「で、何の御用です」 同じ言葉を繰り返さなければならないことに少しいらつきながら、悠治は訊いた。少女はうつむきながら言う。 「突然ご自宅まで押しかけてしまってすみません」 悠治はますますいらついた。 「そういう挨拶はもういいですから」 本人は礼儀を重んじているつもりか知らないが、時間の無駄である。少々無礼でも構わないから、すっぱりと用件を切り出したほうが、よほど先方に好感を与えると考えることが出来ないだろうか。 悠治は、小さい子に言って聞かせるように、言葉を切りながらゆっくりと、再三問うた。 「用は、なんなのですか」 「先生にピアノを習いたいのです」 少女は小さな声でようやく答えたが、悠治には言っていることの意味が分からなかった。 「先生って?」 少女は上目で悠治の顔を見た。それで少女の言っていることの意味が分かった。しかし、納得はいかないのであった。音楽の教育を一度も受けたことが無い自分が、ピアノの先生と呼ばれるなどとは思いも寄らない。 「誰からここの場所聞いたの」 少女はいったん首を振ってから、再びうつむきながら答えた。 「今日、喫茶店で先生のピアノを、閉店までずっと聞いてました」 「じゃ、終わってから、あとをつけてきたの」 少女のうつむいた首がますますうつむき、後ろ髪が両肩に流れて、白いうなじが見えるほどになった。悠治はそれを見て、少しどぎまぎした。邪念から逃れるように靴箱のほうに視線をずらした。一呼吸つき、落ちついてから悠治は答えた。 「残念だけど、教えることは出来ません」 すると少女は決心したように顔を上げ、食い下がった。 「せめて、私の演奏を聞いてから決めていただけませんか」 突然少女の表情に強い意志が表れたので、悠治は戸惑ったが、努めて冷静に答えた。 「君、ピアノが弾けるの」 「五歳のころから習ってます」 「なら、なおさらだめだ」 「どうしてですか」 「僕は誰にもピアノを習ったことない。だから教えることも出来ません」 「そんな」 にわかに少女の目から涙がこぼれた。最初黙っているかと思ったら、実は感情が極端に揺れ動く性質らしい。悠治は苦りきった表情をして、顔を背けた。一度だめだと言ったら、潔く帰っていって欲しいものである。のみならず泣き出してしまっては、ますます手におえない。 「先生、どうしてそんな嘘をおっしゃるんですか」 「その先生ってのはやめなさい」 「ピアノを習ったことが無いのに、あんなにきれいな音が出せるわけ無いじゃないですか」 「知りません」 「そんな見え透いた嘘をついてまで追い払おうとするなんてひどい」 「なんなんですか、君は」 少女は肩を震わせて本格的に泣きはじめた。
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