん中にはご家族の宝物が写っているはずです。


一緒に写ってみえるご家族はどんな笑顔をしてみえますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どんな事を思ってみえたのでしょう?





小さい頃、ご両親からは何と呼ばれていましたか?

・ ・・・ちゃん?
・ ・・・くん?



今でもそう呼ばれる事がありますか?

ひょっとしたらご両親の中では、貴方はいつまでもその頃のままの貴方なのかもしれません。




妹も何年か前に母親となり、その幼い孫の名を呼ぶときに。
母はたまに「あきちゃん」といいます。
実はそれは妹の名前です。


私がその事を指摘すると、母は決まって「そんな事言ってないよ。」とにやけて言いますが、その後で
「子供はいつまでたっても子供だから間違えたってしかたないのよ。」と言い訳をします。

母にとっては、妹はいつまでたっても、幼かったあの頃のままなのでしょう。
妹は年を取ってからの子供だったせいか、また今はたまにしか実家に来られないせいか、一番可愛かった頃の印象が強く思い出されるのでしょうか


 今はたまにしか顔を見せない妹ですが、たまにやって来ると、父も母も実に嬉しそうにします。
 初めは孫を連れて来るから、孫に会えるから嬉しいのだろうと思っていましたが、どうやら孫が可愛いだけでなく、妹にも会いたい顔を見たいという思いも強い様です。

 嫁いで行き、普段は会えない妹が元気にしているか、幸せにしているかという想いがあり、彼女が家にいた頃よりもむしろ今の方が、両親は妹の事を子供扱いしているように思われる事があります。
 
 
 

その頃の貴方の家の様子は覚えていますか?

どんな部屋で寝起きしていましたか?

今でもその家は、部屋は残っていますか?



 




一番のお気に入りの物は何でしたか?
いつも、どこに行くにも持っていたものはありましたか?
覚えてみえますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


おしゃぶり?
人形?


小さい貴方にとってそれはお母さんの代わりだったに違いありません。








 私の一番のお気に入りは毛糸で編んだ帽子だったそうです。
母が私のために、私がお腹の中にいた頃に編んでいてくれた帽子だそうで。

古い写真の中の私は帽子を手で握りしめ、その端を口に含んで幸せそうに微笑んでいます。
きっと母のにおいに包まれて、幸せに包まれているのでしょう。


寝るときも、外に出かけるときもその帽子だけは握って離さなかったそうです。
その帽子を取り上げると私は火のついたようにぐずり、泣いたそうです。
幼稚園に上がるまで私はその帽子を手放すことは無かったそうです。
そんな私のために、母は私が寝付くのを待って、毎日帽子を手洗いしてくれていたそうです。

 私の記憶にも薄ピンクの色あせた帽子があります。
ただ母に聞くとそれは薄い青色だったそうで。
しかも聞く度に、薄い黄色だったとか、白色だったとかずいぶん言い分が変わります。
父に聞くと覚えていないとのことで。当然弟は知る由もなく。

残念なことに、その帽子を握った写真は白黒で、色の謎は迷宮入りとなっています。

どんな方にかわいがってもらいましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



おじいさん、おばあさん・・・・・・・・・・・・・・


おもちゃ、お菓子はもらいましたか・・・・・・・・・・・・・


どんな物でしたか?


どこで買ってもらいましたか?


その頃の品物は何か残っていますか?


その頃の思い出にある風景は、今も町の中にありますか?

当時は町内におもちゃ屋さんがあり、クリスマスが近くなった頃から毎日通っていました。何をしていたかと言うと、毎日キャラクターの付いたバケツを見に行っていたのです。
 それは母が「サンタさんはちゃんと欲しいプレゼントを持ってきてくれるよ。」の一言でした。私はサンタさんに思いが伝わるように、毎日毎日バケツを見に行っていたのです。

「こんにちは。」「おもちゃ見せてください。」
そう言って毎日訪れていたそうで、町内で顔も見知った玩具屋のおばさんは
「いらっしゃい。」
と言って迎え入れ、たまにお菓子を頂いたものです。

 私は決まって店内を一周し、まるで新しい商品はないか確認するように、ゆっくりゆっくりと見て回ったそうで、その後で決まって入り口近くの定位置に立ち止まり、じっと棚の上を見上げていたそうです。

私はバケツをじっと見つめ、このバケツがもらえますようにとお願いしていました。

 その日のお願いが終わると
「見せてくれてありがとう。」「さようなら。」
と奥にいるおばさんに挨拶して返りました。

ある時おばさんが
「クリスマスまで無くならないように、ちゃんと奥に一つ取ってあるからね。
心配いらないよ。」と私に声をかけると
「サンタさんはここで買うの?」と聞き返したことがあったらしく、その時はそうとう困ったそうです。
「ずいぶん頭の回転の速い子だね。」と後日母に世間話のついでに漏らされたそうです。



家では新聞広告の裏に、赤いキャラクターバケツの絵を毎日の様に描き、何とかサンタさんに願いが届く様にと頑張りました。

 後で聞いた話しではサンタさんはもっと高い物をくれようと臣っていたそうで、ただ私が余りにもバケツを毎日見に行っている事を、おもちゃ屋のおばさんから聞いたサンタさんはバケツに変更してしまったそうです。


クリスマスの翌日、朝起きると枕元に赤いバケツが置いてあり、私はうれしくてうれしくて、急いで母と祖母に見せるために階段を駆け下りました。
 その日から何日かは食事の時も、お風呂の時も、寝る時もバケツをわきに置いて生活しました。
 次第にキャラクターの絵もひび割れてきて、それでも大事に持って歩きました。
きっと半年近くはずっと持っていたのではないでしょうか。
 最後の記憶は、お風呂で渡し専用のバケツとして活躍していた姿です。その頃はキャラクターはほとんどはがれ落ち、父に黒のマジックでキャラクターの名前を書き足してもらい使っていました。




 何と数年前、庭の倉庫を整理したところ、出てきました。
キャラクターのプリントはひび割れはがれ落ち、父に書いてもらったマジックの字も薄く茶色に変色して、取手の無くなった赤いバケツが。
私の思い出より随分と小さくなってしまった赤いバケツでした。
今の値段で言えば、数百円で買える様なバケツですが、大事にとっておく事にし、綺麗に洗ってしまってあります。


 十年経ったらまた見ようと・・・・・・

幼い頃、どんな物をねだりましたか?


買い物に行ったとき?


誰にねだりましたか?
お母さん?
おばあちゃん?



 スーパーなどでたまにお菓子をねだっている子供を見ることがあります。
必死でしがみ付き、大声で泣き、時には床に倒れこんで駄々をこねている姿は
何十年か前の貴方の姿かもしれません。


覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


想いが通じなければ泣けば良かったあの頃を
例え想いどおりにならなくても、大声で泣いた後はけろっとしていたあの頃の事を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・







幼い私は欲しい物があると、おばあちゃんにねだる知恵を付けていました。
父や母は誕生日くらいしかおもちゃは買ってはくれず、おばあちゃんなら何でも買ってくれるような、何でも許してくれるような気がしたのです。

ある時などは当時出始めの人生ゲームをねだり、妹と二人で大事に使う約束で手に入れたことがあります。
それは当時の私にとっては誕生日のプレゼントのレベルを超える程の玩具でした。買って帰った時には父や母に見付からない様にと、こっそり押入れの中にしまっておきました。

その夜のことです、私は父に呼ばれ何故こんな高価な物を父に無断で買ってもらったのかを糾弾されました。
私はまだ一度も遊んでいないゲームを、封さえ切っていないゲームを前に、大粒の涙を流したものです。
と同時に、祖母に迷惑が掛かるのではないか、自分がねだった為に祖母も叱られるのではないかと胸が痛みました。

 当時、父に叱られると言う事は私にとって一番怖いことであり、私の為に祖母が叱られてると思うと申し訳なく、また祖母が私のようにビンタをされていると思い、祖母が可哀想でたまりませんでした。




 大人になり、その話を父にすると、「あんな怖いお母ちゃん(祖母)を叱れる分けないだろう」と笑いながら、懐かしそうな顔をします。

 どうやら祖母は子供(父たち)にとっては厳しい母親だったようです。


遊びには連れて行ってもらいましたか・・・・・・・・・・・・・・

どこへ行きましたか?
海?
山?
遊園地?


お昼は何を食べましたか?


泊まった宿の部屋は今でも思い出せますか?




旅行に行く前日の思い出は何かありまか・・・・・・・・・・・・・・
旅行先でねだったお菓子は?おもちゃは?



写真の中の貴方は楽しそうですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・





鳥羽に家族旅行に行った時の事ですが
最初はバスに乗りたがる私に会わせてバスで移動していましたが、夕方になりバスも混みだし、幼い妹もいたためタクシーに乗ることになりました。
タクシーを嫌がる私は無理矢理抱きかかえられてタクシーに乗せられました。

私は変な思い込みをしており、よその人の運転する車に乗るとその人の子供として貰われていってしまうと思っており、弟の方が大事だから私は捨てられるのかと思い大声で泣いたのを覚えています。
その思い込みの原因になったのは当時、児童の誘拐事件があり、よく母から「よその人の車に乗ると、もう家に帰れなくなるよ。」「お父さんの車以外は絶対に乗っちゃ駄目よ。」と言われていた事が影響したのではないかと思います。
私は言いつけを守り、友達の家に遊びに行った時、急に大雨になって傘も持っていない私に「車で送ってあげるよ。」と言う言葉を掛けてくれたおばさんの言葉に背を向けて、雨の中走って帰った事もありました。


タクシーの中の私は、お昼に食べたお寿司の中の玉子を弟にあげなかったことや、お伊勢さんでお参りをした時にふざけてクスクス笑っていたこと、朝出かけるときに帽子を被るのを嫌がったこと。
子供会では、まだ小学校に上がっていない妹がついてくる事が何故か気恥ずかしく、ついて来る事を嫌がり、母を困らせた事。着いてきた妹に、配られるお菓子を分けてやらなかった事、後悔が頭の中を巡りました。
「もうわがままは言わないから、お父さんの子供のままがいい」と訴えた事を覚えています。


大きくなってから、その話しを母にすると「あんたは昔から頭の固い、思い込みの激しい子だったからね。」と笑われました。




 成人した頃に、この鳥羽へ行った時の写真を目にすることがあり、何枚かの写真を見ました。良く見てみると、当事にしては随分と立派なホテルで、綺麗な部屋に泊まっていた事が伺えました。
 部屋は写真で見る限りでは、二間続きの、露天風呂つきの和室でした。
確かに今思えば、宿はいつも綺麗で、広く、料理は食べきれない程の料理が所狭しと並んでいた事を覚えています。

 別に我が家は特に裕福という訳ではなく、ごくごく一般的な家庭でした。
しかしその割には随分と良い宿に泊まったものだと父に尋ねた事がありました。

 すると私の予想どおり、随分と良い宿に泊まっていたそうで、それには訳があり・・・・・・・・・
 父は柔らかな表情で語ってくれました。

宿泊の資金は祖母が助けてくれていた事。
それは当時すでに亡くなっていた祖父の思いだった事。

 祖父は父が幼い頃にあまり一緒に居てやれず、随分と寂しい思いをさせたという気持ちがあった様で、私が生まれてからはその分も私達を可愛がりたいという想いが強かったそうです。

 ただ甘やかすために、贅沢をさせるために宿代を助けてくれたのではなく、家族揃って旅行に行けるのも数えるほどしか無いだろうと、私達が大きくなればもう友達と旅行に行ってしまい、家族で揃ってなどという機会は本当に数える程だろうという事もあり、一回一回の旅行を少しでも大切に、楽しんで欲しいという想いだったそうです。

 事実我が家では年に一回の旅行が定番でしたが、家族揃っての旅行は私が中学に上がった頃から次第に無くなりました。部活やら何やらで私の都合も付かなくなり、特に妹が中学に上がってからは四人揃っての旅行には行かなくなりました。
数えてみれば祖父の予想どおり、十回程度の旅行でした。

 今となっては四人で旅行に行くことは難しいでしょう。
私にも妹にも家庭があり、四人だけでの旅行は考えられません。

 皆で集まり会食したり、妹夫婦が子供を連れて泊まりに来ることはあっても、四人だけで食事をする事はもう無いでしょう。
 上手くは言えませんが、祖父はこうなる事を予想して、今だけ味わえる幸せを大切にさせてやりたいと思ってくれていたのでしょう。

おじいさんやおばあさんに、叱られたことはりますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お父さんに叱られるのとはチョッと違った感じは覚えていますか?


つないだ手の感触、おぶってもらった背中の温かさは記憶に残っていますか・・・・・・・


お父さん、お母さんとも違った安心感があった事でしょう。

今もご健在ですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




おじいさん、おばあさんとの思い出は何がありますか?
幼稚園の頃・・・・・・・・・・
小学校の頃・・・・・・・・・・


一緒に写った写真は何枚ありますか?
久しぶりにその頃の写真を探してみてはどうでしょう


写真の中にはどんな世界が広がっていますか?


私が小学校の頃、祖母と名古屋のデパートへ買い物に行ったときのことです。当時の私にとっては、年に何回か連れて行ってもらえる名古屋駅周辺は一番の都会で、駅周辺の地下街や大きな大きな百貨店は、まるで夢の国の様に思われました。よそ行きの服を着て、真新しい帽子を被り出かけたものです。

その日は当時まだ残っていた路面電車に乗り、駅から少し離れた場所にあった百貨店へ行きました。お昼近くに出かけたため、百貨店に付いた頃にはもう十二時をまわっていたと思います。
私達は展望レストランにと急ぎ、何とか空席を見つけることが出来ました。

ところで私はレストランで子供用の椅子に座るのが楽しみでした。
大きな店に行くと、背丈の低い子供がテーブルに届きやすいようにと子供用の高い椅子が置いてありました。
 そんな私ですか、小学校に上がり背も高くなり、もう椅子の世話になる事は無くなっていました。
「普通の椅子でいいの?」と尋ねる祖母に、胸を張って頷いた事を覚えています。


 テーブルにメニューが置かれ、喜び勇んだ私はメニューの中に没頭しました。
幼い頃はメニューの写真を見るだけでわくわくドキドキしたものです。

しばらく悩んだ後、お子さまランチを勧める祖母に反抗して、カレーライスを頼みました。いつまでもお子さまじゃないという意識と、写真にあるカレールーがご飯とは別の容器に入っていて自分でカレーをすくい掛けるスタイルが目新しくハイカラに映り、祖母の「辛いから止めなさい」と言う忠告を聞かずに注文してしまいました。


 運ばれてきたカレーは家で食べるカレーとは全く別の食べ物に写りました。
銀色の変わった容器に入ったカレールー
その容器には一人用のおたまの様な物が入れてあり
また、お皿の中央には綺麗に盛り付けられた白いご飯

私はどうやって食べれば良いのか悩みました。
全部一度にかけてしまった方が良いのか・・・・
それとも少しずつかけた方がよいのか・・・・

祖母はルーを一杯すくい、ご飯にかけてくれました。
「少しずつお食べ、辛いから全部かけちゃわない方がいいよ。」

一口食べたカレーは辛く、苦いほどでした。
私は大人のカレーを口に運びながら、祖母をちらちら見ました。
 

 祖母なら私の代わりに食べてくれるだろう。
いつもならこんな時は、そろそろ交換してくれる。
祖母の頼んだうどん
私は半分ほど食べたところでスプーンを置き待ちました。


しかしその日の祖母は「自分で頼んだのだからちゃんと頂きなさい」と
いつもの様な救いの無い事に少なからずショックを受けた私は、しぶしぶ我慢して口に運んだ物です。

そしてしばらくすると、祖母は自分のうどんを分けてくれました。そして「お店の人に残してすいませんと誤りなさい。」と優しく言って聞かせてくれました。その時何故祖母が、私の残してしまったカレーを食べてくれないか少し不安になりました。やっぱり祖母は怒っているのか、もう私を連れてきてくれないかもと。


幼い頃デパートに行った時は楽しかったでしょう・・・・・・・・
どこのデパートだったか覚えていますか?



どんな事を覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・


レストランで食べたお子様ランチは覚えていますか?

子供用の椅子に座って?


帰りには何か買って帰りましたか?
お菓子?
夕飯のおかず?


どなたと行きましたか・・・・・・・・・・・・・・




まだそのデパートは残っていますか?
昼食が終わると、祖母は私を連れ子供服売り場へ訪れました。
「暖かそうな上着がないかねぇ」と店員さんに何点かのジャンパーを見せてもらっていました。

私はもうすぐ春なので、ジャンパーではなく運動靴が欲しかったのですが。
お昼を食べに行く途中通りかかったフロアーで、当時お気に入りのキャラクター付きの靴が目に付き、何か買ってもらえるならこの靴をおねだりしようと心に決めていたのです。

「もう暖かくなるし・・あんまりジャンパーは着ないと思うよ。」
「靴が小さくなったから靴は?」
見上げる私に祖母は
「靴もいいけどすぐ小さくなっちやうからね・・・ジャンパーなら大きいの買っても袖を曲げて着れるし」
先程祖母の言うことを聞かずにカレーを注文した手前、黙って大きめのジャンパーを試着しました。

それは胸にワッペンの付いた、青い色のジャンパーでした。
裏地がふわふわで、表地も手触りがよく、羽織ってみるとその軽さに驚きました。子供の目にもいかにも高価な物だという事が分かりました。
「かっこいいけど、これ高そうだよ・・・・」

「そんな事心配しなくていいの、似合うし暖かそうだからそれにしたら。」
祖母は優しく微笑み


「遠慮する程大きくなったんだね・・・・」
まるで赤ん坊の頃の私を懐かしむかのように、私の頭を撫でてくれました。



手が出ない程長い袖を高く挙げて祖母に見せると、祖母は「今は少し大きいけど、今度の冬やその次の冬には丁度よくなるよ。」
「寒い時はこのジャンパーを着てね、風邪をひかないようにね。」
と私の手を握りました。

祖母はジャンパーの入った紙袋を受け取りながら
「靴欲しかったのでしょ、三階だったかな?」
私は二つも買ってもらう事に遠慮して
「今度で良いから」「また来ようね。」と繋いだ祖母の手を握り返しました。

「何かお菓子か、夕飯のおかず見ていこうか?」
祖母は私の手を引いてエレベータへ向かいました。


 帰りの電車の中では取り留めの無い話を・・・・・・・・・・・
学校はたのしい?  大きくなったら何になりたい?
お友達とは仲良くしてる?
電車の窓からは夕暮れが見え
「今日は楽しかった・・ありがとね」と微笑んだ祖母が印象的でした。


 後で知ったのですが、祖母が昼食の時に、私の残したカレーを食べてくれなかったのには訳があり。
祖母は胃の病気が悪化していたらしく、それでも入院前にどうしても私とデパートへ行きたいと・・・・・・・・

その日の三日後に入院した祖母に、私はジャンパーを着る姿を見てはもらえませんでした。


 祖母は亡くなる前に母にお金を渡して、私に靴を買ってやって欲しいと頼んだそうです。

お兄さん、お姉さん・・・・・・・・・・・・・・

けんかはよくしましたか・・・・・・・・・・・・・・・・

どんな事でけんかしましたか・・・・・・・・・・・・・

よく泣きましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・

弟、妹はかわいがりましたか・・・・・・・・・・・




兄弟でどんな話をしましたか・・・・・・・・・・・・・

おもちゃの事、お菓子の事?

遊びに行く相談?

勉強の事?

夢?





両親は共働きでした。
普段は母が二時過ぎには帰ってきて、私達をむかえてくれるのですが、どうやらその日は、仕事が急に長引いたようで、私も知らされていませんでした。
妹が小学校一年生の頃だと思います。

ある日私が学校から帰ると、妹はガレージで寒そうに座り込んでいました。
私も鍵を預かってはおらず、家に入る術はありませんでした。
当時の我が家のガレージは、家の横に立てたシャッターを、開けっ放しにした倉庫の様なプレハブ造りの物でした。

季節は初冬か晩秋だったと思います。
寒そうにしている妹を見かね、どこか窓の鍵が開いていないものかと、家の周りを回ってみましたが、どこも重たく閉まっていました。
テレビでよく見る様に、植木鉢の下に鍵が無いものかと探しましたが、テレビの様にはいきません。
二階の窓ならひょっとしてと思い、ガレージ横の塀に登り、そこからガレージの屋根へと、そして二階の窓に近づきました。

 全てが無駄に終わりガレージに戻ると、「大丈夫?」と声を掛ける妹の手は寒そうに強く握られ少し震えて見えました。
 塀に登りガレージの屋根に登る私を、心配そうに見上げていた赤い頬が印象的でした。
 
 私と違い身体が小さく、色の白い妹はよく風邪を引き
幼い頃の彼女の印象は、少し身体の弱い子供でした。
 妹が風邪をひくと決まって高い熱をだし、苦しそうに横になっている姿を見るのは辛く、彼女が風邪をひくと私はいつも氷枕を作ってやり、母は暖かい卵酒を私の分も作ってくれました。

私は座って寒そうにしている妹に「もうすぐお母さんも帰ってくるからね」と元気づけて励ましたものです。

妹の背負っていた大きすぎる程のランドセルを下ろしてやり、スカートから剥き出しの足をさすってやりました。

足は冷たく、かさついた足は細く、小さく感じました。
近くにあった古いカーテンで弟を包んでやると「暖かいけど少し臭い」と笑い、初めて笑顔を見せました。
私はもっと何か暖かくする術は無いものかと辺りを探し始めそして、コンクリートに直に座っている妹を座らせてやれる物を探しました。

近くにあった灯油缶に座らせようと思い灯油缶を引きづって、壁の近くまで移動させました。中には半分ほどの灯油が残っており、灯油独特の匂いが手に染み込んで来ます。
それでも何とかこの上に座らせてやればと思った私は、お尻が汚れないように、少しでも温かいようにと、来ていたジャンパーを座布団代わりに掛けて座らせる事にしました。

ちょこんと座る妹は、暖かさよりも私が面倒をみてくれている事に安心したのでしょう、私に寄り添い静かに微笑みました。



それから間もなくして帰った母が、目に涙を溜めて「ごめんね、ごめんね」と声をかけてくれた事を覚えています。

そして「大事にしてたのに、もう着れないかもしれないね・・」
と、灯油が染みてしまったジャンパーを見つめていました。

祖母に買って貰ったジャンパーでした。

ご両親とは、ご兄弟とは、いつまで一緒にお風呂に入りましたか・・・・・・・・・・・・・・

いつまで同じ布団で寝ましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

早く寝なさいと言われたことはありますか?

私は毎日のように言われていました。

寝るときには電気は消しましたか?



私はスモールライトが点いていないと恐くて眠れませんでした。
ある時ライトが切れて、真っ暗な中で寝なければならなくなった時には、布団の中に懐中電灯を持ち込もうとして母に叱られたものです。
 高いところも平気で、ゴキブリも恐れなかった私ですが、唯一幽霊だけは怖く。
見たことはありませんが、絶対にいると思っていました。
 幼稚園の頃でしょうか、‘寝ない子はだれかな’という絵本を読んだことがあります。夜遅くまで起きているとお化けが出てきて、お化けの世界に連れて行ってしまうといったストーリーだった様に記憶しています。
その絵本には白いシーツを頭からスッポリト被った、黒く大きな目をした西洋のお化けが描かれていて、小さな女の子がさらわれて行く様子が印象的でした。
私はその絵本を読んで以来、とにかく暗い所、お化けや幽霊の話が大の苦手でした。夜遅くおしっこをしたくなった時など最悪で、とても一人ではトイレに行けず、父や母の寝室まで独りで行くことも出来ず、隣に寝ている妹を起こすのは忍びなく、結局泣きながら一人でトイレに駆け込み、目をつむって用を足したものです。
 なにせ便器の中から手が出てくるような気がして・・・・・




どんな夢をみましたか?

空を飛ぶ夢?

何かに追いかけられて逃げる夢?

おしっこをしている夢?
おねしょをするのは、決まっておしっこの夢を見たときでした。



私だけかもしれませんが、子供のころにはよく空を飛ぶ夢を見たものです。
でもふと考えてみると、大人になってからはあまり見た記憶がありません。
飛べるわけが無い、飛べる筈が無いという既成概念が強く働くためでしょうか?

 できる事なら夢の中にいる時くらいは子供の頃に戻りたいものです。




朝起きる時にはちゃんと起きられましたか?

遅刻せずに学校に行けましたか?


私は寝起きは良い方でした。
ただ妹はいつまでもぐずって、毎日泣きながら起きていました。
幼稚園も遅刻が多く、小学校に上がってからも毎日母を困らせていました。

今でも母が妹を子供扱いするのは、このころの印象が強いからかもしれません。





こんな話を聞いたことがあります。

子供の頃に未来の夢を見ることがあると。

私自身は経験も心当たりもありませんが

貴方はいかがですか?
幼い頃に今のご自分の夢をご覧になったことはありますか?


妹も幼い頃、食堂で働く夢をよく見たそうです。
事実私も、妹からその夢の話しを何度か聞かされたことを覚えています。
大量のパンを焼いたり、沢山のゆで卵を作る夢や、沢山の人に順番に水を注いでまわる夢だったそうです。
 そんな夢を見た翌日は、よくままごとにつき合わされました。
家の庭には私の幼い頃からの砂場(畳半畳程のプラスチックの容器に砂を入れたもの)があり、そこで砂のご飯や味噌汁を食べました。
 私はあまりままごと遊びはしませんでした。むしろトンネルを作ったり、山を作ったり、砂の中に玩具を埋めたりと、家庭的な方では無かったのでしょう。
そんな私とは違い、彼女は器用に砂と水を混ぜ、型にはめてトーストやゆで卵も作って見せました。お母さんにもらった要らなくなった食器を使い、彼女の砂遊びは本格的なものへと進化し続けていきました。
 また夕飯の時などは、私達のコップにお茶を上手に注いでまわったこともありました。


今、彼女は夫婦で喫茶店を経営しています。
田舎のちょっと大きめな喫茶店です。近くには清洲城というお城があり、休みの日には観光客も訪れるようです。
彼女は朝早くから自家製のパンを焼き、コーヒーの香りの立ち込める店内で忙しくしています。
昼には自家製のホワイトソースを使った看板メニューで好評を博しています。


彼女のよくみた夢は正夢だったのでしょうか?

こんな経験を持つ彼女を、少し羨ましく思う私がいます。
 

ご家族以外ではどんな方との思い出がありますか?

親戚の方・・・・・・・・・・・・・・

近所の方・・・・・・・・・・・・・・

今でも近くにみえますか・・・・・・

お会いする機会はありますか・・・・・

幼い頃の貴方を知る方は、今でもきっと貴方のことを大切に思って下さっている事でしょう。




お友達のお母さんは、貴方の目にはどんな風に映りましたか・・・・・・・・・・・・

うらやましかったですか・・・・・・・・・・・・・・・・

でも、自分のお母さんが一番だった事でしょう。





近所にいつも野菜を下さるおばさんがいました。年齢も母と近かった様で、よく母と立ち話をしたり時には食事に行っていたようです。理由は知りませんでしたが、結婚はされていないようで、子供もいなかった彼女は私を本当にかわいがってくれました。おむつを替えてもらった事や、お風呂に入れてもらった事を母から聞きました。小学校の頃までは、たまに家にも遊びに行って、おやつをもらったり、夕飯を一緒に食べたりもしました。

ただ、中学にあがる頃から次第に私の方が疎遠になり、道で会って挨拶する程度になっていました。
おばさんは母に、「大きくなると、学校が忙しくてだんだん顔が見れなくなるね・・・」と寂しそうに言ったことがあったそうです。
その頃の私は部活動や友達との遊びに夢中でした。

そしてそんな頃に彼女が亡くなりました。

実は心臓に何かあったらしく、そのせいで結婚もされなかった様です。
そんな彼女にとって、私は実の子供のように思えたのかも知れません。

しかし入院の話を聞いた時も、最後に母に一緒に見舞いに行こうと誘われた時も、私は友達との約束を優先させてしまいました。

なぜあの時、一緒に見舞いに行けなかったのか、今思うと悔しくてたまりません。決して彼女の事を嫌いになった訳ではなく、親に逆らう様な子供でもなかったのですが、何故か気が進まず、何故か気恥ずかしい様な気持ちになってしまい、結局一度も顔を見せることがありませんでした。本当に本当に残念です。
今では、たまに彼女のお墓に花を添える事しかできません。

私が花を添えている事は母も知らないと思っていましたが、最近になって、母に「今度行く時、遺書につれて行って。」と言われました。
今度一緒に行こうかと思います。

幼い頃に二人でおばさんの家を訪ねた時の様に・・・・・・・

初めてよその家にお邪魔したのはいつですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

見慣れた家とは全く違う様子に戸惑ったり、ドキドキしたり・・・・・・・・・・・・・・・・

よそでお泊りした時など、いつもと違う布団と枕がみょうに居心地が悪く、でもわくわくし
あまり寝付けなかった事でしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・




私は母の実家に泊まりに行くのが楽しみでした。特に夏に泊まりに行くと、夜は蚊帳を吊ってくれました。今はもうほとんど見ることがなくなりましたが、緑色の大きな大きな蚊帳の中は全く別の空間のように思え、何故か心が躍り興奮して寝られなかった事を覚えています。

 夜になりお風呂から出ると、祖母と母が布団をくっつけて敷き始めます。敷き布団の上にはバスタオルを敷き、蕎麦の実の枕が四つ並び終えるといよいよ蚊帳の登場です。天井から吊るし四隅を止め次第に夏の夜の空間が出来上がってきます。
 その空間に入るには幾つかの決まり事がありました。
・ 素早く入る
・ かがんで、姿勢を低くして入る
・ 一度入ったら出たり入ったりを繰り返さず静かに寝る



私たちはどれも守ることはありませんでした。トイレに行くと言っては出入りをし、入るときに立ったままの姿勢で、蚊帳を両手で大きく持ち上げては何度も何度も出入りを繰り返しました。
祖母は笑いながら蚊取り線香を炊いてくれたものです。

 蚊帳の中に入った私たちは更に興奮し、敷いてあったバスタオルが捲れ上がる程に暴れまくりました。
枕から蕎麦の実が飛び出たこともありました。笑いながら、はしゃぎ疲れて眠る私達に目を細め、祖母は何を考えていたのでしょう・・・・。
 
 あれ程の興奮を与えてくれた空間も、不思議と朝になるとその効果は消えてしまっていました。朝見る蚊帳はただの網にしか見えませんでした。朝日がまぶしすぎるのか、昨晩あれ程大きく見えた空間は狭く、魅力のない物にしか映らなくなっていました。





 夜の蚊帳と、朝の蚊帳。
一日の終わりと、一日の始まり。
名残を惜しむ空間と、外に広がる新しい一日。
そんな毎日を幾度となく繰り返し、私達の夏休みは過ぎていきました。









貴方にとって夏休みの終わりを告げる物は何かありましたか?





迷子になった事はありますか・・・・・・・・・・・・・・・

貴方はもうお母さんに会えないかと思いひたすら泣いた事でしょう。




 迷子にはこんな定義があると思いませんか。
迷子になった子供が、自分が迷子になったと認識しなければその子は迷子とは言えないのではないでしょうか。お母さんを捜したり心細く思わなければ、独りぼっちで知らない場所を歩いていても迷子にはなっていないんじゃないでしょうか。
 先日もテレビで迷子を捜して動転した様子で迷子センターに飛び込む母親を見ました。対して当の男の子はニコニコしながら係員と遊んでいました。
 

 私自身は迷子になったことはありませんが、小学六年の頃に潮干狩りに行った時、妹が迷子になった事があります。最初は二人、母にくっついていたのですが、砂浜を走り回る弟と一心にアサリを掘り続ける母との狭間で私は弟を見失ってしまいました。「お母さんはアサリとるから見ていてね」と言われた手前、母に言うことがためらわれ、一人でトボトボと捜し回りました。やがて半泣きになりながら砂浜を歩く私が迷子に見えたのでしょう、知らないおばさんが私を迷子センターに連れて行ってくれました。私は自分は迷子じゃないと言おうとおもいましたが、センターに行けば妹がいるかも知れないと思いそのままセンターに連れて行ってもらう事にしました。
 センターに着いた私は歳と名前、母の名を聞かれ私の名は砂浜に響き渡りました。その時の私は気恥ずかしさより早く妹が見つかるようにと思っていました。


 しばらくすると私の名を聞いた妹が、近くにいた人に訳を話してセンターまで連れてきてもらった様で、再会する事が出来ました。私はセンターの人にお礼を言って妹を連れて母のいるであろう場所まで戻りました。
 母はと言うと私の名が呼ばれたのは知っていた様ですが、六年にもなって迷子はないだろうと気にもしなかつたそうで、家に帰ると父に、迷子になった私を妹が迎えに行ったなどとあまりにも不名誉な報告をしていました。


 今でも私は迷子になり妹に迎えに来られたというレッテルが貼られたままです。
でもあの時、本当に迷子になったのは私だったのかも知れません。最近ふとそう思います。



今はもう迷子にならないと思います、でももし迷子になったら
でも誰かに側にいて欲しくなったら・・・・・
寂しくて、不安になって・・・・・・
誰かを探して・・・・・・・

そんな時は、ご両親がご健在なら迎えに来てもらってはどうでしょう。



セピア色の写真は何枚ありますか?・・・・・・・・・・・・・・

写真の中の貴方は笑っていますか?
何が貴方を笑顔にしたのでしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


しかめっ面ですか?
しかめっ面の貴方は手を硬く握り緊張していたんでしょうか、何に緊張したんですか・・・・・・・
それとも恥ずかしかったのでしょうか?何に恥ずかしかったのでしょうか・・・・・・・・・・・・


手には何を持っていますか・・・・・・・・・・・・・
大切に持っているものは貴方にとって宝物だった事でしょう。
手にしているのは、物ではなく人の手じゃありませんか?
大切な人の手を握り締めて・・・・・・・・・・・・


一緒に写っているのは誰ですか・・・・・・・・・・・
一緒に写っている方もまた、セピア色の時代だった事でしょう。


写真の中の貴方は何を夢みて、何を思っていた事でしょう・・・・・・・・・・・・・・・・




私の幼い頃の写真にはいつも乗り物が一緒に写っています。

乳母車に始まり三輪車、当時では珍しい足こぎの車、小学校に上がった頃からは補助輪付きの自転車が隣にあります。


私は乗り物が好きで近くに行くにも三輪車や自伝車に乗っていたそうです。ある時などスーパーの買い物に三輪車で付いていった私はそのまま店内に乗り入れようとして母に叱られた事があったそうです。

そしてふて腐れた私は三輪車でどこかに行ってしまい、母はどこに行ったか心配になり、買い物もそこそに家に帰り私を待ったそうで、途中私の行きそうな公園や神社も覗きながら家に帰った母は、いつまで待っても帰らない私を捜して再びスーパーへと向かったそうです。


その頃私は母のいなくなったスーパーに三輪車で乗り込み店の人に補導されていました。私の微かな記憶では、スーパーの駐車場で母が出て行ったのを確認し、喜々としてスーパーに乗り込んだ事を覚えています。そしてすぐにスーパーのおばさんに捕まり・・・・・母に叱られた事を覚えています。

初めて幼稚園に行った日の事は覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・

写真には、精一杯の笑顔の貴方が写っていますか?
お友達と写っていますか?

若いお母さんは一番のおめかしをして、写真を撮っていたのはお父さんでしょうか・・・・

私が幼稚園の頃の思い出に運動会があります。
運動会は市の体育館で行われ、沢山の父母の見守る中始まりました。
障害物競走で平均台を怖がって泣き出す園児や、大玉転がしで大玉の前に回り込み潰されそうになる園児などハプニングの連続だったようです。
 昼には母と祖母と一緒に鮭のおにぎりを食べた事を食べた事を覚えています。
当時の私は梅干が嫌いで、おにぎりはいつも鮭の塩焼きをほぐしたものでした。
その日は気温が高く暑かったようで、汗だくの私は昼に一度着替えさせられてしまいました。
周りの園児が運動着なのに自分だけ普段着のTシャツになってしまった私は、恥ずかしがって
「もう出たくない・・家に帰る」と泣いたそうです。
泣き顔の私を真ん中に、左右に母と祖母の笑顔の写真が今も残っています。

 結局はその後も運動会に参加した私は、最後の出し物のかけっこに出場しました。
今では足の遅い私ですが、幼稚園の頃は他の園児より身体が大きく走るのも早かったようで、トップで走ってきたようです。
記憶の中の私は、スタートした後走りながら母を捜し、ゴール手前の観客席に母を見つけました。
母は嬉しそうに手で“おいで、おいで”をしました。
母は早くゴールしなさいと言う意味で“おいで、おいで”をしたのだそうで・・・
しかし“おいで、おいで”をされた私は、ゴール手前でコースから逸れて、一目散に母の胸に飛び込んで行きました。
 今でも母は「生涯でたった一度の一着のチャンスだったのに」と笑います。

幼稚園の頃の思い出は何がありますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お絵かきはしましたか?
貴方の描いたお母さんの絵は、いつも笑顔だった事でしょう。

泣かされたことはありましたか・・・・・・・・・・・
泣いて帰った貴方は家でどんな言葉をかけてもらいましたか・・・・・・・・・

お遊戯はうまくできましたか・・・・・・・・・・・・

お友達はできましたか・・・・・・・・・・・・・・
お友達の名前は覚えていますか?
近所の子ですか?
お友達のお母さんの顔は?
 
 
 当時は近所には同い年の子がいなかったため、幼稚園で初めて同じ年の子と遊ぶ機会を得た私は、幼稚園が楽しくて仕方ありませんでした。ある時など、日曜なのに幼稚園に行くといって駄々をこねたそうです。私の幼稚園好きはそれに留まらず、家に帰ってからも再度幼稚園に行き滑り台やジャングルジムなどの遊具で遊んでいたそうです。
 

 あの頃一緒に遊んだ子供たちは、今どうしているのだろう・・・・・

 あの頃祖母と一緒に夕方まで遊ぶ私たちを、幼稚園のベンチで見守ってくれていたお母さんたちは
お元気だろうか・・・・・・

 あの頃私の周りにいた人たちにはもう逢うことは出来ないのだろうか・・・・・・・・

お迎えのお母さんを、貴方はどんな気持ちで待っていましたか・・・・・・・・・・・・
お母さんが見えた時、きっとうれしくてしかたなかった事でしょう。


雨の日に持つた小さな傘
小さな長靴

小さな麦藁帽



走っては、よく転んでいたあの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ひざ小僧はいつも傷がありましたか?
赤チンは塗りましたか?
一人で起き上がりましたか?



たまに ”おねしょ” をしたあの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
叱られましたか?
隠したりしませんでしたか?



砂遊びが好きだったあの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トンネルを掘りましたね。
山を作りましたね。
壊すのは好きでしたか?寂しかったですか?


当時はどんなテレビ番組を見ていましたか?
今でも記憶に残っている番組はありますか?

 父と公園に行った時だけ、ジャングルジムの天辺まで登ることが出来ました。
もし落ちても父が助けてくれると思うと安心できたのでしょう。
普段は天辺近くまでは登っても、旗の立った頂に登るのは怖かったのを覚えています。
 私の父は今思えばそれ程背が高くはなく、むしろ小さい方だったのですが、当時の私にとっては大きく、ジャングルジムの旗に捕まって天辺に立った時だけ私は父の背丈を追い越すことが出来ました。
そして、とんでもなく高い所に立った気持ちに、自分が大きくなった気分になったものです。
 
 


ジャングルジムは好きでしたか?
幼い貴方にとってジャングルジムはどんなに高く思えましたか・・・・・・・・・・・



ジャングルジムの天辺まで登れなかったあの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大きく大きく思えたジャングルジムは、今見ると小さく見え
無性に寂しい感じがするのは私だけでは無い筈です。

あんなに大きかったのに、今は自分の方が大きくなってしまった。
できればいつまでも、いつまでも自分よりも大きくあって欲しかったジャングルジム
いまはこんなに小さく思えるジャングルジム



 出来ることならいつまでも自分より大きくあって欲しかった・・・・・・・・・・



小さい頃の貴方は毎日のように、”じゃんけん”をしていた事でしょう。
最近 ”じゃんけん”をした事はありますか?・・・・・・・・・・・・・・・・





いつから、”じゃんけん”をあまりしなくなったのでしょう・・・・・・・・・・・・

一人で頭を洗えるようになった頃?

夜中に、一人でトイレに行けるようになった頃?

自転車の補助輪のとれた頃?

ランドセルを持たなっくなった頃?


”じゃんけん”で、何でも決める事ができた頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


出来る事なら”じゃんけん”で決めてしまえればどんなに楽かと思う事がありませんか?
仕事のこと・・・・・
家庭のこと・・・・・
恋人のこと・・・・・

話し合い、考えに考えなければ解決できない様な事も”じゃんけん”ならどんなに楽に決めることが出来るでしょう・・・・
あまりにも明快な、あまりにも公平な結論の出せたあの日々を、ふと懐かしく思うのは私だけでしょうか・・・・

誰と”じゃんけん”をしましたか・・・・・・・・・・・・・・

”じゃんけん”で何を決めましたか・・・・・・・・・・・・・

”じゃんけん”は強かったですか・・・・・・・・・・・・・・

貴方は小さな手でグー、チョキ、パーを毎日つくり、何を思ったことでしょう・・・・・・・・・・





 父と私の毎日の日課に”じゃんけん”がありました。配達されるコーヒー牛乳をどちらが先に飲むかを決める朝のイベントです。一本だけ取っていた父親用のコーヒー牛乳を、”じゃんけん”に勝てば先に一口飲ませて貰えるのです。負けたら父が先に飲み、残してくれた分を後から飲むのですが、何時しか私はコーヒー牛乳よりも、父との”じゃんけん”を楽しみにしていました。
 私の小さな手で作ったチョキが、父の大きな分厚い手のひらに勝った時の爽快感が何とも言えず。
毎朝の対決を心待ちにしていました。
 母は面白がって、私の勝った日はカレンダーに花丸を付けてくれました。
花丸が二三日続いた時などは嬉しくて嬉しくて、負けても父に先を譲り有頂天になったこともありました。


小さなグーでも、大きなチョキに勝てた喜び

分厚いパーに、小さなチョキで勝った時の快感

小さなグーでも、大きなグーに決して負けなかった頃


 妹とした”じゃんけん”は、時として後味の悪いこともありました。

まだ幼かった妹は”じゃんけん”のルールに甘んじることが出来ず、負けても権利を主張することがよくあり、その度に私は譲るかどうかを良心と相談しました。

 ある時は食べたかったショートケーキのイチゴを譲り、またある時はテレビのチャンネルを譲りました。でもどうしても私の見たい番組の時などは、テレビのチャンネルを外して隠しておき、彼女が変えられない様にした事もあります。当時の我が家のテレビはチャンネルや、スイッチボタン、音量チャンネルが引っ張ると簡単に外れるタイプでした。チャンネルを隠しておけば妹は負けた時は素直に引き下がり、勝った時は必死でチャンネルを探します。無論彼女が勝った時には、私も一緒に探す振りをして彼女の目に付く所にそっと置いてやりました。


 多くの場合は”じゃんけん”に関わらず妹に譲ることの多かった私ですが、祖母にもらった見たことのない果物の時だけは、頑として譲らず、二つに切り分けられた大きい方を自分の物にしてしまいました。
その時の妹は大きいほうが貰えなかった為と言うよりも、私に譲って貰えなかった事の悲しさと思い道理にならなかった事の悔しさから大泣きして、自分の果物にも手を付けない程でした。
 見かねた母が台所から除いた時には、きっと私に譲るように言うものだと確信しましたが、母は「じゃんけんで負けたんだから泣いていても駄目だよ。」と言いました。
 更に泣き続ける妹をよそにほお張った果物は甘くもなく、酸っぱくもなく、ただ粘土のような食感でとても不味かったのを覚えています。ただその時は意地になり、まるで胸の奥の罪悪感を噛み潰すように、飲み込むように、無理して美味しそうにほお張りながら妹の泣き顔を見ないようにしていた私でした。
 「美味しかった?」と聞く母に
「うん・・」と答えた事までは覚えています。

 今でもスーパーで、当事では本当に珍しかったあの果物を目にするたびに、当事の苦い”じゃんけん”を思い出します。

ランドセルは重くはなかったですか?


初めて勉強机に座った日のことを覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・


小学校の先生の名前は覚えていますか・・・・・・・・・・・・・


どんな先生でしたか・・・・・・・・・・
男の先生?
女の先生?

こわかったですか?
優しかったですか?



どんな教室でしたか・・・・・・・・・・覚えていますか?
木造でしたか?
机はどんな机でしたか?


壁には何が貼ってありましたか?


初めて自分の掻いた絵が貼ってもらえたときの事は覚えていますか・・・・・・・





 私は絵を描くことが好きな子供でした。
大好きな乗り物や、おもちゃの絵を描くときなどは、絵に描いたものがまるで自分物になるかのように思えました。海やプールの絵を描くときは、自分を中に登場させれば、絵に描いた場所に実際に来ているような気持ちになりました。幼稚園の頃は毎日の様に、クレヨンで色々な絵を描いて遊んでいたことを覚えています。

そんな私が小学校に入って初めて水彩画のセットを手に入れた時には、うれしくてうれしくて、セットの中にある3本の絵筆を持ったままお風呂に入り、石けんを絵の具代わりにお風呂の壁に大きな絵を描いたものです。
 学校では図工の時間が楽しみで、少しでも沢山絵を描きたい私は、配られた画用紙に絵を描き終えてしまい、その画用紙の裏面がまだ白紙であることに目を付けました。
 今思えば無謀な挑戦ですが、当時の私は迷わず画用紙を裏向けて新しいキャンパスに向かいました。

それは恐らく水彩画の経験が浅く、クレヨンや色鉛筆でのお絵かきに慣れていたためでしょう。
紙の表裏に絵を描く事に対して何の戸惑いもありませんでした。

しばらくして裏側にも絵を描いて満足した私が、画用紙取ろうとした時、初めて異変に気づきました。
最初私は、何が起こっているか理解できませんでした。画用紙はしっかりと机に張り付き、無理をすると絵が破れてしまう事は幼い私にも十分理解できました。

先生から絵を前に持って来るように言われた時は、目の前が真っ暗になる思いでした。
意を決した私は、思い切って剥がし・・・・・・・
以来私はクレヨンでも、色鉛筆でも裏側に絵を描くことはなくなりました。

 最後に絵を描いたのは何年前でしょうか?
今週の日曜は久しぶりに絵を描いてみようかと思います。
学校では新しいお友達はできましたか・・・・・・・

喧嘩はよくしましたか?

何をして遊びましたか?



学校は遠くありませんでしたか?

学校の帰りは貴方にとって毎日が冒険だったかも知れません。





その頃の洋服はまだ残っていますか?

その頃の教科書は、ノートは、まだとってありますか?

ページをめくると何十年か前の貴方自身が顔を覗かせるかも知れません。
 まだ入学して間もない頃、一人で家に帰ろうとした私は道に迷ってしまったことがありました。
家から学校までの道のりは、さほど遠いものではありませんでしたが当時の私にとっては学校のあった地域は行動エリヤの外であり、なじみの商店街もなく、やっと覚えた通学路だけが便りでした。

 ただその日は何故か通学路とは別の道で帰ろうと思い立ち、大きすぎるランドセルを背負い冒険に出たのです。
 この角を右に曲がれば通学路のとおりに帰れると言う場所をあえて真っ直ぐに進み、私の冒険が始まりました。
 
 やがて始めてみる神社が右手に見え、神社の中に入って行くと、そこには幼稚園がありました。
私の知らない幼稚園、見た事のない遊具が並び私を誘惑しました。
 ランドセルを背負ったままの私は、タイヤで作られたブランコに乗り、初めて乗るブランコに興奮を覚え、上下に揺れる見慣れない景色を楽しみました。

 しばらくして回りに見慣れない子供たちがいるのに気づいた私は、急に居心地の悪さを感じて逃げるように幼稚園を出て、神社の境内に戻りました。そこは先ほど通った境内とは様子が違い何か寂しげで、怖い感じがしました。
 急ぎ足で神社を出た私は急に家が恋しくなり、いそいで家の方向に歩き出しました。
その時はもう、見慣れない商店街に興奮を覚えることはなく、道行く人が皆私を見ている様な気がして、駆け抜けるようにして家路を急ぎました。

私が家の方向に延びていると思った道は、右に大きく曲がり、次第に家の方向からづれて行った様で、行けども行けども馴染みの道には出る事がありませんでした。

しばらくして私は見慣れない学校に出てしまい、校庭では大きな人たちが体育の授業をしていました。
実はそこは高校で、家から2kmほどの場所でした。私は学校から真北に家に向かったつもりが結果として東に向かってしまい、見た事のない高校に来てしまったのです。
途方にくれた私は、来た道を引き返すという事に気づくことが出来ず、なんと学校の中に入っていってしまったのです。

実はこれには理由があり、私の家の近所に小薮という中学の先生が住んでいたのです。近所ということもあり、子供のいなかった先生は私を可愛がってくれていました。
私は辿り着いた場所を中学だと勘違いし、きっと小薮のおじさんがいると思い入っていったのです。
不思議な光景だったでしょう。
大きすぎるピカピカのランドセルを背負った黄色い帽子が、授業中の高校のグランドを横切り、校舎の中に一人消えて行く。

 その後の事は何故か良く覚えていません。
ただ立派な応接室に、ふかふかの椅子に座ってお菓子を食べていると、祖母が迎えに来てくれました。特に泣いた記憶も無く、祖母が来るまでの間、知らないおばさんや、おじさんが何人か相手をしてくれた事。電話番号は分からなかったけど、ちゃんと自分の名前が言えた事、でも小学校の名前は覚えていなかった事・・・・。

 ランドセルの裏には、その日以来住所と電話番号の書かれたシールが内側に貼られました。
それは高校の先生の誰かが、書いてくれたシールでした。
冒険の戦利品でした。


 後で聞いた話では、私は校舎に入るとすぐに捕獲され、職員室に連れて行かれたそうです。
先生達は、最初誰か職員の子供だと思ったらしく、しかしどうも迷子だという事になり、近くにある三つの小学校全部に問い合わせてくれたようです。

 ただ偶然とは不思議なもので、そこの教頭先生は祖父の友達だったらしく、後日祖父が教頭先生の家にお礼に行った時にも付いて行き、お菓子と色鉛筆を頂きました。



 更に偶然の恐ろしさを知ったのは、私が高校に入学したときでした。
実は私はその学校に入学し、当事の私の相手をしてくれた先生の一人がまだその学校にみえ、担任までして頂きました。

最初は先生も気づかなかった様ですが
なんと保護者面談の時、母が余計な昔話をしたばかりに・・・・




私は在校中先生方に頭が上がりませんでした・・・・・・・。






初めての教科書やノートには、ひらがなの名前が書いてあった事でしょう。
どなたが書いて下さったか覚えていますか?



自分の名前は練習しましたか・・・・・・・・・・・・

誰に教わりましたか、お父さん?


鉛筆を忘れたことはありますか・・・・・・・・・・・・・・

忘れ物をした時は、この世の終わりの様な気がしませんでしたか?

こっそり取りに帰った事はありますか?


授業中怒られた事はありましたか・・・・・・・・・・・・・

おしゃべりをしていたのですか?

他ごとをしていたのですか?









遠足のお弁当は覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・

誰が作ってくれましたか?

前の日はよく眠れましたか・・・・・・・・・・・・・・


てるてる坊主は、つくりましたか・・・・・・・・・・・

どんなてるてる坊主をつくりましたか?どこにつるしましたか?







水筒は重くはありませんでしたか?

どこに行きましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



覚えていたら日曜日にでも行ってみませんか
お子さんがみえればお子さんを連れて

恋人がみえればお二人で

もちろん一人で行っても小学校の頃の貴方に会えるでしょう。


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