ガスにかけた水が沸騰しきる前に薬缶を上げ、その中身をドリッパーを乗せたカップに満遍なく注ぎ込む。香ばしい黒い芳香が立ち上る。コーヒー豆は、クラルテの店主から、毎月給料から天引きで分けてもらっているのだ。店主が長年独自に研究を重ねてブレンドしたこの豆を、悠治はどこのコーヒーよりも気に入っていた。口当たりはまろやかだが、後味に少しだけ酸味がある。全体として味わいはすっきりとしている。普通、コーヒーを飲みすぎると口の中が焼け付くような感覚が残るが、この豆にはそれが無い。店主曰く、どちらかというと女性向けに発明したそうだが、胸焼けを起こしやすい悠治にはちょうど良かった。沸騰しきらない温度の水で入れるのがいいというのは、店主が教えてくれたことである。 カップを持って音楽室に帰ってくると、ロングコートを脱いだ少女がレオシュと戯れていた。グレーで細身のタートルネックセーターは、少女の華奢な体の線をよりあらわにしていて、特に腰の辺りは、抱えれば折れそうであった。……抱えればだと? 悠治は邪念を払った。 鼻先を行き来する白く細い手指を、レオシュがこっけいなほど真剣に目で追っている。毛の生えた前足を心持ち上げ、獲物を捕らえるタイミングをうかがっているのである。 「しばらく爪切ってないから、引掻かれたら怪我するよ」 テーブルにコーヒーを置きながら悠治が言うと、少女は手を引っ込めた。目標を見失ったレオシュは、目をくりくりさせたまま動きを止めた。 「ありがとうございます」 少女は湯気の立つカップを見ながら会釈した。しかしなかなか手をつけないようである。かすかに揺れる黒い液体の表面を、じっと見つめている。悠治は少女が何を気にしているのかすぐに気がついた。 「ミルクと砂糖が欲しいのかい」 少女が頷いた。ミルクは無かったので砂糖だけ持ってくると、少女は三匙入れてようやく口をつけ始めた。カップを少しずつ傾けながら少女が言った。 「可愛い猫ちゃんですね。毛並みが長くて、おじいちゃんみたい」 「まだ二歳にもなってないけどね。去年拾ったとき、まだ子猫だったから」 「捨て猫だったんですか?」 「そうだよ」 「すごーい」 そうは見えないという意味だろうが、妙な感心の仕方をするものだ。 「名前はなんていうんですか?」 「レオシュ」 すると、自分が呼ばれたものと勘違いしてレオシュが振り返り、返事をした。それを見て少女が声を上げて笑った。そういえば、少女の名前をまだ聞いていないことに悠治は気がついた。ピアノを聴くだけ聴いたら、適当に理由をつけ、結局教えることは出来ないと言って家に帰すつもりだったから、別に知らなくてもいいのだが、なんだか気になった。 「君は名前はなんていうの?」 悠治は何気ない風に聞いた。すると少女は微笑んだ。どことなく得意な笑みだった。悠治はまたもや、相手の思惑にはまったと感じた。名前を知らない間柄ではなくなる以上、今後まったく赤の他人とはいえない。少女は悠治の質問に答える権利がある。耳をふさぐわけにもいかない。 「私は熊本ユリっていいます。十八歳の高校三年生です。先生は?」 「何?」 「先生の名前も教えてください」 「……悠治」 六つも年下の小娘に、手玉に取られているかと思うと癪であった。悠治の返事は知らず不機嫌になった。が、悠治がそうして不機嫌さを現すことさえも、計算のうちに入っているかのように、少女のその笑顔はまったく曇らないのであった。
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