ユリと名乗った少女は、コーヒーを飲み終えた。 「ごちそうさまです」 ユリの置いたカップと皿が触れ、少し湿った高い音がした。悠治は心の中で、A、とつぶやいた。生活音を楽音として聞き取る癖がすっかり身についている。絶対音感に加えて、記憶力にも優れる悠治は、どんなに不明瞭で複雑な音列でも、一度聴けばピアノで再現できる。だから、こうした生活音を記憶して、即興演奏に生かすこともする。ユリには悠治のそういう演奏の特質が分かっているのだろうか。その上で、ピアノを習いたいというのだろうか。これは天賦の才のなせるわざである。教えたからといってできるようになる類のものではない。それは悠治自身がよく自覚しているのだった。 「手は充分暖まっただろう」 悠治は部屋の中央に置いたグランドピアノを指し示して言った。 「そろそろ聴かせてくれないか」 ユリには無駄に演奏をさせることになる。しかし、気に病むつもりはない。悠治は、自分の気ままな生活を、何人にも邪魔させたく無かった。この少女と関わるのはこれっきりだ。二度と家に寄せ付けまい。 途端にユリは緊張した面持ちになった。口をつぐんで、肩で息をし始めた。やや大きく見開かれた目は、焦点を失って、カーペットを敷いた床の上を漂っている。また急に様子が変わったようである。 「どうした?」 悠治が訊くと、ユリははじかれたように立ち上がって、ピアノに向かって足を踏み出した。その足がひどく震えている。まっすぐ歩くのが難しいようにさえ見える。もしこれが緊張であるなら、病的であるとさえ思えた。しかし、悠治はもう猶予しないつもりである。黙ってユリがピアノに近づくのを見ている。 ユリが椅子に座るのを見届けてから悠治は訊いた。 「何弾くの」 「何でもいいですか」 「何でもいいよ」 するとユリは上を向いて、二回深呼吸をした。そして、鍵盤に指を添えた。しばらくのあいだ沈黙が流れた。
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