泣く女の扱いかたなど知らない。だからといって、泣かせたままでいるわけにもいかない。悠治はしばらく少女の姿を見下ろしながら考える。たかがピアノを教えるだの、教えないだのという話で、こんなにも感情を激する人がいるのかと思うと、不思議であった。ずっと一人でピアノを弾いてきた悠治には、理解できないことであった。しかし、少女には少女なりの差し迫った事情があるのだろう。ピアノを教えるというわけにはいかなくても、自分が何かしら手助けできる可能性を考えるぐらいならできる、と悠治は思った。とにかく、この状況にはある程度妥協せねばならなかった。か弱い肩を震わせて泣く少女を、冬の夜の街路に追い返すのは、あまりに不人情である。 仕方なく悠治は言った。 「じゃあ、君のピアノを聴かせてもらおうか」 すると少女は涙を拭きながら、鼻声で言った。 「教えてくれるんですか?」 「それは分からん。聴いてから考える」 悠治は玄関の敷居を上がって、少女に向かって手招きした。少女はポケットティッシュを取り出して鼻をかみ、乱れた髪の毛を手ぐしで整えてから、ブーツを脱ぎに掛かった。もう肩を震わせてなどいない。悠治はこれは一芝居打たれたかな、と思った。ピアノを習いたいというのは嘘ではないだろう。しかし、その目的を達するために、少女は泣いて見せたようである。嘘泣きとも思えないが、ある程度演出はしただろう。何しろ泣き止んだあとの片付け方が、手馴れている。 しかし、たったいま言ったばかりのことを撤回するわけにもいかない。少女はブーツを脱ぎ終わり、廊下に上がってきた。 「お邪魔します」 悠治は返事をせずに、ピアノを置いている部屋へと歩いた。少女も何も言わずについてくるのだった。 悠治の家では、六畳の部屋をまるまるピアノを弾くためだけに確保してある。窓や壁は防音処置を施してあり、夜中に大きな音を立てても苦情は来ない。これはもともと悠治の父親の仕事部屋だった。父親は音楽教師をしていた。それなので、悠治が、たとえ遊びでもピアノを弾くことを喜んでいたようだが、決して自分から教えようとはしなかった。音楽大学のピアノ科を卒業し、プロの演奏家として通用するほどの腕前をもっていた父親は、悠治が十歳になったとき、自分でピアノを弾くことをぱったり辞めてしまった。少なくとも家の中では弾かなくなったようである。そして寂しそうに、悠治にこう言ったのである。 「この部屋は、これからはおまえのためだけに、使っていいのだよ」 「どうして?」 と悠治は訊いた。父親の寂しげな表情が、子供心にも心配であった。 「そのほうが、ずっと意味があるからさ」 そのときからこの部屋は悠治のものになった。悠治は存分にピアノを弾くこと、否、ピアノで自分の好きな音楽を作り出すことに没頭した。そのうち、父親は音楽教師を引退し、妻と共に山陰の義父母のところへ移り住んでしまったことはすでに述べたとおりである。 悠治がピアノ部屋に着いて、電気を点けると、後ろで少女の声がした。 「すごーい、先生の音楽室なんですね」 もう少女は、悠治を先生と呼ぶことを決め込んでしまったようであった。それもひとつの策略のように思えた。悠治は内心うんざりしていたが、できる限り無感情に努めた。 「温かいものでも飲むかい」 「あ、お願いします」 「コーヒーしかないよ」 「はい、いただきます」 少女はにこやかに答えた。先ほどまで泣いていたとは、とても思えなかった。 悠治は額を押さえながら台所に向かった。
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