悠治は歩いている間、鼻歌を歌っていた。とても複雑な旋律を、途切れることなくハミングし続けた。鼻歌も即興なのであった。歌っていれば、どこへ行くにも道中退屈ではない。十五分ぐらいはあっという間である。 玄関を開けると、暗がりで緑色の光がほのかにちらついている。それがみゃおんと鳴いた。兄やん、と言っているようにも聴こえる。 「レオシュ」 と呼ぶと、鳴き声が少し高くなる。電気を点けた。敷居の上に、灰色の長い毛並みをした猫が行儀よく座っている。近所で餓死しかかっていたところを助けて、そのまま飼っているので、元は野良猫なのだが、なかなか高貴な顔つきをしている。夜の丸い目つきで、悠治をまっすぐ見上げている。仕事帰りにいつもこうして出迎えるレオシュの顔を見ると、悠治は思わず頬がほころぶ。しかし、出迎える以上、レオシュには何か要求があるのだ。 「ごはーん」 はっきりそう鳴く。これを聞くとますます頬がほころぶ。 「わかりましたよ」 言いながら靴を脱ぎ、敷居に上がるとレオシュは頭を足元に擦り付けてくる。抱き上げて餌皿の前に連れて行き、キャットフードを一掴み盛り付けると、レオシュはわき目もふらずにがっつきはじめた。 猫のそうした現金さを、寂しいと思うことは思うが、猫にとって餌が一番の楽しみなのだから、当然である。自分にとって音楽を「聴く」のが一番の楽しみであるのと同じだ。もともと「ピアノを弾く」ことよりも、悠治は「音楽を聴く」ことのほうが好きなのである。ピアノを弾いているのは、音楽を聴くことが好きで好きでたまらなかった自分が、やがて出来合いのものでは満足できなくなり、自分で好みの音楽を作りたくなったからに過ぎない。それを自分で聴いて楽しんでいるのである。しかし、そういう彼の作る音楽を喜んでくれる人がいるので、結果的にピアノを弾くことが仕事になっている。悠治にとっては、ただ自分の無類の楽しみを、お茶を飲んでいる人たちに相伴させているぐらいの感覚しかない。もちろん、店主から「あまりわけの分からん曲はやるな」と念を押されているので、分かりやすい音楽の範囲で楽しんでいる。 猫はあっという間に皿についていた餌を平らげてしまった。そして、再び悠治の顔を見上げて「ごはーん」とねだる。しかし、レオシュは少し太り気味である。 「ダイエットをせねばならんのだぞ、レオシュ」 そう言いながら目を覗き込むと、レオシュは、分かっているような、ぜんぜん分かっていないような、しかしどちらにしても賢そうな目つきで悠治を見つめ返した。悠治はレオシュの頭を撫でた。 そのとき、玄関でベルが鳴った。
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