20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:エチュード 作者:スクラトフ

第9回   9
 ユリがピアノの前に座ってから、数分経った。その間、聴こえたのは、外で車が走り去る音、レオシュが後ろ足で首筋を掻く音だけだった。悠治は眉間にしわを寄せ、じりじりしながら言った。
「いつまで座ったままでいるつもりなんだ」
 しかし、鍵盤に添えられた指は動き出さない。何か心ここにあらずといった様子で、ユリは全身を硬くしている。再び沈黙が流れる。悠治は辛抱強く待っていたが、もう少しで苛立ちが頂点に達するというところまできた。そのときユリが、指ではなく、静かに唇を動かした。
「やっぱり弾けません」
 悠治は危うく怒鳴り散らしそうになった。こんな人を食った態度で、ピアノを習いたいなどとよく言えるな、どうせピアノはただの口実で、実は家出娘かなんかだろう、警察に突き出してやる、といった文句が頭の中に次々よぎった。しかし、口に出すのは堪えた。悠治は、出来る限り静かに言い放った。
「帰りなさい」
 するとユリは憮然として答えた。
「いやです」
「じゃあ弾け」
「いやです」
 これほどまで他人から神経をいらつかされるのは、生まれて初めてだと、悠治は思った。自分がもう少しでも荒っぽい人間なら、頬に二、三発平手を食らわして、何が何でも叩き出すところだ。悠治は立ち上がってユリに近づいた。
「じゃあ出て行けよ」
 低い声で凄むように言う。ユリは悠治をまっすぐ見上げる。目を潤ませて、さりげなく哀れっぽい表情を浮かべている。それがまたしても鼻につく。芝居はもうたくさんである。悠治はユリの腕を掴んで引き立てようとした。相手は十代の女の子である。荒っぽくすれば傷つけかねないから、出来る限り力を和らげながらそうした。だがユリは悠治の手を振り払った。そして、言った。
「私を追い出せば、警察に駆け込んで、ここで乱暴されたと言ってやります」
 呆れるほど筋違いな話である。ピアノ教師でもない自分の家に、ピアノを習いたいといって突然押しかけ、仕方なく家に上げてコーヒーを振舞って、ピアノを弾けといったら弾けません、挙句の果てに追い出せば警察に訴えるなどと脅迫するのだ。馬鹿馬鹿しさに思わず、失笑がこぼれた。同時に途方にくれた。どうやったらこの小娘を追い払うことが出来るか、見当がつかなくなった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 4453